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ピアニスティックの源流をたどる … (音楽)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
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2010.08.07 楽天プロフィール Add to Google XML

ピアニスティックの源流をたどる その7 ツィンバロンとダルシマー

P1010041.jpgピアニスティック、すなわちピアノらしい表現の源となったのは、ダルシマー音楽の発展形であり芸術昇華したパンタレオンの音楽であった・・・と、文章で書くのはやさしいが、そもそもダルシマー音楽とはどんなものだったのか。
実はこの楽器はいにしえより世界中に広まっており、その音楽がどのようなものであったのか一つの例を挙げて語るのは不可能だ。だが、それらはロマ、すなわちジプシーたちが各地を転々とする中で、ある場所からある場所へ伝えたりされていた。また、ジプシーが居留した場所でそれらの音楽が発展する例がヨーロッパ各地で見られる。その中にはスペインのフラメンコ、ハンガリーのフォークロアがあるが、特にダルシマー音楽はハンガリーにおいて発展した。

アテネ127.jpgダルシマーとは写真のように台形のボディーに金属製の弦が張り巡らされた構造で、大きさは様々である。ジプシーに好んで用いられた理由はやはりその携帯性であろう。それはヴァイオリンが彼らに好まれたのと同様である。ハンガリーにおけるジプシー音楽は深い叙情性と超絶技巧が特徴と言えるだろう。それはクラシック音楽の中でハンガリーのロマ音楽をモチーフにした作品・・・チャルダッシュ、ハンガリー舞曲、ハンガリー狂詩曲・・などなど・枚挙に暇がないが、これらの作品群にも表れている。

DSCF1639.jpgそれでは、実際にハンガリーのジプシー音楽におけるダルシマー演奏がどのようなものであったか聞いてみたいと思う。これはかなり「ピアニスティック」な部類に入るが、見かけはシンプルなこの楽器からこんな表現が生まれてくるのは驚異的である。

ダルシマー演奏(Hungarian Concerto)

P1010042.jpgつづいてツィンバロンである。この楽器はさらに発展して、大きさも大きく機構も複雑になっている。ピアノのようにダンパーペダルがついている。近代ではハンガリー民族音楽でよく用いられている。ダルシマーよりも表現が豊かだ。
ハンガリーのジプシー歌曲をCsicsó Németh Jánoの演奏で。

ツィンバロン演奏(Hungarian Gipsy Song)

P1010100.jpgダルシマーと言う楽器はヨーロッパから東アジアまで広く行き渡っていた。所によってサントゥールとか楊琴などと呼ばれている。この写真は中国の楊琴(ヤンキン)である。横に日本人形が置いてあるのは単に博物館の管理人が東洋文化をよく理解していないだけで、この楽器が和楽器でもあったということではない。しかし日本にも伝わっていた可能性は十分にあると思う。いずれにせよこの楽器が世界中の音楽文化の運び手となっていたのは事実である。
DSCF1573.jpgダルシマーと似ているが、弦をはじくことで音を出す「プサルテリウム」という楽器がある。系図上はダルシマーの前の段階の筏チターから派生したものであるが、プサルテリウムはまもなくチターへと発展していったのであまり広まらなかったようだ。僕が見たことあるのはブリュッセルとゲッティンゲンの楽器博物館の計2台のみで、あまりお目にかかれるしろものではない。ダルシマーがピアノの先祖とされるのに対し、プサルテリウムはチェンバロの先祖とされている。


Last updated  2010.08.11 03:47:38
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ピアニスティックの源流をたどる その6 Weissenfels

DSCF0647.jpgメルゼブルクの牧師にかくまわれていたパンタレオン・ヘーベンシュトライトはやがて自由の身となり1698年、ヴァイセンフェルスの王宮で音楽家およびダンサーとしての職を得ることとなった。

ヴァイセンフェルスはメルゼブルクから約30キロ南、ナウムブルクから北東約10キロのところにある。ちょうどハレとヴァイセンフェルスを結ぶ直線の真ん中にメルゼブルクがある。

町の中央には小高い丘があり、その丘の上に王宮が建っている、いわば城下町だ。


DSCF0658.jpgこのころからパンタレオン・ヘーベンシュトライトはツィンバロン奏者としての頭角をあらわし始めた。ライプツィヒやドレスデンで活動し、1705年にはフランスで演奏旅行し、パリで御前演奏を行った。この時ルイ14世からこの楽器の名前を「パンタレオン」と呼ぶように命ぜられたという。
それから、パンタレオン・ヘーベンシュトライトはフランスやドイツなど各地を演奏してまわり、当時の音楽家や楽器製造家に衝撃を与えた。
だれもがあんな演奏をしたい・・・とは思うがツィンバロンを彼のように演奏するのは普通の人間には至難の業であった。
そこで、チェンバロのような鍵盤楽器にハンマーをくっつければ、もっと容易にあのような素晴らしい演奏ができるのではないか。
この要望が、やがてピアノ発明の「母」となったのだ。


