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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2019.03.24
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カテゴリ:読んだ本
バブル景気に入ったと言われる1987年ころ、僕は高校生だった。1989年に高校を卒業し、一浪を代々木ゼミナールで過ごし、1990年に大学に入学した。
僕の入った大学は東京都の多摩地区にあるいわゆる中堅大学で、1990年から1994年までそこに進学していた。僕が大学を卒業したころには景気はすでに悪くなっていて、「就職戦線異状あり」という感じだった(いわゆるバブル期の就職状況を織田裕二主演の映画で描いた作品に「就職戦線異状なし」というものがあり、当時ヒットした映画だった)。
だからバブル期の社会の様子についてはあまりよくわからない。
高校生から見たバブル時代の栄光とはどういうものだったか。
お年玉が平均5万円だったというが、自分の周りの親類は公務員が多く、最大値で3万円くらいのお年玉だったと思う。
次に食べ物についての色々な情報があふれだした。例えば今は日本食の一部になっているティラミスが日本に紹介されたり、モンブランというケーキの形が変わり始めたのを覚えている。
その頃は株高だったという。そうした株式に関する印象深いエピソードはNTTの株式上場だ。この株式には非常な高値が付いた。そしてそれ以降株式投資がかなりメジャーなものになった。それは当時のテレビドラマにも反映されている。確か土曜ワイド劇場だったと思うのだけれども、主婦が株式投資をして色々な騒動に巻き込まれるドラマが放映されたりした。夫役は板東英二だった。ストーリーについては省くがその結末を見ると、株式投資は賢く行えば一般人でもうまく儲けることができる。それでちょっと家族で贅沢するのはいいことだ。そんな感じのドラマだった。株式投資について、敷居が低くなったというか、プラスイメージが強くなったのもこの頃だった。
若者の生活も変わった。雑誌などの二次情報を見ると、クリスマスイブはシティーホテルの一番高い部屋から予約が埋まり、イブ当日にホテルの空き部屋を探すのは不可能だったという。デートコースは高級レストランでディナーを食べ、クルーズに乗り、シティーホテルのスイートで過ごす。それが「恋愛偏差値が高い」若者の一般的な過ごし方で、多くの若者の憧れでもあった。しかしそのような過ごし方をしている若者はそんなに多くはいなかったのではないか。そういう調査結果もあったらしいということも付記しておく。
大学生の必需品は車だった。しかも安い車だとデートができなかったという。時代は前後するけれど1990年くらいにアッシー君とかメッシー君という言葉が生まれる。アッシー君とはどんなむちゃくちゃな時間に電話をしても女性を自宅に送ってくれる便利な男を指していて、遊び人の女性は一人か二人くらいこのような男性を確保しなければならない。そのようなことが女性誌に書かれていたという。
音楽産業も1990年代の黄金時代を前に巨大な産業へと発展しつつあった。
事故を起こしたトゥーリアや、マハラジャのようなディスコが流行り始めていたし、そうしたディスコのドレスコードも話題の一つだった。
1989年ころにはバンドブームに火が付いた。伝説となるようなバンドも登場したけれど、この頃の風潮を現状肯定したようなバンドが平均的だった気がする。
この頃はユーミンが一世を風靡していた。バブルには欠かせない存在だ。都市伝説として、ユーミンはある雑誌のインタビューでこんなことを言ったらしい。今の日本経済の強さが続く限り私の人気は衰えることがない。そんなことを印象深く覚えている。その頃の空気感からするとその発言は、ユーミンの人気は永遠に不滅である。そのように取れてしまうからだ。
