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2016年09月27日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
(九)安居院義道につきて始めて報徳の道に入る
 嘉永元年(一八四八)三十七歳にして、始めて報徳の教えを聞き、その門に入る。報徳の教えは二宮金次郎尊徳の始めて修める処にして、孔子のいわゆる徳を以て徳に報ゆるの意に基づく。その名称たる旧幕府の閣老大久保加州侯の選に出ず。その道とするや、業を励み、倹を行い、分に従い、財用の度を制し、余財を生じて窮を救い、貧をあわれむ、借財を引受け、無借となし荒地を引受け良田となし、禍を引受け福となし、不浄を引受け清浄となし、艱苦を引受け安楽となし、凡そ人のにくむ処は勤めてこれを身に引受け、以て人の好む処を与える。金を貸すに利を収めることを必とせず、いわんや高利を収めんをや。かつその教えに曰く、借財は借財の費えを以て消却の法を立て、荒地は荒地の力を以て荒地を開く、男女相和して子孫生じ、貧富相和して財宝生ず。菜の葉に生ずる虫は、菜の葉を以て己の分となす、人にして天分を知らざるものは、菜虫にしかず。禍福必ず応あり、善悪必ず報あり、米を蒔けば米草を生じ、米の花を咲き、米の実を結ぶ。麦を蒔けば麦草を生じ、麦の花を咲き、麦の実を結ぶ。物みな小を積み大となる。金を以て利倍積算して、人をしてその高大を知りやすくさせる。
 古の果実は今の大樹、今の果実はのちの大樹、勤業の図を作り、以て勤惰の分を明らかにし、父母の根元を述べて報徳の忘るべからざるを示す。千変万化説き来って尽きることなし。始め尊徳は相州小田原の領邑足柄上郡東栢山村の産なり。その家赤貧、しかも幼弱にして父母を喪(そう)し、その親戚に寄食する。生れて頴悟、すこぶる済世の志あり、辛苦数年にして大いに一家を起し、大久保侯の抜てきをうけ、その分家、宇津はん之助氏の采邑、桜町四千石の地の興復のことを施す。ここに年あり、幕府挙げて之に禄し、ややその管轄に及ぼす。清忠未だ之を知らざるなり。相州大住郡蓑毛村安居院庄七及びその弟浅田勇次郎は、伊勢、春日八幡の信者なり。而して二人かつて報徳の教えを聞く。神詣での途、これをその同行に説く。遠州長上郡下石田(浜松市)神谷与平治聞いてこれを奇とし、その伍保に語りて社を結び、初めて報徳の業を勤める。清忠聞いてしきりに思慕する。時に二人また掛川に至る。清忠行きて之を見る。これと語って大いに喜び、すなわち二人を家に請じ、討論日夜をつらね、おもえらく修身斉家、財を興し、国を富す。けだしこの道にこえるものなしと感服心酔、誓って志をここに尽さんと欲す。これより以来その書を謄写し、その義を究め、児輩を率いて農事を励み耕作肥培の法を精緻にし、稲を植えるに縄規を用い、麦を作るに七踏八転七糞の法を用いる。草履は自らこれを作り、飯汁自ら足るとし、屋壁修めず、衣服飾らず、家を治める厳、妻帑(さいど:家族)耐えざるがごとし。村民その業に感じ、その言に服し、社を結んでその教えに従うもの期年にして百有余人に及び、後遂に遠近に及ぶ。遠州の地、今に至って報徳の教え伝播し、ますます広きを加えるものは清忠の力、寡とせざるなり。