DSCF0648.jpgところで、ヴァイセンフェルスはハインリッヒ・シュッツが少年期を過ごした町でもある。ハインリッヒ・シュッツと言えば宗教曲やバロック愛好家には知られている作曲家で、J.S.バッハよりちょうど100年前に生まれたバロック初期の作曲家だ。ちょうど王宮の丘の麓のマルクトに面したあたりにハインリッヒ・シュッツ博物館がある。
僕がこの町に着いたときは既に午後4時で、博物館に入館するにはぎりぎりの時間だった。王宮の博物館とシュッツ博物館とどちらにしようか迷ったが、結局シュッツ博物館に入ることにした。入場料1ユーロと、とても安い。
内部は2部に分かれていて、右側はシュッツの生い立ちなどの説明、左側は楽器の展示と作品の紹介であった。


DSCF0656.jpg年表などが展示されている右側の展示室はとりあえずさっと見て、左側の楽器の展示されている部屋に入る。すると、係員がCDをかけてくれる。このCDはシュッツの作品の演奏と、展示されてあるどの楽器が使用されているかという解説であった。その解説にしたがって見物するという仕組みだ。
僕自身もそうであるが、シュッツと言えば声楽曲、宗教曲というイメージが強いのではなかろうか。少なくとも僕はそれしか聴いたことがなかった。だが、ここで聞いてみると意外に器楽曲もけっこうあるものなのだ。
バロック初期であるから、現在使われていない楽器も中にはある。
中でも、左写真の右側に写っている「ツィンク」という楽器はめったにみることはない。見た目には縦笛にトランペットのマウスピースをつけたような、シンプルで原始的な趣きのある楽器だ。


DSCF0660.jpgだが、演奏を聴いてみると何とも澄んだ、バロックトランペットをさらに鋭くしたような音がする。こんな原始的な楽器からこんな音がするなんて信じられない。
僕が興味深そうに「ツィンク」を眺めていると、係員の人が寄って来て、「この楽器、持ってきましょうか」と言い、奥の倉庫からなんと「ツィンク」を取り出してきた。手に持ってみるととても軽い。一応楽器分類上金管楽器ということになるのだろうけど、木製の管に皮を巻きつけた構造だった。
係員に「ちょっと吹いてみてください」と言うと、「私は吹けないので、あなたがどうぞ」と言う。
それではからずも「ツィンク」にチャレンジすることになった。なんとかトランペットの要領で吹こうとするが、ただ「ブー」という情けない音がするのみだ。
それに、どの穴を押さえても全く音程が変化しない。これはどういうことなのだろうか。横で係員が何かニヤニヤしているが、いったいどうやって音を出すのだろう、この楽器。一度生で演奏しているところを目撃したいものである。


DSCF0661.jpgこうしてパンタレオン・ヘーベンシュトライトの足跡を追ってみたのだが、見事なほどに彼は足跡を残していない。
ドイツには彼の名前にちなんだ道の名前さえ全くないのである。
しかし、こうして見ると彼の働いた場所はバロック音楽の中心でおのずとその影響は多々受けたであろう。
同時にダンス音楽のエキスパートでもあったことからそのような折衷が彼独特の音楽を生み出したと言えるのかもしれない。



Last updated  2010.08.09 05:29:48
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2010.07.25

ピアニスティックの源流をたどる その5 Merseburg

DSCF0752.jpgパンタレオン・ヘーベンシュトライトの生誕の地につづいて、その後の足跡をたどってみようと思う。
1691年1月にヴィッテンベルク大学に入学手続きしたと言う。その後、ライプツィヒでダンス教師と楽団でのヴァイオリン奏者の職を得ている。
その間、ベルリンの作曲家ヤン・バプティステ・フォルミーアを訪れ、また作曲家ヨハン・クーナウのもとでレッスンを受けている。
ライプツィヒについては、以前当ブログに書いたことがあるのでこちらをご覧いただければ幸いである。(ライプツィヒ・聖トーマス教会 →)
ライプツィヒ1
ライプツィヒ2


DSCF0662.jpgところが、パンタレオンは何らかの負債を負ったようで、追われる身となってしまった。そして、メルゼブルクの教会の牧師のもとにかくまわれることとなった。そのような事情から、しばらくメルゼブルクでの隠遁生活がつづくことになった。