スキーも流行った。「私をスキーに連れてって」という原田知世の主演する映画がスキーブームに火をつけた。どこのスキー場に行っても客であふれていた。そうしたスキー場もあと数年したら不良債権になる。そんなことは誰も想像しなかった。
1990年に大学に入学した。学部は経済学部だった。だからそれなりに経済についてのニュースに関心は持っていた。
1990年に株価は最高値をつけ、その後は落ち始めたという。しかし地価はまだ下がっていなかったし、それが恐ろしくて忌まわしい事態の兆候であると気づいた人はほぼいなかった。少なくとも僕が通う大学の経済学部の教授でそうした話をした人はいなかった。就職状況もまだ良くて、拘束旅行のためゼミに出られないという電話があったという話を授業の雑談で聞いた記憶がある。
1990年に悪名高い「総量規制」が行われる。不動産に対する融資を規制する行政指導だ。映画「バブルへGO」では、これが日本を崩壊に導いた元凶として描かれるが、実際のところはそんなに有名な行政指導ではなかった。
僕が総量規制を知ったのは翌年の「ナニワ金融道」という漫画だ。僕自身が不勉強ではあったけれど、総量規制に対する世間の認知度はそんなものではないか。ましてやそれが引き金になって日本経済が崩壊するなど誰も想像しなかったのではないか。
そして1991年ごろになり「バブル崩壊」という言葉が現れ始めた。今まで好調だった日本経済だけれども、そろそろ不景気がやってくる。そんな空気感が漂い始めた。
1992年になると確実な不景気が始まった。企業の新卒採用マインドの冷えが現れたのもこの時期だ。この年に宮崎義一氏の「複合不況」という新書が発表される。この新書をよく覚えているのは当時のある授業の夏休み課題レポートとして、この本の論評を課題として出されたからだ。この頃の僕にはこの本に書かれていることが全く分からなかった。中堅大学の経済学部3年生の平均的学力なんてそんなものだった。
「複合不況」論の論旨を大まかに述べると、1992年ころから明らかになってきた不況は、通常の景気循環による不況と重なる形で金融部門の調整過程が重なり、いわば複合的に不況が重なることで情勢を悪化させているのではないか。そういう問題提起だった。
宮崎氏は特に金融部門の調整過程を問題視していて、株式市場の悪化がBIS規制対象となる銀行に貸し出しの抑制につながる行動を引き起こしていること。またバブル期に企業が将来自己資本になるだろうと予測して発行した転換社債やワラント債が株価下落と共に新株発行を選ばない投資家が増え、企業の財務体質に影響を与えて企業投資が控えられる方向に振れている。そうした金融部門でのよくない動きが信用逼迫を引き起こしているのではないか。
そうした問題提起だった。
この議論は経済学者の間に論争を生み、ある近代経済学原論という授業の講師が利子率の推移を示しながら、信用逼迫など起きていないと説明していた。
どの議論が正しいかは別にして、おおむねの世間の人々の感覚だと、あと少なくとも5年もすればまた好況がやってくる。オイルショックを乗り越えた日本経済がこれくらいのことで崩壊するわけがない。日本は戦後40数年を経て経済大国に成長したのだから。そのような楽観的な見方が多かった気がする。それはその頃にフジテレビの深夜放送でやっていた「5年後」という番組を一つでも見ていただければわかる。
そして1993年。就職戦線は急に厳しくなった。それでもほとんどの大学生が新卒採用してもらえたのだからまだラッキーなのかもしれない。翌年の新社会人向けの銀行のCMでは、1993年の就職活動を行った人々へのメッセージとして「平成6年組は(厳しい就職戦線をくぐりぬけて採用されたのだから)強い」とあった。しかし実際のところ平成6年組以降の新規採用者はこれから20年以上も続く不況のための調整弁として使い捨てられる運命にあった。もちろんそのようなことを僕も想像しなかったし、同級生たちも想像しなかった。僕のバブル体験はそんなところだ。

