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2019年11月21日
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戦後日本の再建に一役買わされた二宮尊徳の相馬仕法  岩崎敏夫

-本稿は、平成10年8月にご寄稿いただきましたが、紙数の都合や他稿の内容・時宜との関係等々で、大変遅くなってしまいました。
 なお、ご寄稿頂いた時の添え書きによると、先生は、数え年90歳におなりですが、毎日執筆活動に精を出して居られ、現在、二宮尊親の北海道開拓に関することをご執筆中とのことでした。-(岩崎敏夫先生は2004年10月28日逝去されました。)


 米国は戦争に負けた日本を、従来の行き方を改めて民主的な国にしようとし、それには手本にする民主的な人はリンカーンなど外国には沢山いるが、日本人で民主的な人を選んで示せば、人々はよく納得するだろう。それには、福島県の相馬で興国安民法(相馬では御仕法(ごしほう)と言っている)を実施して成績を挙げた二宮尊徳がよいということになって、二宮はどんな考えでどんなやり方をしたか教えてもらいたいと、相馬藩主家の当主相馬恵胤(やすたね)夫妻(相馬恵胤氏の夫人雪香さんは尾崎行雄氏の娘で、MRAで世界的に活躍している人である)に依頼があり、相馬さんから相馬仕法の調査の依頼が私にあったので、出来るだけ詳しく調査して報告したことがある。
 相馬は天明、天保の大凶作以来疲弊のどん底に苦しみ、藩では倹約一点張りの方法が多かったが、二宮の方法は積極的でそして今でいう民主的な方法であった。「衆目の目鑑(めかがみ)」ということや「十指の指す所」という言葉がよく使われたが、何事をやるにも村人全体の投票によった。相馬に御仕法が行われたのは弘化2年(1845)だったと思うが、成田、坪田という城下の土地を選んだのも、速やかに成績をあげて模範にするためであった。はじめ村の人々は全員集められて、御仕法とはどんなことかと見ていると、一番はじめの仕事は、村でよく働く者を記名投票させて、一番札から家を建ててやるとか無利息金を貸与するとか、農具を与えるとかであった。これまでしぼりとられることばかりであったから、当選者など嬉しくて夜も眠れず、明けると早々仕法役所にお礼に出たなど記録に見える。
明治になってからも政府のやり方はやってやる主義であるが、二宮のやり方は、至誠、分度、推譲、勤労の四つが徳目で、真面目に働く者が食う権利がある。ただ病気などで働けない者は助けてやる。助けられた者は感謝の気持を忘れてはならないというやり方であった。Aが病気などで困っているBのため1斗の米を恵んでやった時、恵まれたBではなく恵んだAに倍の2斗の米を褒美にやるという方法もよくとられた。勤労といっても簡単なことから始める。縄ないなどは女子供でも暇々に出来るから、出来たものを仕法役所であずかり、要る時に金に替えて倍にして与えるやり方など評判がよかった。

 二宮のことを倹約の権化(ごんげ)のように思っていたのは間違いであった。金やものは使うためにあるのだ。活用して小より大にすべきだ。ある村で仕法半ばに貯蓄をはじめて二宮から戒められたこともある。貯蓄は本当に余分ができてからでよい。

 こうして他人の手をかりずに自分達の手で道路が出来、橋が出来、荒地の開墾が出来る、出来たものは自分達の利益になる。猫の額のような狭い相馬に溜池が六百か所出来、旱害もなくなった。今までは百姓はしぼられるばかりで馬鹿にされ通しであったのに、農の有難さを知り、自信を持つ自作農に目覚めるようになった。恵胤氏が私に言われたことがある。相馬家では次のように伝えている。ききんで一番先に死ぬべきは殿様で、次は家老だ、百姓(農夫)は一番あとまで残されてはならないと。記録にもあるが飢饉後の藩主益胤などは毎日の食事は握り飯(焼飯)と一菜で、それも何年も繰り返している。困っているのは殿様も同じなんだと農民達も互に励まし合っている。二宮を助けたのは富田高慶らであるが、彼は朝暗いうちから仕法中の村まわりをする。まだ寝ている人を起こしたり、きびしい言葉をかけたりすることは決してなかった。全く自分のためのようであった。昼食に人の家に立ち寄ることがあっても、湯茶はのむがその他のものは出されても箸をつけず、又、贈りものは大根一本でも受けることをしなかった。寝ている人々は起きてみて、雨上がりなどわらじの足跡のあるのを見て、富田先生もうお出になったらしい、こうしていられないと仕事に精を出したという。