だが、結果的にこの逃亡生活が後のパンタレオンを生み出す土壌となったのだ。
と言うのは、この期間に彼はダルシマー(ハックブレット)と向き合い、この楽器に日々改良を加え、独自の新しい楽器と音楽表現を作り出したからである。

すなわち、メルゼブルクでの滞在期間こそがパンタレオン音楽を生み出すための貴重な期間なのである。
というわけで、今回はこのメルゼブルクという町に注目してみたい。
(← メルゼブルクのマルクト広場)


DSCF0664.jpgメルゼブルクはライプツィヒの西、ヘンデルの故郷ハレの真南、ザーレ川沿いに位置する、中部ドイツで最も古い歴史を持つ町である。とりわけ”メルゼブルクの呪文書(Merseburger Zauberspruche)”という古文書の出所として知られている。古くは神話や迷信のさかんな町であったらしい。ちなみに「メルゼブルク」の町名はローマ神話に出てくる戦いの神「マース」に由来していると言われている。

しかし中世以降はキリスト教化され、マルティン・ルターもたびたびここを訪れていた。特に大聖堂のオルガンは素晴らしいことで有名で、毎年9月にはここで"Merseburger Orgeltage"という催しが行われている。ちなみにフランツ・リストはここのオルガンに感化されて多くのオルガン曲を作曲した。
(メルゼブルク大聖堂/ドーム →)


DSCF0666.jpg10世紀のはじめ、メルゼブルクの伯爵の娘ハーテブルクが東フランク王国の国王ハインリヒ一世と政略結婚したことから、この町にも砦が建設された。当時、このあたりはハンガリーから度々攻撃を受けていたのである。実はハインリヒはしばらくしてマティルデという美女に一目ぼれし、前妻ハーテブルクのほうは離別してマティルデを娶ることになるのだが、依然としてメルゼブルクには塁が築かれていた。
「リアデの戦い」でハンガリーを破った後、城は頑強にされ、内部はフレスコ画で豪華に装飾されたと言う。


DSCF0668.jpgさて、パンタレオン・ヘーベンシュトライトであるが、ある資料によれば彼はメルゼブルク付近の村に隠れ住んでいた、とある。それがどこなのかは全くわからないが、メルゼブルクの教会の牧師の家と言うから町の中心からさほど離れてはいなかったであろう。

いずれにせよピアノ誕生のきっかけとなったパンタレオンの音楽と楽器が、この文化と歴史の坩堝のような小さな街で育まれていったということはとても興味深い。


Last updated  2010.08.09 05:31:09
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2010.07.22

ピアニスティックの源流をたどる その4 Kleinheringen - Eisleben

ナウムブルク ピアノを誕生させるきっかけとなった、パンタレオン・ヘーベンシュトライト。やはり源流をたどるには、この人物像を追って行きたいと思う。とりあえず彼の足跡を直にたどってみよう。つまり、実際そこに足を運んでみようと思ったのである。まずは、生誕の地から訪れることにした。

 実は、パンタレオンは1667年にアイスレーベンで生まれたという説と1668年にナウムブルク郊外のクラインヘリンゲンという村で生まれたという2つの説がある。おそらく彼の家族がいずれの町にも滞在していて、そのどこかのタイミングで出生となったのではないかと思う。

 ちなみにアイスレーベンはマルティン・ルター生誕の地であり、ナウムブルクはニーチェが少年期を過ごした故郷である。ルターとニーチェという、何とも対照的な人物と故郷を共有しているものである。ちなみに上の写真はナウムブルクのドーム。

くら1ナウムブルクから車で約30分。手入れの悪いガタガタの山道を行くと、クラインヘリンゲンに到着。

 行ってみると、「村」と呼ぶにもまだ小さい集落だった。それに小さな山上の村で、ほぼ陸の孤島と言ってもよさそうだ。村の周りは広い麦畑と放牧地で囲まれており、他の村との交流も当時の交通の便を考えるとそんなに頻繁にできるものではないだろう。

