浅きを去って深きに就く

ゾウが教えてくれた心の力

動物行動学者　　入江　尚子

とても高い仲間との共感力

２００５年。私は、タイ東北部のスリン県にあるラチャモンコン大学を訪れた。構内には、親子のゾウが暮らしていた。母ゾウのメプロイと２歳の子ゾウのナンペーだ。ナンペーはひと目で私を気に入り、駆け寄ってきた。私は「大好きだよ」の心を込めて、それに応えた。絡めてくる鼻に優しく触れ、目と目を合わせて、全身で喜びを伝えた。その様子を見てメプロイは、少し離れたところから安心しきった様子で眺めていた。

初対面のゾウと出あったら、まずゾウの目を見て表情を読み、相手の出方に合わせて距離を縮めていく。人間同士と同じように。大抵のゾウは、こちらに敵意がないと分かると、心を開いてくれた。１０年に及んだ研究期間中、ゾウと過ごして傷つけられたり、何か恐ろしい思いをしたことは、一度もなかった。４トンを超える巨体を持つゾウだが、その心はとても繊細で本当に優しかった。

死を悼み、思いやる気持ちも

ゾウの社会は時に１００頭までに膨れ上がるが、仲間同士の絆はとても深い。離れても、お互いを何年もの間記憶し、再会を喜び合う。傷ついた仲間がいたら、体を支えて助ける。仲間の死を悼み、残された幼い子を引き取る。彼らは、相手を思いやる気持ちや共感力が非常に高い動物なのだ。

ゾウと過ごすうちに、「人間とはどういう動物なのか」と考えるようになった。人間もゾウ同様、複雑な社会を構築して生きるのだから、やはり、他者に共感できる優しい動物であることは確かだ。しかし今、私たちの社会に、そんな人間らしい思いやりや優しさは、溢れているだろうか？

一説によると、霊長類の種において、脳容量と群のサイズには相関関係が見られ、そこから予測されるヒトにとっての最適な群サイズは１５０人程度だそうだ。つまり、１５０人を超える社会を維持する能力を、ヒトは持たない。大きすぎる社会の中では、ヒトがヒトらしく振る舞うことが難しくなるのだ。近年、ヒトは社会を大きくすることに価値を見出し、SNSが普及した結果、その社会は地球サイズにまで膨れ上がった。ぼんやりしていたら、人間らしく生きられるはずがない。自分にとって大切な１５０人を意識し、通勤電車でたまたま隣り合わせた人もまた誰かにとっての大切な１５０人であることを意識して、人間らしく生きられたらと思う。

ところで我が家にはヒトのほか、イヌ、インコ、カメ、金魚といった具合に、多種多様な動物たちが暮らしている。そのうち少なくともイヌとインコは、確実に心は通じ合っている。さらに、カメとも互いに愛着を形成していると感じられることがある。また、金魚にも喜びや憂鬱さといった感情はありそうだ。「心」というのは、実に多様な動物に共通する能力なのだ。これはつまり、「心」があらゆる環境下で生きる動物にとって有用な、オールマイティな能力であることを示す。頭で考えて行き詰ることがあったら、「心」の力を信じて従ってみてはどうか。それが幸せに生きる秘訣かもしれないと、愛犬つゆちゃんと朝の散歩をしながら思う、今日この頃なのだった。

いりえ・なおこ　大阪府生まれ。東京大学に進学し動物行動学を学ぶ。２０１０年、アジアゾウの足し算能力の研究で、同大学博士号取得。著書に『ゾウが教えてくれたこと』（化学同人）、『ソウと　友だちになった　きっちゃん』（絵・あべ弘士、福音館書店）。

【文化】公明新聞2022.12.2