 ご仕法は結局農村再生改良事業であるが、溜池を掘るにも橋をかけるにも、上を頼らず、何事をするにも人々の意見を投票によって知り、事を始めている。だから文句の出ようがない。はじめに要る金は相馬家や篤志家から出してもらった。いわゆる善種金、報徳金であったから、これを感謝を以て無駄に使わず、そして労力は各自が提供する仕組みであった。これが分度、推譲、勤労で、基本は至誠であった。かくて天明、天保以来の荒蕪地はなくなり、新しく道路が出来、橋が架かり、借財が無くなり、村を去った人々も戻ってきた。仕法の大きな事業の一つは善行者表彰で、これを投票によって選び表彰することで、それも家屋や厩(うまや)、灰小屋、便所などの新築や改造など、すべて仕法の一環であり、やり方は今の社会教育の実践に通ずるものであった。二宮の方法は藩と農民の両方がよくなることであった。

 かくて数年かかって村が見違えるようによくなってから、はじめて備荒貯蓄をして、待ちのぞんでいる次の村に仕法を移すのであるが、これも投票によって決めるのである。

 御仕法は今にして思えば農民の負担があまりにも多く無理な点も多いが、一つの変わった新しい方法であったと言える。これも農民に対する搾取かも知れないが、単なる搾取でなく利益をそのまま農民に返すことであった。今まで太平になれて安逸をむさぼっていた人々に喜々として働かせた事実は括目(かつもく)に価する。

 相馬の仕法がよくいったのは人の和によるもので、やはり基本は、徳を以て徳に報いるという報徳精神によるものであった。藩主が承知しなければ何も出来ない封建時代であるのに、よくこれだけのことが出来た。はじめ二宮を一種の危険思想と思い、反感をもっていた領民も、草野正辰・池田胤直二家老よりの説得により、だんだんわかってきた。第一殿様の充胤(みちたね)がよく二宮を信頼し、二宮の第一の弟子なる富田高慶を信頼した。富田は殿様からすれば一家来に過ぎないのに、二宮の代りに相馬の仕法を見てくれる富田を先生と呼んで大事にした。富田は富田で藩の禄は全然受けず、藩のため仕法を実施した至誠一貫の人であった。富田の甥でもあった斎藤高行や、荒至重(むねしげ)ほか、身を粉にして尽している。斎藤などは仕法終了後、明治政府から礼を厚くして招かれても、大原の山中に隠れすんで世に出ようとしない学者で過した。荒は右田神社という神に祀られた人であるが、のちに懇請されていわき・平の町長になったこともある。尊徳の子の尊行、孫の尊親、みな相馬の為に働いてくれた。尊徳の娘文(ふみ)は富田の妻となって尽したが不幸早く亡くなり、その墓は相馬にある。尊徳は多忙のためと、相馬には任せられる人物が沢山おったため、一度も来る機会がなくてしまったが、相馬の殿様充胤は仕法終了後、尊徳夫人をはじめ二宮一家全員を相馬に招いて、家屋敷を与え優遇しているのも、うるわしい報徳精神のあらわれであった。二宮先生逝去されるや、遺髪を請うて愛宕(あたご)山に葬り、厚く祭きを絶やさない。相馬の市民憲章の中にもうたわれているごとく、二宮の報徳精神は旧相馬領内に今も活きているのである。相馬での二宮のやり方が日本再生にも役立ったかと思うと愉快である。





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最終更新日  2019年11月21日 06時19分10秒



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