|
カテゴリ:文化
城郭考古学から分かること 千田 嘉博(奈良大学教授)
▼小天守の礎石を発掘 昨年、名古屋城の西側堀底の発掘調査が行われ、小天守の礎石と見られる石列が見つかりました。 名古屋城は、徳川家康が人生の総決算として豊臣家を滅ぼすために築かせた、大阪城を包囲する城の一つです。築城過程を示す詳細な資料が残っています。 その当初設計図には、現在の城にはない〝幻の小天守〟が描かれているのです。商店主があれば、ものすごく強力な軍事要塞。しかし、実際には、幻の小天守が造られませんでした。そのため、当初設計図にしても、構想案の一つでしかないと考えられていたからです。 しかし、今回の発掘で、起訴まで施工済みだったのに、それを取りやめて、礎石は堀底に埋められたことが分かりました。このような大掛かりな設計変更は家康本人以外にはありません。 名古屋城は、豊臣方が江戸に侵攻する場合の重要な防禦拠点。でも、築城途中で、家康は負けることはないと確信したのだと思います。だから、無駄な天守を立てるのをやめたのではないでしょうか。もしかしたら、西国大名への牽制として、あえて余裕を見せたかもしれません。 また、このような変更は、軍事的な城から、政治的な城へと、大きな転換の第一歩だったとも考えられます。 実際、江戸時代の城は軍事的には無用の長物となり、政治の中心へと変化していきます。家康は、そんな時代の先を見越していたのかもしれません。
城跡は3万カ所以上 ―地形を生かした堀や土塁―
▼当時の生活示す遺物 近年、白人気が高まり、多くの人がさまざまな城を訪れるようになりました。姫路城のように見事な天守の残っている近世城郭だけでなく、山城を中心とした中世城郭にも関心が広がってきています。 日本に城跡がいくつあるかご存じでしょうか。江戸時代には300諸侯といわれるように、300ほどの城に集約されました。戦国時代の城は全国各地に3万以上。その多くは天守や石垣を持たない中世城郭です。 城郭研究に、発掘調査など考古学的な手法が使われているようになったのは、昭和の終り頃から。それまでは城跡が見つかっても埋蔵文化包蔵地に埋蔵文化包蔵地に指定されず、多くの城跡が高速道路や都市開発のために壊されていました。 転機になったのは福井県の一乗谷朝倉氏遺跡。中世戦国時代の城下町ですが、発掘したところ、戦国の暮らしの様子が分かる遺物が続々と出てきました。また、広島県福山市の草戸千軒町遺跡からは、中世の川港の暮らしの様子が分かりました。 発掘調査というと、それまでは文字のない時代ばかり。それが、文献資料の残る時代にも有効だと分かったのです。 現在では、各地の城跡が埋蔵文化財包蔵地に指定され、学術調査としての発掘が行われるようになりました。そこから得られた成果をもとに、当時の石垣を再現したり、櫓や御殿を復元するなど、文化財活用のための取り組みが進められています。
▼心身共に健康な趣味 全国に3万カ所ともなると、皆さんの身近な場所にも、必ずあると思います。町から見える里山には、どこにでも城跡がある感覚でしょうか。これらは、都道府県が出している城跡の地図やネットでも探すことが可能です。実際に出かけて、当時の様子に思いをはせてはいかがでしょうか。 山城になると、当時の建物は失われていますが、自然の地形を利用した堀や土塁の跡など、何らかの痕跡が残っているもの。そんな場に立てば、どれだけ工夫を凝らして守りを固めていたのか、実感できるでしょう。いくつかの城跡を巡って、違いを見つけられたら、どんどん楽しくなっていくはずです。 城廻は、登りがあるにしても、適度な運動になります。また、城に出かけると、里山の自然と触れ合うことができます。事前に本や資料を呼んで調べるため、教養も深くなります。まさに、心身共に健康になれる理想的な趣味なのです。 出かける時、ぜひとも守ってもらいたい点が一つあります。 江戸時代の城跡は公有地されているものも多いですが、中世城跡はほとんどが私有地。普通なら立ち入り禁止の場所を見学できるのは、土地を持っている人の好意によるものです。だから、見られるのが当たり前だと思わないでほしいのです。 多くの人が集まっても、K枠な存在にならないように、気を付けたいものです。 =談
せんだ・よしひろ 1963年、愛知県生まれ。城郭考古学者。名古屋市美晴台考古学資料館学芸員、国立歴史民俗博物館助教授などを経て、現在、奈良大学教授。日本と世界の城を城郭考古学の立場から研究する。著書に『城郭考古学の冒険』『歴史を読み解く城歩き』など多数。
【文化Culture】聖教新聞2022.12.1 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 18, 2024 05:50:15 AM
コメント(0) | コメントを書く
[文化] カテゴリの最新記事
|
|