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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2018.03.14
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カテゴリ:見た映画
まず最初にこの映画を他人に勧めるか。それについて書いておこう。
90年代に岡崎京子をリアルタイムで知っていて、今も熱烈に岡崎京子の作品を待望しているという方に、この映画を勧めるか。それについては、別に見るに耐えないひどい作品ではないけど、積極的に「見ろ」とは言わないと思う。もしかしたらお気に召さないかもしれないけど、試しに見てみるのもいいかもしれない。と。
逆に岡崎京子は知らないけど、前情報で二階堂ふみのトップレスが見られるとかセックス描写が過激だとか聞いたけどこの映画はどうだった?と聞かれたら、こう答えると思う。確かに二階堂ふみは脱いでいるし、セックスも描かれているけど、それだけを目的に見るのであれば、あまりお勧めできない。なぜならそれを見るために救いようがなく暗い120分に耐えるのは苦痛だと思うから。と。
「リバーズエッジ」が映画化されるというニュースを聞いて、あの名作をどうやって映像化するのだろうか。あるいは映像化できるのだろうか。その出来栄えに不安を感じた。
岡崎京子の原作「リバーズエッジ」は1994年に単行本として発売された。1994年ごろは80年代のバブルの余波がまだ残りつつも、それもそろそろ引き潮に転じ始め、何か今までとは別の時代が来つつある。そんな空気感が漂う時代だった。
そのような時代背景をもとに、「リバーズエッジ」は新たな90年代的な皮膚感覚や、斬新な表現方法を提示し、90年代が今までとは違う新たなフェイズに入ったのだ。そうしたことを宣言した作品である。
そのため様々な分野で創作活動をしていた多くの人々に強烈なインパクトを与えたし、影響も与えた。映画や文章や音楽といったジャンルを超えて1990年代を代表する名作である。そう言っても過言ではない。
「リバーズエッジ」の何がそんなに衝撃的だったのだろうか。セックスやドラッグや暴力や死といったテーマを扱ったそのストーリーも衝撃的ではあったけれど、その表現技法が斬新かつ素晴らしいものであった。この作品は「漫画」という表現方法を使わなければ、作品それ自体が成り立たない。「漫画」という表現方法の可能性を極限まで追求し、1990年代的な皮膚感覚やその時代を描き切ったこと。そこが衝撃的だった。「リバーズエッジはもはや文学の域に達している」という論評はよく目にしたし、僕自身もこの作品は90年代の文学史に残る作品ではないかと思っていた。
そのような偉大な作品である「リバーズエッジ」だけれども、その受け止められ方は年代によって違っていた気がする。
まさに1994年に10代だった読者たちは、この作品で描かれているヒリヒリするような皮膚感覚を直感的に「感じ取った」のだろうと思う。
僕は1994年に23歳だったけれど、そのような10代以上の上の世代の人々はこの作品を「新しい文学」として感じ取っていた気がする。
今回映画「リバーズエッジ」を監督した行定勲氏は多分原作「リバーズエッジ」を「新しい文学」として読み取った人ではないかと僕は思っている。
2018年に1994年の作品「リバーズエッジ」を映画化すること
それには二つの方法があったのではないかと僕は思っている。