 一番近い隣村はグロースヘリンゲン、つまりクライン(小)とグロース(大)で姉妹村のようになっているようだが、ここまででも約1,5km離れている。

 当時の健脚な農家の人々であればさほどの距離ではなかったのかもしれないが、現代人には山道を1,5キロ歩くのは少々しんどい。

くら2 村の中央には小さなプロテスタント教会があった。
 中世の都市の教会のような大きなものではなく、せいぜい民家を広げて礼拝ができるようにした程度だ。

 今でも村民は100人にも満たないようなので、村人全員が教会に行っていたとしても十分な大きさではある。

 パンタレオンがこの村で幼児洗礼を受けたと言うことは、おそらくこの教会で洗礼を受けたのだろう。


くら3 村の入り口のところに、ペンション兼レストラン兼博物館があった。これがこの村で唯一文化的な施設だった。

 博物館に行けば、ひょっとしたらパンタレオンに関することも何かあるかもしれない・・・と思い、入場料2ユーロを支払い、中に入った。すると・・・
 なんと言うか、埃っぽいというかかび臭いというか、全長100メートルほどのスペースに所狭しと農機具などが置かれていた。展示と呼ぶにはかなり雑な置かれ方だった。

 いろいろな古い器具類などもあってそれなりに興味は湧かないでもないが、パンタレオンに関することは何もなかった。

 要するに、この村の産業は農業と畜産業がすべてで、村人は皆それに関わっていたことになる。パンタレオンがここに住んでいたということは、少なくともその時期彼の家族が農業を営んでいたと言うことになる。

ruta.jpg クラインヘリンゲンから40~50キロ北上したところにアイスレーベンがある。

 この町にはLutherstadt、すなわちルターの町というタイトルがついている。それだけに町中ルター一色である。町の真ん中にはルターの銅像が町を見下ろすように立っている。

特にパンタレオン・ヘーベンシュトライトにゆかりのあるものは見当たらなかったが、ルターの生誕、そして最後を遂げた町として歴史的には重要な町だ。

ルターゆかりの地としてはアイゼナハ、ヴィッテンベルクがあるがこちらの2つの町は「地球の歩き方」にも載っている。しかしなぜかこのアイスレーベンは載っていない。
だから、この際書いてしまおうというわけである。

あい2 1483年11月10日にこの家でマルティン・ルターは誕生した。この建物はルター生誕の家として、ユネスコ世界遺産に指定されている。
ルターの一家は出生後1年足らずで引越したということで、ルターがこの家に住んでいたのはさほど長くはなかったようである。
1689年に大規模な火災があり、そのときに焼けてしまい、今あるものはその後建て直されたものである。

2005年から2007年にかけて改築が行われていたが2007年3月に再びオープンした。


ai4 ルターの生家のすぐ裏手にあるのがこの聖ペトリ‐パウリ教会である。後期ゴシック様式で建造された中規模のドーム型の会堂である。
少々奥まったところにあるので、ちょっと見つけづらい。

 ルターは誕生したその日にこの教会で洗礼を受けた。講壇上にはそれを記念する石文がある。
 
 内装で特徴的なのは伝説でキリストの祖母、マリアの母と言われていたアンナの肖像である。
 このアンナは中世においては聖人として尊ばれていた。

DSCF0682.jpg ルターは1546年2月18日に生涯を閉じた。この家はルター晩年の家として生家と同様にユネスコ世界遺産に指定されている。

 ところが、ここは実際にルターが最後を遂げた場所ではないらしい。1726年、オイセビウス・フランケという歴史家によって誤ってルターの家ということにされてしまった。それを受けて1862年アイゼナハ市がここをルターの最後の家として登録してしまい、1894年にルターゆかりの場所としてこしらえてしまった。
ここは現在ルター博物館となっている。

あい1本当のルターの晩年の家はマルクトに面したMarkt 56番地に位置する建物だそうである。その建物は現在では「ホテル グラーフ・マンスフェルト」として使用されている。
右の写真の左端にようやく写っている。



Last updated  2010.08.09 05:32:45
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2010.07.19

ピアニスティックの源流をたどる その3

以前から、チェンバロにデュナーミク、すなわち強弱の表現の可能性が欲しい、という要望はあった。
それが18世紀初頭になってヨーロッパ各地で鍵盤の先にハンマーをつけるという似通った発想が生まれるようになった。
イタリアではクリストフォリ、ドイツにおいてはシュレーター、フランスではマリウスがハンマーアクションを考案した。
ブリタニカ百科事典第4版によれば、ピアノはイギリスのメーソンという詩人によって発明されたとあるらしい。
彼らはお互い知己もなく連絡もなかった。そんな彼らがなぜまるで打ち合わせたかのようにハンマーアクションを考え出したのか。

その起爆剤となったのは、パンタレオン・ヘーベンシュトライトだった。
彼はドイツの舞踊教師であり音楽家であった。ある時期はテレマンの同僚でもあった。
だが最も特筆すべきはツィンバロン演奏だった。
それまでヨーロッパやアジアでよく用いられたダルシマー(ドイツ語でハックブレット)という楽器に独自の改良を加え、同時に独自の奏法を編み出して究極の音楽を作り上げた。
彼は1700年頃から音楽家として頭角をあらわし、その超絶技巧と表情豊かで多彩な音色はたちまち人々を魅了した。1705年フランスに渡った時、彼の演奏を聞いたルイ14世は感銘を受け、この独自の楽器をパンタレオンと名づけたと言う。