「検証 バブル失政」という本は、ちょうどバブルの頃経済記者だった著者の軽部謙介という人が、日銀や当時の大蔵省やアメリカのFRB元議長や政治家たちのインタビューや証言を参考にして、バブルの頃どういう過程で経済官僚たちがそのような経済政策を選んだのかを、ルポルタージュの形で再現した著作である。
この本の主役は当時の日銀の澄田総裁と三重野副総裁。そして大蔵省の銀行局の官僚たちだ。彼らがそのとき何を考え、何をしたのか、あるいはしなかったのか。どういう思惑がその政策の中に込められていたのか。それをなるべく分析をせずに事実(と思われること)に即して描かれている。
内容は少し高度で、経済学部3年生くらいの経済知識は必要ではないかと思われる。例えばJカーブ効果みたいな経済用語が(一応注釈はついているが)いきなり説明なしに使われたりする。また日銀が主役であるから外国為替相場の動きだとかよく文中に飛び出す。将来、円高ドル安が見込まれる場合円とドルのどちらを持っていれば儲かるか。それを時間がかかるとしても説明することができないとこの本を読むのはきついかもしれない。
さらにこの本は約30年前の日本の経済について書かれている。約30年前というともう教科書に書かれるレベルの歴史的事項である。そのため若い読者にはバブル期の全体的な俯瞰図が見えないから、この本を読んでもバブルについてよくわからないかもしれない。だからこの頃のことの記憶がない、あるいは体験がないという方には、東洋経済新報社から出版されている「平成バブルの研究」という本を「検証 バブル失政」にチャレンジする前にお勧めする。
「検証 バブル失政」はオーソドックスにまずプラザ合意から物語が始まる。この時に合意されたドル安誘導という為替介入に日銀がかかわってから、公定歩合をめぐる様々な闘いが繰り広げられることになる。プラザ合意による円高不況に対する対応として公定歩合の引き下げがまずあった。そしてその後、日銀の使命でもあるインフレを起こさないという行動原理から、その後何度も公定歩合の引き上げを澄田総裁や三重野副総裁は試みようとする。
しかしアメリカの外圧や大蔵省の銀行局の思惑からそれが実行できない。大蔵省は財政再建という目標から、財政政策の実行に消極的であった。だから金融政策で景気対策をしてもらいたいという誘因要素があった。アメリカも自国の金融政策や景気対策の兼ね合いから、日銀に公定歩合の引き上げをしてもらいたくなく、陰に陽に日銀に対して圧力をかけてくる。結局そうした圧力に負けて、あろうことか公定歩合の引き下げを最悪の形で実行してしまう。
1987年ころ、すでに日銀はバブルの存在に気づいていた。そして金融引き締めを行わないといけないと気づいていた。しかし公定歩合を引き上げることがなかなかできない。
BIS規制の交渉も描かれている。株価が下落するにつれて自己資本の減損の原因となった株式の含み益の算入の問題。それも実はその交渉当時の銀行の状況を念頭に「良かれ」と思って行ったことだった。BIS規制自体、日本の金融機関をターゲットに英国やアメリカが「外圧」をかけたとでも言うべき性質のものだったが、株式の含み益の一部を自己資本に算入してもよいという結果を勝ち取ったとき、交渉担当者はその内容に非常に満足したということが書かれている。
そして土地の値上がりの抑制を意図して行われた「総量規制」。それも政治家や国土庁のいわば善意から生じた政策であったことが詳細に描かれている。総量規制は土地を暴落させる意図で行われたものではなく、普通のサラリーマンが都市近郊のマンションが購入できるくらいの水準に土地価格を正常化したい。そんな思惑から生まれたものだった。そしてそれはその当時世間での要望と一致していた。
その頃に同じくして行った公定歩合の引き上げ。これも景気が減速している中で最悪のタイミングで行われることになった。しかし公定歩合の引き上げは1987年から悲願の既定路線だった。それにこの頃は「ジャパンアズナンバーワン」と言われた日本経済だ。多少の景気減速はあってもあれほどの重大事態の発端になるとは誰も予想できなかったようだ。たとえ日本最高の頭脳を集結させたエリート集団であっても。
バブルの発生。バブルの崩壊。それらの出来事を日銀や大蔵省内部から見てみるとそれはある種の宿命として起こってしまったこと。そのように感じてしまう。バブルの発生原因として真っ先にあげられる金融緩和政策。でも今も昔も日本にとってアメリカの存在は大きい。そうしたアメリカの外圧に逆らえるはずがない。バブル崩壊やその後の金融危機に影響を与える様々な政策にしても、バブル期の現状の金融機関にとっての最適解を求めて行ったことだ。
そこには「犯人」がいない。経済官僚たちは日本のためを思って、日本の国益を守ろうとして色々な判断を行っていた。
例えば「バブルへGO」という映画がある。あの映画ではバブル崩壊は「総量規制」が原因であって、あれさえなければ日本のその後の悲劇は起こらなかった。そしてその「総量規制」を企む「犯人」は伊武雅刀が演じる私利私欲しか考えない天才的な「売国官僚」だった。それだったら本当に話は簡単だ。件の売国官僚を血祭りにあげればいい。
だけど問題はそんなに簡単ではない。この「検証 バブル失政」という本に書かれている経済官僚たちの中にそのような「売国官僚」は一人も登場しない。そして「天才的な」スーパー官僚も登場しない。ここであることわざを思い出す。地獄への道は善意で舗装されている。
僕の人生はバブルに大きな影響を与えられた。先輩たちがバブルで踊っているところを、指をくわえて眺めていて、いざ自分たちの番という時になってバブル崩壊を目にすることになった。
そんな理由から「バブル」に対して、なぜこのようなことが起きたのか無関心ではいられない。そしてこのような事態を引き起こした「犯人」に対して大きな恨みや複雑な思いを感じざるを得ない。
今回読んだ「検証 バブル失政」という本にはその「犯人」はいなかった。あえて言えば合成の過ちとでも言うべきものだった。
バブル崩壊ののち、失われた20年があった。もしこの時期も、同じようなルポルタージュを書いたら「検証 バブル失政」と同じく、誰も犯人がいない物語が書かれることになるかもしれない。もしそうだとしたら、例えば年下世代の人々が失われた20年についての僕ら世代の責任追及を受けたとき、なんて答えればいいのだろうか。それはやはり「宿命」のようなものだったのだろうか。

2012年に僕らはアベノミクスを支持した。それ以来景気は上向きで、人手不足から新卒採用も好調だという。
でもアベノミクスに対する下馬評は意外とクールで、2020年まではイケイケだけど、それ以降は保証できないという意見をよく耳にする。
だとするとその後はどうなるのだろうか。今までチャンスはあった。でも僕らは安倍内閣に信任を与え続けた。そうした僕らの選択が正しかったのか、間違っていたのか。歴史の審判は2019年が過去になってからしか下すことができない。それはバブルや失われた20年と同じように。


検証バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか [ 軽部謙介 ]





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Last updated  2019.03.24 09:42:34
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trainspotting freak@ コメントありがとうございます aiueoさん コメントありがとうございます…

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