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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2009.04.14
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カテゴリ:音楽あれこれ
 ここ最近話題になるロックバンドを見ていると、「反抗的」でないことに注意がいってしまう。例えば80年代後半のバンドブームのとき、大抵のロックバンドは「反抗的」あるいはモードとしての反抗を演じるのが決まり事であった。伝説として語られるようなロックバンドから、それこそ音楽産業プロダクションのでっち上げのような「バンド」に至るまで、何かに反抗しているというポーズをとる。それが決まりごとのような感があった。
 しかし最近は表立って「反抗」という立ち位置にいるアーティストはあまり見かけない。アンダーグラウンドレベルでは相変わらず「反抗」は大きなテーマなのかもしれないが、スペースシャワーのような音楽専門チャンネルに登場するバンドを見る限り、「反抗」は大きなテーマになっていないようである。
 それはなぜだろう。
 考えられるのは反抗すべき権威が世間からいなくなったということがあげられるかもしれない。例えば80年代なら「学校」や学校の先に見える学歴社会のアンチテーゼとして、「反抗」が有効だったかもしれない。でもいまや「学校」やそれを成り立たせる「学歴社会」がかつてほどの権威を保てなくなった。だからそれに反抗したところで何もならない。
 その説明は非常に妥当であるように思える。しかし本当にそれだけなのだろうか。単純に世間から「権威」が消えたから「反抗」しても意味がなくなった。それだけなのだろうか。もしかしたら、もっと深いレベルの変化がここ十数年の間に起こったから「反抗」を掲げることが困難になったのではないだろうか。

 2008年の10月に鈴木謙介氏の著作「サブカルニッポンの新自由主義」という本が刊行された。
 鈴木氏の問題意識はこうである。格差社会に反対する人たち、とりわけ「ロスジェネ」といわれる人たちの主張がなぜ既得権益批判という形を取るのか。またその既得権益批判が、既得権を持つものに対する流動化の要求や既得権を守る規制の緩和という新自由主義的な政策提言にたどり着くのかという疑問である。
 鈴木氏はこう考えている。いわゆる新自由主義の政策が浸透してから私たちの生活は変わった。成功者は転落を恐れて絶えず自己啓発をし、変化に対応すべくゴールなしに変わり続けるという困難を引き受けざるを得ないし、失敗者は自分に能力がなかったから仕方ないという形で自分に与えられたマックジョブを運命として引き受けざるを得ない。
 もし「既得権益批判」をする論者の言うとおりに完全にこの国をフラットにしてしまったら、そこには更なる過酷な能力主義社会が生まれてしまうのではないか。そうした社会は息苦しい。なぜなら自分が成功しない理由が完全に自分の能力、つまり「自己責任」に帰せられてしまい、かつ他のあり方が認められない出口の見つからないものになりかねないからである。また成功した者も現状を見る限り、更に過酷な自己啓発を余儀なくされる社会になるのではないか。
 そこで鈴木氏はこうした新自由主義のルーツを探るために、情報社会論の系譜、そして情報化社会のインフラであるネットやコンピュータの社会思想的意味を探ろうとする。その過程で鈴木氏はネットやコンピュータによる情報社会革命という理想の中に「カリフォルニアンイデオロギー」が存在しているのではないかと指摘する。
 「カリフォルニアンイデオロギー」とはヒッピーの理想とコンピュータ技術者であるハッカーの理想が交じり合った混合物である。ヒッピーもハッカーも反権威主義、自由の尊重という点で共通点がある。しかしヒッピーはその先に人間の本来性の尊重という反属性主義、コミュニティー志向、脱資本主義という理想を持っていた。それに対してハッカーの反権威主義や自由の尊重は、個人の実力の評価という反属性主義、フロンティア志向、資本主義の肯定に連なるものであった。目的は逆であるが、反権威主義と自由の尊重そして反属性主義という共通点からヒッピーの理想とハッカーの理想は重なり合い、「カリフォルニアンイデオロギー」が出来上がった。
 そしてこれはイデオロギー、つまり虚偽意識でしかない。なぜなら彼らが考える「平等」がそこに入れないものによる奴隷的労働を必要とするからである。
 そうした情報化社会の潮流に適合した社会思想として新自由主義が考察される。鈴木氏はこの新自由主義が1968年の世界的な学生反乱、そこから芽生えたアナーキズムに起源があるのではないか指摘する。アナーキズムは政府からの規制を拒否し、政府から独立した個人の相互扶助による人間の本来性の回復を理想とする。しかしそのアナーキズムがリバタリア二ズムに転化してしまい、それが新自由主義のルーツとなってしまったのではないか。リバタリア二ズムは政府の規制を拒否する。それが企業の競争の基盤を台無しにし、また人々の労働のあり方やライフコースを規制するからだ。
 そうしたルーツを持つ「新自由主義」が私たちを幸福にしてくれるのか。あるいはしないのか。もしそれが私たちを幸福にしないのならそれに対抗するのは可能なのか。
 議論はそこまで進むがそれ以上のことに関しては「サブカルニッポンの新自由主義」の本編へ譲りたいと思う。

