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2014年09月11日
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⑵ 二宮尊徳の科学的・合理的思考方法について
札幌農学校校長佐藤昌介は、二宮尊徳翁五十年祭祭文で二宮尊徳の思考法は西洋の学問とほぼ合致し、治国安民の大本を確立したと称えた。(傍線編者)
「それ先生は天地生々の大徳に報い、至誠実行を以て経済の要義と為す。・・・分度の法を立て、入るを量って出るを為し、信用組合の道を設けて相済い相保つが如き、これを西哲の学説に比するに大率符節を合すが如し。ああ先生は西洋科学の未だ我が邦に入らざるの前においてよく天下民衆のためにこの千載不磨の真理を発揮し、治国安民の大本を確立するもの、・・・先生の古今独歩なる所以にして、誰か景仰せざるものあらん。」
 岡田博氏は二宮尊徳の思考方法の一つ、品を代えての繰り返し法に注目されている(「政道論序説」p.253)
『報徳積善談』七冊では、まず青芋を例に挙げ勤め励むべきことを説く。その後「大根」等九種、「茄子」等十種、「梅」等一〇種、「鯉」等一〇種、「鯛」等一〇種、「松」等一〇種、「たこ」等二〇種が同種の文で繰り返される。これは帰納法で天道の理を示そうというものに他ならない。後には数理そのもので天理を説明しようとするに至る。尊徳は仕法も統計的・数理的に始めに終わりを解明してから着手する。尊徳は科学的・合理的な思考の持主であった。
二宮尊徳の思考方法の一つ、知的実験については、佐々井典比古氏が『尊徳の森』(p.82)で紹介されている。「二宮尊親が大正三年に編んだ『二宮尊徳遺稿』の原理篇の中に、『未定稿』と仮題された断片的述作集がある。」と『報徳訓七八』(1-594)を紹介され、「尊徳が用いる『知的実験』の一つ」とされる。
「一 これまで仕掛け置き候、諸家様、荒地開発・窮民撫育・借財返済・村柄取り直し旧復の趣法、取行いの儀は、これまでのとおり(略)
一 今般荒地開発・村柄取り直し旧復の趣法について・・・先に仕るべき業を先に仕り、後に仕るべき業を後に仕り候ほか、順なるは無し。これにより、先後するところを知ること、左のとおり。
一 天朝、神道はもちろん儒、仏、三道相開け、あるいは仁義礼智信、あるいは五常、又は因果因縁、そのほか種々の法礼これあり、全く前後相わかりかね、困窮難渋仕り、遂に退転亡所まかりなり候儀につき、何ぶん前後諸業相わかりかね候とき、諸道・諸芸、達人・師範の人物、一村に一人ずつ取り分け、その師の教訓諸業に基づき、一村男女・大小人とも一芸を取り行い、差し支えの有無を試し候わば、前後・目前に相わかり候こと。
一 神道者あって神道善しと言わば、その教誨に付いて一村残らず神道を取り行い、差し支えの有無を試し申すべきこと 一 儒道者あるときは右同断 一 仏道者あるときは右同断  一 士道者あるときは右同断 一 農者あるときは右同断 一 工道者あるときは右同断 一 商者あるときは右同断。
 内容的に、大きく三段に分かれる。第一段は序言的な部分で、すでに手がけている諸州・諸家の仕法について、担当者がこれまでどおり指導・援助を受けに来ているが、町場での滞在の費用もかかり、もともと困窮のところ、気の毒なことだ。仕法の原資は昨年までに出払って、今はないけれども、貸付け分の償還をもって順次これを賄い、それぞれ仕上げてやりたいと思う、という趣旨である。これは尊徳が天保九年(1838)、本格的農村復興仕法開始のため、小田原に長期出張していた時のものと推定できる。第二段は、その農村復興仕法にあたっては、「一同術計尽き果て途方に暮れ」ている状況なので、まず人間の営みのうち、何を最優先しなければならないかを、徹底的に自覚させる必要がある。それは『大学』に「物に本末あり、事に終始あり、先後することを知れば、すなわち道に近し。」とあるとおりだが、では、その先後はどうしたらわかるか。それは「左のとおり」とあって、第三段に移る。
これは尊徳が往々用いる『知的実験』の一つである。
いま、わが国では神儒仏の教えがあってもそれぞれ最善の道と説くほか、種々さまざまな生き方、暮し方があって、どれが先、どれが後ともわかりかねる。そこで、一つの村の中で諸道・諸芸の達人とか師範といえる人物を、一道一芸につき一人ずつ選定する。そして、その先生の教えるとおり、一村こぞってその道ばかりを行ったとして、差支えがあるかどうか、一つずつ試してみれば、何が先、何が後かは一目瞭然だ。たとえば神道者が神道を最善と説いたとして、一村残らず神職になってしまったらどうか、それは差し支えがある。儒道者の場合も仏道者の場合も同じ。四民のうちの士も工も商も同じ。ただ一つ農者の道だけは、一村こぞって従事しても支障がない。これこそ人間文化の徹底、天祖開国の大道で、農村の復興は農民各自にその自覚をもたせることから始まる。―これが尊徳の意中だったのではなかろうか。」





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最終更新日  2014年09月11日 06時09分11秒



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