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THE PIANO TUNER OF EARTHQUAKES
Brothers Quay (Stephen & Timothy Quay) 99min(1:2.35) (桜坂劇場 ホールCにて) (つづき) この映画は一見意味ありげな深いイマジネーションや感性、幻想を表現しているようで、実はカラッポだ。女性のヴァギナを彷彿させる声帯の解剖図、機械仕掛けの演奏システムの一アイテムである男性のペニスのようなもの、ハンカチを飲み込んで寝るフェリスベルトが口からそれを取り出す様子、意味ありげに彼がベッドの柵に設置する糸に通した2つの指輪、100年以上前に描かれた壁のフレスコに既にフェリスベルトやドロス博士や家政婦(娼婦)アサンプタが描かれていることや、フェリスベルトが以前に来たことがあるようなデジャヴュ感を持つこと等々、そういうことに作者の感性や思索や哲学の裏打ちがない。またそういうことが、映画(物語?)全体の中での脈絡や必然性がない。 思うにこうしたタイプの映画には2つの方向性があるのではないだろうか。一つは疑似アートであれ、本物のアートであれ、「アート志向」のもの。もう一つはアート風味を、観客エンターテインのネタとして使う「娯楽志向」のものだ。後者なら感性や哲学や思索が浅くても、出来上がった映画が面白ければ立派な娯楽作品だ。 もちろんこの『ピアノチューナー』はアート志向の方だろうが、作者はアートというには恥ずかしいほどに浅薄なものを、自分自身でアートだと思っているのではないだろうか。映像にしても、映画のスチル写真を見たときは美しいと思ったけれど、動画として見ると子供騙しだ。最初にドロス博士の住む島(?)が遠景で映ったときのボクの印象は、遊園地かテーマパークの風景であった。 この映画の会場で出会った知人も、この後シュヴァンクマイエルの『アリス』のときに会った知人も、どちらもこの作品を酷評していた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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