すばらしい演奏に出会うと、自分もそのように演奏できれば・・・と思うのは自然な感情であろう。ところが、パンタレオンの演奏技術は並外れて人間ばなれしており、普通の人間がマレットを使用してパンタレオンのように演奏するのは不可能であった。また、楽器自体がパンタレオンに合わせてカスタマイズされていたので、とても常人に使いこなせるものではなかった。

それならば・・・チェンバロのような鍵盤楽器にマレット、すなわちハンマーをくっつけてしまえばもっと容易に演奏できるのではないか。
このような発想はごく自然に生まれてきたものであろう。おそらく記録に残っているもの以外にも、各地で様々なハンマーアクションのアイディアがあったことは想像に難くない。
しかし、ハンマーで弦を叩くという動作は案外複雑で、その仕組みを思いつくのは容易ではなかったはずである。そのためマリウスにしてもシュレーターにしても考案に時間がかかったのだろう。それで一応クリストフォリがピアノ発明者というのが定説になっている。

パンタレオンの音楽がどのようなものであったのか。僕自身は残念ながらその作品というものを聴いたことがない。
だがパンタレオンの楽器がもう少し発展した現在のツィンバロンの演奏を聴くと、それはまさに「ピアニスティック」である。もちろん、ツィンバロン音楽も後々ピアノの影響を受けてそのように変化している面はあるだろう。しかしやはりそこに何か源流への入り口を見出すのである。
往々にして天才の仕事というのは独自性もさることながら、それまで存在していたものを華々しく開花させるという面もある。
パンタレオンも何物かを開花させて「ピアニスティック」の基となるものを作ったと考えるのが妥当であろう。
それが何だったのか、どこから来たのか。さらに源流へとたどってみようと思う。

つづくzim


Last updated  2010.07.20 07:24:33
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ピアニスティックの源流をたどる その2

ピアノの歴史の「常識」では、ピアノは1709年、イタリアのクリストフォリによって発明されたということになっている。
ところがドイツ、フランス、イギリス各国は「わが国こそピアノ発祥の地である」と主張していたのだ。そしてそれぞれ根拠となる事実もあるのだ。

僕がOWS(ドイツのピアノ技術学校)の生徒だった頃、歴史の授業でクリストフォリの発明について習った時、先生はこう主張した。
「これは単なるチェンバロの改造にすぎず、新しい楽器の発明というわけではない。」
一応国際的なとりきめで1709年のクリストフォリをピアノの起源とされてしまっていることに対するささやかな抵抗のようで、何かほほえましいものすら感じる。

しかし、彼の主張の裏には、ピアノは単なるチェンバロの改良品ではないという意識も感じる。
チェンバロとピアノは音楽表現の方向が少々違っている。
もっとも、「ピアノ」という名称はこのクリストフォリの楽器「ピアノ・フォルテつきチェンバロ」に由来している。
たしかに、それ以前の音楽家はチェンバロの強弱が変えられないことに不満を持っており、ピアノがそのニーズに応えるものであったのは事実である。
だが、チェンバロとピアノの機能面での違いに着目すると、単にチェンバロに強弱を加えたものではないように思える。

チェンバロとピアノにはどのような違いがあるのか。
まず、チェンバロにはオルガンのように音色を変化させるためのストップがついていた。あるストップを引くとカプラーによってオクターブ同時に発音できる仕組みだ。そのほか特殊な効果を持つものもある。これはピアノにはついていない。もしオクターブを弾きたければ奏者みずからがオクターブを同時に打鍵しなければならない。
そしてピアノにはチェンバロにはないダンパーペダルがついている。
チェンバロにはダンパーを一斉に開放するような機能はない。
ピアノ誕生後の現代チェンバロにもダンパーペダルはついていない。
このことはそれぞれに要求されているものが違うことを物語っている。
そして、そのピアノに要求されているものがチェンバロにはなかった「ピアニスティック」なるものではないだろうか。

それはさておき、さきほどドイツ、フランス、イギリスでもそれぞれピアノの発明と言われるものがあったことを述べた。
それらはいずれも鍵盤の先にハンマーをくっつけて弦を叩くというものだが、驚くことにこれらはほぼ同時期に考案されている。
当時はもちろんインターネットもないし、国を越えて情報が行きかうということは現代とは比べほどにならないほど困難であったと思われる。
そのような時代に、ほぼ同じような発想で考案されたものがあちこちにあった・・・思えば不思議なことである。
これは、世界的に少なくともヨーロッパにおいて、このような発想を促すような何かが流行していたと考えるのが自然ではないだろうか。
いったい何が流行し、各地でピアノを考案させたのだろうか。