1 聞書之壱番 嘉永元年五月十九日 安居院義道と岡田無息軒両雄の初対面のときの問答(岡田無息軒三十七歳の自筆、報徳書「聞書之壱番」より抄)(報徳63(5)二二頁)
 掛川町十九首町中山八郎太夫より安居院義道、浅田勇次郎両大人が当町松屋へ逗留せりとの手紙をうけとった岡田無息軒は、早速松屋へ向って両大人に始めてお目にかかったのであるが、松屋の亭主も中屋の亭主も手前無息軒も、一同報徳の御理解(お教へ)を願ったけれ共、始めの中は、只々世間の善事のお話のみにて、御昼後になってようやく次の三首をしるし下され此歌の心を勘弁いたし物語り候ように御申しなされ候、その歌を左にしるす。
 飯としる、木綿着ものは、身を助く
    その余は我をせむるのみなり
此御歌、は天の御めぐみを思い、万事倹に相致すことと存候旨申上候。次に
 日々に積る心のちりあくた
    洗い流して、我をたずねん
此御歌は悪念を払い、尽し、大道に至るま場合と存候旨申上候
 梅の木は根も梅なれば種も梅 枝も葉も梅、花も実も梅
此御歌は大道の要を得心いたし、真実に行をつとむる場合、たとえば、うわべは金にて中は銅にては、然るべからず、外も金、内も誠、いわゆる金むく(純金)の儀と存候旨申上候
 右三首の御物語申上候処、誠にかくの如くその心得に候はば、御報のはなしを仕るべき旨御申成され候
 右三首の意味深き事也、正業を勤めて知る事
2 岡田佐平治が安居院から報徳を聞き、「この道に超えるものなし」と感服心酔したのは、『遠州方報徳主義の成立』海野福寿六七頁は「嘉永二年正月の誤り」とする。嘉永元年三月神谷与平治が「報徳連中」を結集し下石田報徳社ができる。四月二七日、佐平治は沢田村又六方で、天竜川以西においおい報徳連中ができたと聞き(六三頁)、掛川十九首町中屋八郎太夫から隣家、松屋に安居院兄弟が逗留することを知り、五月十九日に面会し報徳の教えを聞き、嘉永元年一〇月、掛川十九首町で中山六太夫を世話人として八人が義定書を作成し連中を結成し、十二月に倉真村下組で岡田佐平治が結社し、三〇人が加わった(同六四頁)とあり、嘉永元年が正しい。

(十)嘉永六年の大旱と祈雨
 この年旱天甚し。清忠九ヶ村の民を率いて十二相の社に祈雨する。雨を得ること方数里に及ぶ。即ち六月十六日より八月七日に至る五十有余日にわたるために豆禾やくがごとし。村民泣哭神として挙げざるなく、この牲を惜しむなく、祈祷をつくすと雖も、かつて神感あることなし。ある人、清忠に告げて曰く、当郡五明村(掛川市五明)に十二相の社あり。その境内頗る水に富む。湧泉今日なお流れて尽きず。この神に就いて雨を乞わば、あるいは感応あらんか。清忠聞きてこれを該村の里長松浦五兵衛にはかる。五兵衛曰く「然り乞うこの神をもって祈雨の地となさん」。清忠すなわち神籤を探る一を得たり、吉。
ここにおいて近隣九ヶ村の吏民とはかり、周智郡阿蔵村玖延寺の僧、逸栄を請じ、天地神明大竜王の二神を水辺に祭り、修法祈祷二夜三日に及び、而して清忠の丹誠日を貫ぬく、その祝文の略に曰く。「太局は無極にして太極なり、静にして陰を生じ、動いて陽を生ず、陰陽共に父母となり、万物生ず、風雨雪霜時に下り、寒暑来往以て草木人畜を育す、今雨なきこと数旬、草木枯稿かくのごとくそれ甚し、天理にはあらざるなり、そもそも人民の罪を懲らし、この譴怒を降したまうか、某乞う、誓って微力を尽し神儒仏之教の旨を奉じ、報徳の道を行い、隣里及ぶところの民を誘い、ともにともに禍をあらため、善を勤め、以て天譴を謝せんとす。いやしくも乾坤交り陰陽やまずんば、十二相大権現、天地神明大竜王祈願の旨を聴し、三日の内必ず感応以て農民と草木とを喜ばしめたまえ、吾が誓いやしくも偽り変ることあらば、速やかに一命を召さるべし。稽首してもうす」と。この時に当って九村の民鐘鼓相集る雲の如し。僧逸栄瑞禅日夜般若波羅蜜の法を修める。
 第四日に至る不思議なるかな、天油然として黒雲起り、沛然として甘雨降る数里、草木蘇生、人民始めて食を安んず。歓呼の声四方に振う。清忠天に感謝し、即ち米九十二俵を発して隣里九ヶ村の窮民に施与する、これを勧善の始めとする。松浦五兵衛は米十俵、その余の有志これについで感謝するもの数輩、この年十月新たに神殿を営み中に十二相大権現を安んじ、左に天地神明を祭り、右に大竜王をおき、浅田勇次郎によって、その扁額を三室戸正三位藤原陳光郷に乞う。郷その誠忠を嘉(よ)みし、速かにこれを筆し、別に一章の文を副えて之に賜う。清忠の神を敬する、けだしこれより深きを加えるという。