2018年2月現在でも90年代的な皮膚感覚を描いた「リバーズエッジ」の世界は有効である。現在の若者が直面している時代状況と90年代の「リバーズエッジ」で描かれた世界は繋がっている。そうして問題意識のもとで、映画リバーズエッジを現代の人々に問うという方法論。
もう一つは前者のようなあまりにも壮大で困難な仕事は不可能だから、例えばこの映画を見て90年代に若かった世代の人々に「ああ90年代が懐かしい」「あの頃私は若かった」などと思ってもらえればいい。俗にいう「オッサンホイホイ」とか「オバサンホイホイ」として映画を作る。
まず後者の「オッサンホイホイ」であるが、この映画の重さや暗さを考えるとそのような意図があまり感じられない。この映画の暗さは90年代のアザーサイドの青春をとらえているのだろうけれど、それを見て「90年代が懐かしい」とか「90年代はこんな時代だった」といったノスタルジアは全く感じなかった。その点で現在中年である90年代に青春を過ごした人々に対するサービスが足りない。
次に前者であるが、現在の若い世代が直面している状況を「感じ取る」のは僕のような年寄りには不可能である。20代の若い人々がこの映画を見てどんな感想を持つか。それについては僕にはわからない。
以上のことを踏まえて、この映画は「オッサンホイホイ」ではないけれど、前者の方法論で何かを問いかけたかった。その「何か」を90年代的な感性を持つ40代の男が必死に考えて書き上げた映画リバーズエッジにかかわる感想である。そのようにこの文章を受け取っていただければありがたい。
映画リバーズエッジはいきなり登場人物ハルナのインタビューで始まる。それを見せられると、インタビューを受けているのは「二階堂ふみ」なのか「ハルナ」なのかわからず、まず戸惑う。
この「インタビュー」は山田君や観音崎やルミやカンナといった物語の主要人物に対しても行われる。その中には自分で自分の家庭環境だとか人物像を説明させてしまうインタビューもあり、非常に風変わりで、映画監督ならまずやらないことをあえてやってしまっている。
しかし映画全体でみると、この映画はいわゆる実験的な映画ではない。原作に沿ってストーリーがあり、そのストーリーに従って物語が展開していく。いわゆる普通の映画の作りだ。
俳優の演技で光っていたというか、印象に残った役柄はルミとカンナだ。特にカンナが山田君に振られて狂っていくその姿は素晴らしい演技だったと思う。
山田君や観音崎の役柄はしっかり安定した仕事しているという感じだった。ハルナ役の二階堂ふみに関しては、原作に比べるとハルナが凛々しくなり過ぎかなと思った。原作のハルナも凛々しいけれど、もうちょっとふわふわした印象があった気がする。
この映画はR15指定を受けている。だからそれなりに過激な表現がある。
例えば高校生という設定のハルナがいつも煙草を吸っているとか、ドラッグだとかセックスだとか暴力であるとか。
そんな過激な題材を扱っているにもかかわらず、この映画は地味な印象が強い。
そしてこの映画を見ていて感じることは、暗くて八方塞がりに陥ってしまった感覚だ。原作の「リバーズエッジ」もどちらかというと暗い作品であったから、それに乗っ取って映画を作ればそれは暗い作品になるのは当然だと言えなくもない。
リバーズエッジと同じく岡崎京子の作品を映画化した「ヘルタースケルター」は派手な演出や俳優の豪華さや話題性といった点で、娯楽的な要素が詰まった映画になっていた。
それに比べるとこの映画は娯楽的様相が少なく、話題性といった点でも派手さに欠けると思う。
それではこの暗くて地味なリバーズエッジという映画は何を目指して作られたのだろうか。行定監督はこの映画で何を訴えたかったのだろうか。