つづく



Last updated  2010.07.19 07:50:57
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2010.07.18

ピアニスティックの源流をたどる その1

もう長い間このブログも放置してしまい(パスワードも危うく忘れるところだった)、楽天ブログで友達設定していた方の多くはミクシィで関係を継続していたり、ブログも休眠してしまったりで、いずれにせよこちらはご無沙汰となってしまった。
ところが、最近当ブログの休稿以降に新たな読者がおられると聞いた。そして、新ネタを希望する声も聞かれるようになった。
とりあえず、何か書いてみよう。
しかし何書いたらいいのだろう。
やっぱりピアノのことだろうか。

ピアノ。

ピアノのことと言えば、ずいぶん前から不思議に思うことがあった。
それは、
ピアノらしさ、ピアノっぽさ、ピアニスティックなもの。
これはいったいどこから来たのだろう。
ということだ。

編曲ものをレッスンで弾くと「それはピアニスティック過ぎる」と言われることがある。何となくイメージは沸くのだが、そもそもピアニスティックって何ぞや。

作曲家がある作品の使用楽器としてピアノを選ぶ時、「ピアニスティック」であることは少なからず重要な要素となることは間違いないだろう。
しかもこの「ピアニスティック」なるものは音楽史上、中世、バロックから徐々に積み重なって発展したもの・・・とは言いがたい。
むしろピアノという楽器の登場とほぼ同時期に突然変異的に登場しているのだ。

それでは、ピアノという楽器ができあがって、作曲家たちがそれを色々いじくってこの楽器の特徴をつかんでその魅力を引き出すために生み出されたものが「ピアニスティックな表現」なのだろうか。
ピアノという楽器の歴史を見るとそう考えるのは少々無理がある。
なぜならピアノの発展は音楽家たちの…時には無茶な・・・要求を健気に実現させようという努力の積み重ねによるものであるからだ。

すなわち、初期のピアノ曲作家たちが目の前にある原始的なピアノに創作意欲を掻き立てられた(もちろんそれもあるだろうが)というより、もともと作曲家に表現したいものがあって、それを実現させるために古今さまざまな製作家が骨折り苦心して楽器を作り上げてきたというのが事実だろう。

半ば「にわとりか卵か」的な話だが、ピアノがピアニスティックな表現を実現できるレベルに発展する以前からその表現があったとすれば・・・いったいそれは何処にあったのだろうか。

と言うわけで、こんなことを今まで色々考えてきたので、少しずつ新しいネタとして書いてみようと思う。
無論、これは持論の域を出るものではなく、せいぜい戯言である。
ましてや学説などという格好の良いものではない。
でも、「言論の自由」もあることなので、何か書いてみようと思う。
とりあえず次は・・・いつになるかわからないが、多分つづきはあることだろう。

Last updated  2010.07.18 07:33:43
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2008.10.09

未だなきピアノの名器
[ ピアノ雑感 ]    

気がつけば、前回ここに日記を書いて2年以上がたつ。
世の中色々変わっているけど…
僕のまわりの環境はまったく変わっていない。
同じ町で、同じ職場で、同じ仕事をしている。

そんな中で最近よく思うのは、俗に「完成された楽器の王」と言われるピアノでも、いまだにストラディバリに匹敵する楽器が存在しないということである。
その要因のひとつは、ピアノの打弦機構という仕組みのもつ宿命的な限界のためである。

それはどういうことかと言えば、
弦の振動とはそもそも、何かしらの衝撃、ピアノで言えばハンマーが弦を打つショックがきっかけとなる。ただ、その時点ではまだ「音」にはならない。

その衝撃の波が弦の両端に走り、そこから帰ってきて両方の波がぶつかる。
その時の波同士の干渉が弦の振動となるのである。
そして、最初の衝撃から帰ってきてぶつかり合うまでの時間が長ければ長いほど振動数が低くなる。つまり、音程が低くなるということである。
反対に、音程が高くなればなるほど、衝撃から干渉までの時間が短くなる。

ここでピアノという楽器の短所が出てくる。
ハンマーが弦を打つということは、ある程度接触している時間があるということだが、音程がある高さになると、波同士の干渉が起こる時点でまだハンマーが弦に接触した状態なのである。
つまり、高音になると、ハンマー自身が弱音器として機能してしまうわけである。