 この本で関心を持ったのは「カリフォルニアンイデオロギー」と新自由主義の起源である。その思想の出発点には1960年代の思想があった。
 1960年代はロックがその思想性を獲得した時代である。例えばボブ・ディランであり、ビートルズであり、ウッドストックがその60年代の思想を体現している。
 そしてその思想の表現の仕方として、反抗があり、現在の体制に対する批判があり、別の形の生き方の模索があり、自由がある。そうした思想性はその後のロックに影響を与えずにはいられなかったし、またそれを自国に輸入した日本においてもそれは同じだった。権威に対する反抗。別の形の生き方の模索。自由への意思。そうした思想性は日本のロックにも大きな影響を与えている。
 一般的に日本が「新自由主義」的な政策に転換したのは小泉首相のときであったとされている。あの時小泉首相は何を叫んでいただろうか。そして僕たちは小泉首相の何に熱狂したのだろうか。小泉首相は「自民党をぶっ壊す」と言って登場し、この国の様々な規制を緩和することで社会に活力をもたらそうとした。そして郵政民営化解散のときに典型的な形で表現されることになるが、「郵政省」という「既得権益」を持つ旧来の秩序維持者の権益に反抗し、それを破壊して民営化する姿に僕らは喝采を上げた。「抵抗勢力」はかっこ悪い旧体制の権力者の典型であり、それが「刺客」で倒される姿が面白くて僕らは自民党を支持した。
 その思想的バックグラウンドは「新自由主義」である。権威ー既得権益を否定し、自由を尊重し、属性主義ではなく個人の才能を重視する。それは60年代に生まれた学生反乱の思想、そしてロックに影響を与えていた思想を起源にしている。
 こうした新自由主義を掲げた人が自民党のトップになり、首相になる。60年代の思想あるいはロックの思想はその「新自由主義」のルーツである。そのときロックは「反抗」の基盤を失う。ロックの思想の反転とはいえそれを体現する人が権力の座に着いたとき、ロックはなぜ反抗を歌わなければならないのか。
 そして小泉首相が目指したのは既得権益の切り崩しとそれによる自由の実現である。それはロックが求めていた反抗や自由への意思の先にあるものではないか。それがもともとの思想の反転した形であるにしても。
 しかし新自由主義はユートピアを生まなかった。貧困問題、地方の空洞化、より徹底した労務管理、より徹底した能力主義…。それはかえって僕らに生き辛さを強制し、絶望的な状況をもたらした。
 小泉首相が政権を取ったとき、意識的なミュージシャンはその思想的意味を感覚的に察知したのではないか。もうニッポンのロックは反抗を歌えない。反抗という形では自分の理想を実現することは不可能である。
 それからサブカルニッポンのロックは反抗をやめた。

 単なる印象論は慎むべきではあるが、その後のロックは「自己承認」という問題にシフトしたような気がする。ジモトの仲間であれ、恋愛関係であれ、「自己承認」の足場を求める歌。若手のアーティストを見ているとそうした歌詞が多くなった気がする。
 先の「サブカルニッポンの新自由主義」を書いた鈴木謙介氏も新自由主義に対抗する足場の考察の材料としてET-KINGの歌(ラップ?)詞を引用している。

 僕がなぜ反抗にこだわるのか。それは自分の音楽的な体験によるところが多い。例えばブルーハーツが「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と歌ったとき、世間とは別の価値観が僕の目の前に立ち上がったから。例えばアナーキーが「そんなにまじめに生きてもしょうがない 333さあ飛び出そうぜ」と歌ったとき、学歴社会で生きるのではない別の生き方があることを指し示せたから。
 それはノスタルジーに由来する偏見であるかもしれないし、あまりにも一面的な見方であるかもしれない。しかしロックは「別のあり方」「別の生き方」を教えてくれた。僕にとってはそういうものだ。
 しかしもうサブカルニッポンのロックにはそうした力などないのだろうか。あるいはサブカルニッポンのロックにそういうことを求めること自体、時代錯誤な思い込みでしかないのだろうか。

    参考文献「サブカルニッポンの新自由主義」 鈴木謙介 ちくま新書






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Last updated  2009.04.14 14:32:54
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