原作の「リバーズエッジ」のクライマックスは、物語が突然反転し、「悲劇」が重なって起こる場面である。具体的に言うとルミが姉にめった刺しにされ、ハルナの家が放火され、そしてカンナが焼死する場面。そこにウィリアムギブソンの「The Beloved」の詩が挿入される。そのシーンは非常に効果的でインパクトがあり、この詩の一節である「平坦な戦場で僕らが生き延びること」は「リバーズエッジ」の代名詞でもある。
また原作でのこれらのシーンはまるで抽象画を見ているように広がりや余白があり、また暗喩や警句にみちていて、それは90年代の時代そのものが「平坦な戦場」であり、そのなかで「僕らが生き延びること」を問うていると受け止めることができた。
つまり「平坦な戦場」はこの作品の中だけでなく、あなたが生きている人生や時代や社会が「平坦な戦場」であると。
僕がこの映画で一番注目していたのは、このシーンをどうやって映像化するのか。それだった。しかし映画では残念ながら、この詩は街の風景をバックにハルナと山田君が詩を朗読するという形で表現されていて、あまり印象に残らなかった。
だとしたらこの映画は失敗作であろうか。見るだけ時間の無駄だったのだろうか。

多分行定監督は、映画で原作の「リバーズエッジ」を超えることは不可能であるという前提でこの映画を作ったのではないかと僕は想像している。
漫画という形でしか、原作「リバーズエッジ」のクライマックスを表現することはできない。
そのうえで監督は「リバーズエッジ」の代名詞でもある「平坦な戦場」を、時代や社会に対する警句としてではなく限定して表現しようとした。
この映画で描かれている暗くて八方塞がりな状況が「平坦な戦場」であると。
そうした限定を設けたこと。そう考えると、この映画がなぜ暗くて八方塞がりな感じを抱かせるのか。それが納得できる。暴力や無軌道なセックスや死の予感や偶発的な悲劇が起こるこの映画のスクリーン上で表現されている世界。それが「平坦な戦場」である。
では平坦な戦場で「僕らが生き延びること」とはどういうことなのだろうか。
それは特にハルナの、そうした日常や悲劇に対する立ち位置にヒントがあると思う。
ハルナは自分が悲劇に巻き込まれても決してそれに引き込まれることがない。まるで傍観者のようにその悲劇を見ているだけ。そんな感じを受ける。どのようなことがあっても絶対にその当事者にならないこと。その状況から一歩引いた視線で悲劇や事件に対して待機していること。
そうした態度が「僕らが生き延びること」なのだろうか。
一連の悲劇が一段落したところで、再び映画でハルナのインタビューが挿入される。そこでハルナは「生きるとはどういうことだと思うか」というインタビュアーの問いに答えて「怒ったり笑ったり泣いたり、感情を揺さぶられながら物事を感じること」という趣旨の発言をする。そのうえで「生きていきたいと思う」と語らせる。それは劇中のハルナの行動原理とは違っている。
この二つのことを統合するとこうなる。自分が状況に巻き込まれないように防衛線を張って自らを守りつつ、その状況を感じながら生きていく。
この矛盾を生きていくこと。危ういバランスを取りながらそうした矛盾を生きていくこと。それは難しいし、その先には破綻が見えているかもしれない。
この映画はそんなことを表現したかった作品だったのだ。ハルナのこの映画での佇まいを通じて、「平坦な戦場で僕らが生き延びること」とは、状況から一歩引きながらその状況に飲み込まれるように感じつつ生きていく、そういうことなのだ。そんなことを好意的に解釈すると読み取れるのではないだろうか。僕はそのようにこの映画を受け止めた。若い人々は、では、この映画をどう受け止めるのだろうか。

岡崎京子の名作を映画にする。それは無謀なことだと思う。下手をすると、のっぺりとして平坦で退屈な文学趣味映画で終わってしまいかねない。そう思う。
行定監督の映画「リバーズエッジ」はそうした作品になっていないけれど、では岡崎京子の原作「リバーズエッジ」を超えたのか。残念ながらそこまでの作品にはなっていない。
だから岡崎京子の大ファンのような方にこの映画を勧めるかというと「微妙なところ」という感じになってしまう。逆にこの映画の暗さや重さを考えると、岡崎京子を知らない二階堂ふみ目当ての方々に勧めるのはちょっとと考え込んでしまう。
映画リバーズエッジは興行的には苦戦していると噂されているらしいが、こうした映画の性格から、色々なタイプの方々にこの映画を勧めるべきか迷ってしまう。それが原因なのかもしれない。


リバーズ・エッジ オリジナル復刻版 / 岡崎京子 【本】





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Last updated  2018.03.14 09:31:02
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