中・低音と同じように高音を作ると必然的に弱い音になる。
だからといってハンマーを無理に硬くしたりすると、金属的な不快な音色になる。

残念ながら現代の技術をもってしては根本的にはこの問題は解決していない。
なので、各メーカーは色々な工夫をしている。
たとえば、鳴らす弦のほかにもう一本共鳴用の弦を設置したり、金属フレームを工夫して高次倍音がよく鳴るようにする…などである。
多くのメーカーのピアノでは高音になると、1本の弦の中に振動部分の他に共鳴部分を作っている。
しかし、これらはすべて苦肉の策という領域を越えていない。

整音の場合は、顧客の要望に応じて音を作り分けている。
パワーを求める人には、若干音色が歪んでも音量を重視して作り、プロなど技量のある人にはやわらかめに作って、フォルティッシモは弾き手の技量にゆだねるという具合である。

ヴァイオリンの場合はストラディバリ、グァルネリ・デル・ジェスと言った完璧な名器が存在する。
もちろん、天才的な名人が存在したことも確かだが、擦弦楽器は演奏そのものは難しくても、上記のような、打弦楽器のもつ限界がない。
「わが社はピアノのストラディバリ」と謳うメーカーは少なくない。
僕は職業柄、名器と呼ばれる多くのピアノを試してきたが残念ながらストラディバリに匹敵するとは言いがたい。
もし、そのような楽器が登場するとすれば…それはストラディバリやグァルネリより数倍才能を持つ楽器職人によらなければならないだろう。
また、「完成された」と言われるピアノにおいてもまだそのような余地があるのは…楽器職人にとっては夢であり、ロマンでもある。

Last updated  2008.10.10 01:56:09
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2006.08.24

ベルリン・東ドイツ博物館
[ ドイツ生活 ]    

DDR博物館入口ニュース・ダイジェスト(在外邦人向けの情報紙)で話題になっていたベルリンの東ドイツ博物館(DDR Museum)を訪ねてみた。最近出来た新しい博物館だが、ご覧の通り大変なにぎわいよう。場所はいわゆる「博物館島」東の対岸にあり、車道より一段低い川べりにある。

統一後のドイツの生活や習慣はしだいに西側に染まり、東の特色はやがて薄れていったと言ってよいのかも知れない。それで東ドイツでの暮らしのようすなどは今となってはなかなか目にする機会がない。

トラバントこの博物館は旧東ドイツの言わば庶民の生活を展示したもの。小物類が中心だが、やはり実物を目にすると東独の生活がリアルに伝わってくる。

博物館に足を踏み入れると「トラバント」がお出迎え。その奥には東側の歩行者信号「アンペルマン」が雰囲気を醸し出している。

展示スペースはバーやレストランくらいの広さで、お世辞にも広いとは言えない。だが小物が多いこともあって展示はボリュームのある内容となっている。

閲覧の様子展示物の多くは引き出しのついたショーケースに入れられている。引き出しには色々な小物類、書類などがテーマ別に入っていて、それらを直にふれてみることが出来る。

小さい上に手に持つことが出来るので、盗難の恐れはないのかとも思うがDDRらしく(?)あちらこちらに監視カメラがしっかりと設置されている。

なおこのショーケースは東ドイツまた東ヨーロッパによく見られるプレート工法(Plattenbau)の高層住宅を模っているようだ。

ブロックプレート工法とは、量産した壁の部品を組み立てる工法である。

70年代、東独政府の方針で高層住宅の建築ラッシュがはじまり、その時この工法が採用されたそうである。

右写真のおもちゃはその工法の特色を表していて面白い。レゴやダイヤブロックの要領で好きな形にビルを作ることが出来る。
このようなブロックであそんだ子供は建築のセンスが養われたのだろうか?

居間この博物館で見逃してはならないのがこの「居間」である。

この居間は当時の東独の生活風景を描写したものである。

古いラジオやテレビ、本などがなかなかレトロなムードを漂わせている。

スパイ部屋ところがこれはただの居間ではなかった。少し離れたところに右写真のようなスペースがあるのだが、一見オーディオ装置のように見えるが、実はこのヘッドフォンから聞こえてくるのは居間での会話などの音声なのである。つまりここはスパイの盗聴部屋なのだった。

博物館の解説によれば、当局は多くの民間人をスパイに起用して人々を監視していたと言う。民間人スパイ(IMS)は写真のような装置を使って隣人、友人、同僚を監視して逐一上官に報告していた。