(十一)居村に報徳社を起して村里の振興に当る
 この年十二月、清忠居村報徳入社のもの、積縄法及び社中勤業の約を定める。けだしこれ今日の牛岡組報徳社の発端である。一戸毎朝縄一房、草鞋、草履その自由に任す。これを積んで度外の財となし、以て永遠に及ぼし、貧をにぎわし窮を救う。清忠即ち地方用達給米六俵、庄屋給料米五俵一斗四升を以て度外となし、年々その積金に加える。嘉永六年(一八五三)に至る。また別に金四十二両を出して善種金となし、社中に分賦し、勉励をたすく、然り而して社中業を怠りやすきを憂い、この月を以て始めとし、嘉永六年に至る満五年、毎朝未明その社中二十戸を廻り、その積縄を集める。寒暑雪霜風雨を論ぜず露脚(雪中と雖も、足袋股引を用いざるなり)草鞋一朝も怠るなし、未だ起きざるものあれば戸を叩いてこれを呼び、これを以てその脚の至らざる処と雖も、自ら戒め、当時敢てその暗を欺むくなきにいたれり。

(一三)遠州七人衆と共に二宮先生を日光に訪問す
 この年、八月同志数人とはかり、下野に行き二宮尊徳を日光山の旅館に見る。清忠かつて思う。数年、報徳の道を学ぶといえども、これみな安居院兄弟に聞くことにして、けだし未だその真を得るあたわず。もしそれ二宮氏に親炙(しんしゃ)して、その教誨をうく、益を得ること必ず多からんと。すなわち同志、森町村、山村里助、同中村常蔵、下石田村神谷久太郎、影森村、内田啓助、気賀町竹田兵左衛門、松井藤太夫らとはかり、行李(こうり)をおさむ。六人の者はみな報徳の信者なり。すなわちまず相州蓑毛村に至り、安居院庄七が家を訪い、また尊徳の弟子、同州曾比村の剣持広吉らを聞訊し、討論数日報徳の書数巻を写録し、遂に庄七を紹介となし、日光山の麓に至り、二宮尊徳を桜秀房に見る、その旅館なり。これより先、尊徳幕命を受け、日光神領興復のことに任ず、その方法の書たる、これを陰陽未判の始めに基づき、これを無尽の終りに帰す。勤惰の得失を詳らかにし、因果の応報を明らかにし、積小為大の実を開示し、興国安民を述べる。その起算は上(かみ)うがやふきあえずのみことの元年より、下(しも)嘉永五年(一八五二)に至る、およそ八十四巻、九年にて成るを以て、幕府にたてまつる、けだし尊徳一世の力を尽して編述するところ、その精神全くここにあり。ここにおいて幕府これに命じて曰く「日光神領荒地起返し、難村旧復の仕法申し付くる間、見込の通り御料私料、手広に取り行え」。この年を以て神領に着手する。清忠尊徳に面し、宿志を陳べ、口授を受け、益を得るはなはだ多し。家則を改正する法を問う、二宮氏清忠の所持する田圃、歳入の多少と年間の有余と不足とをつぶさに問訊し、かつて制定する相州大住郡片岡村、大沢小才太が家則を出し、これを指示して曰く、「この法可ならん」と。即ち清忠借りてこれを謄写す。また同行とともに、その撰述の書数巻を謄写す。かつ清忠自ら尊徳の肖像を戸隙よりうかがい、これを筆し欣然として笈裏(きゅうり)に納め、遂に告辞して去る。清忠の教えを信ずる、ここにおいてますます深し。その他の数輩もまた今に至ってその志変わらざるなり。





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最終更新日  2016年09月27日 23時51分08秒
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