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ALICE
aka NECO Z ALENKY Jan Svankmajer 84min(1:1.33) (桜坂劇場 ホールCにて) (つづき) ルイス・キャロルの「アリス」は少女好きだった彼がロリーナ、アリス、イーディスのリデル家三姉妹に即興で物語ったお話が元になっている。主人公アリスはこの次女アリスがモデルで、アリス・リデルは当時10歳。彼女にねだられ手書きの本をキャロルは贈った。それが後に出版される『不思議の国のアリス』の原形だ。 これで思い出される私的な経験がある。ボクは15歳のとき姉の息子の叔父となった。甥はボクに懐いていた。ボクも子煩悩とでも言うか、好んでこの甥の遊び相手になったり、子守りをした。その甥、たぶん5歳前後のころ、休みで家にいるときボクは昼寝の寝かしつけを請け負うことがあった。そんなとき、甥を主人公にして冒険談をやはり即興で物語った。内容も幻想的なものだ。途中で甥は寝入ってしまうけれど、夏休みなどだと自分も甥も連日家にいたので、翌日つづきをせがまれ、物語はどんどん続いた。『アリス』はキャロルがアリスに即興でした物語だと知ったとき、同じようなことなのだなと思った。違うのはボクには彼のような独創性もイマジネーションもないので、本として結実することはなかったことだ。 詰まらない私的思い出を書いたのには理由がある。こうして聴き手である甥を主人公として物語を作りながら語るとき、もちろん甥の興味を保とうとする。必然的に甥の関心、感性、考えていること等を生で感じ取りながら話を作っていく。だから甥に語り聞かせようと自分一人で物語を考えたり書いたりしたのとは結果が違う。これはキャロル/アリスの場合も似ていたのではないだろうか。 そしてシュヴァンクマイエル/クリスティーナの映画だ。『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』ではクエイ兄弟は、例えば指の細かな動きまで完璧に役者を自分達の思い・イメージ通りに動かそうと望み、必ずしもそう行かないので苛立ったらしい。しかしこれはボクの考える(実写)映画性とはズレている。役者という生の人間、個性や感性を持った人間が、その人間としての真実で演技をすること、そこに、もちろん結果として成功した場合も、やや失敗した場合も、映画の醍醐味がある。映画は個人芸術ではなく協同製作芸術なのだ。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.21 00:28:39
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