1989年には約17万3千人のIMSが登録され、そのうち約9万人が実際にスパイ活動を行っていたと言う。

この博物館のスパイ部屋は奥まったところにあり、気がつかない人もいるかもしれない。ここで内緒話など決してせぬようご注意…

ベルリンの壁
そして、「ベルリンの壁」なんぞおみやげに…

ところで、ベルリンの壁と言えばまともに現存するのはオスト駅前の「イースト・サイド・ギャラリー」だが、なんだか最近妙にアート化してしまった気がする。
町の景観としてはよくなったのかもしれないが、なんだか味気ない気がする。やはり生々しい感じもどこか残してほしかった。


博物館のその他の写真をYahooアルバムにて公開しています。どうぞご覧下さい。

Last updated  2006.08.24 07:04:37
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2006.08.16

Seesen
[ 音楽紀行 ]    

ゼーゼン駅ブラウンシュヴァイクから列車で40分、ハルツ山脈の麓にあるゼーゼン(Seesen)という町を訪ねてきた。
山麓の小さな町だが、もともと缶詰工場や鉱石などで栄えた工業都市で、今も小さいながら賑わいを見せる。

僕が勤めているグロトリアンというピアノ工場のルーツもここにある。
ブラウンシュヴァイクで楽器製作の仕事をしていたハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク(後のヘンリー・スタインウェイ)が1920年、独立してこのゼーゼンに工房を構えた。
そして1835年にこの工房で初めてスクエアピアノを完成した。この時をグロトリアンのピアノ工場としての創業としている。
その後シュタインヴェーク一家は順に渡米しスタインウェイ&サンズを設立、この工場は最終的にグロトリアン一家に譲られたというわけである。
このエピソードはピアノメーカー事情に詳しい人にとっては聞き飽きて耳にタコのできるような話かもしれない。

スタインウェイパークグロトリアン=シュタインヴェークの工場がヴォルフェンビュッテル、ブラウンシュヴァイクに移転してからはピアノ産業の痕跡は残されていない。
だが、この町には「スタインウェイ」の名前が強く刻み込まれている。それは、ハインリヒの4男ウィリアム・スタインウェイ(旧名ヴィルヘルム・シュタインヴェーク)の功績によるものだ。
彼は父がスクエアピアノを完成させた1835年にこのゼーゼンで生まれた。
ウィリアムは他の兄弟のような技術者ではなく、ビジネスの分野で活躍した人物で1876年にスタインウェイ&サンズの社長になっている。1880年にハンブルクに工場を設立するとともに、彼の生まれ故郷であるゼーゼンの諸団体や学校、施設などに多額の寄付をした。そのことから1888年、ウィリアム・スタインウェイはゼーゼンの名誉市民となった。
さらに1892~1898年、町の南部に「Steinwaypark」という公園を作った。このことで「Steinway」の名はゼーゼン市民にとって忘れられないものとなったのだ。


ゼーゼン博物館さて、鉄道路線をはさんでSteinwayparkとは反対の方向に博物館がある。この博物館の建物はもともと1707年に建てられた狩猟用の公爵邸(Herzogliches Jagdschloss)だ。
一応月曜以外の午後3時から午後5時までが開館時間となっているが入口の扉はずっと閉まりっぱなしになっている。
ドアの横にベルがあり、見学者はそのボタンを押して見学希望の旨を伝えると中から扉を開けてくれる。
中には係員が2人いて、非常に愛想がよかった。
「全部見たいの?それとも何か特別見たいものある?」
と聞くので、
「何か楽器関係とか・・・」
と言うと、「ああ、スタインウェイね…」と言って2階に案内された。2階の一角はスタインウェイの展示コーナーとなっていた。係員はその部屋だけ電気をつけてその場を去った。
展示されている楽器や工具類は特別ここでなければ見れないといった類のものではなかった。
しかし、スタインウェイとゼーゼンの関係、とりわけウィリアムに関する記述には大いに興味を引かれた。また自筆の手紙や寄付に関する証書類など興味のある人には価値のあるものが多い。ちなみにこの博物館は入館無料だ。


ゼーゼン市役所「ゼーゼン(Seesen)」の名前の由来だが、博物館の資料によるとこの町には昔大きな湖(See)があり、そのことから「湖の家々(Seehausen)」を意味するSeehusenあるいはSehusaが後に訛って行ったのではないかということである。なお、その大きな湖は現在は大分干からびてしまい、博物館の裏手にわずかな沼地を残すのみとなった。ドイツの旧市街にありがちないわゆる「ローマ式」の街づくりではなく、木組みの家が何筋か並行して並んでいる小ぢんまりとした街づくりだ。18世紀の面影の残る町だが不思議と古めかしい印象はない。
(左写真は市役所)

Last updated  2006.08.17 13:27:11
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