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ちょっとタイムリーな話題ではないのですが、私の研究に関して近頃よく考えることがあるので書いてみたい。
それは、マスコミの小泉首相に対する批判について、私なりに考えることが多くなってきたからである。 小泉首相に対する批判はいろいろあるが、まずは「経済政策に対する批判」であろう。 つまり景気が悪く、デフレスパイラルが起こっているのに、財政出動を押さえ、財政赤字の拡大を押さえようとする政策に対する批判。 これについては、私は経済学、財政学が専門ではないので、ここでは論評しない。 今日取り上げたいのは、 「小泉首相は構造改革に指導力を発揮していない」 という批判である。 具体的に言えば、小泉首相は2001年4月首相就任時、 「聖域なき構造改革を断行する!」と言って実に80%を超える国民の支持を集めたのだが、自ら具体論を示して、すぐさま構造改革を実行に移したわけではなかった。 例えば、 (1)財政構造改革では、2002年度予算で国債発行を30兆円に抑えるとのしたが、6月をめどに政府の経済財政諮問会議で経済運営の基本方針を作成することとした。 (2)行政改革では「特殊法人の徹底的な事業見直し」や「公益法人の抜本的整理合理化」をうたい、郵政3事業も「公社化後、民営化も含め検討する」としたが、いずれも具体案は「首相の私的諮問機関」で検討する、とした。 要は、小泉首相は「改革の方針は示すが具体案はこれから議論して いただく」という姿勢だったのである。 この「掛け声だけで中身なし」の政策に対して、 当初野党も、与党内の「抵抗勢力」も、マスコミも、小泉内閣の驚異的高支持率に恐れをなして、あまり批判ができなかったわけだが、 政府内で、議論が続いていくうちにだんだん批判が高まってきた。 その上、改革の方向性が明らかになるにつれて、それに反対する政治家、官僚、業界などの抵抗が激しくなってきたのである。 しかし、それに対する首相の姿勢は基本的に「議論の推移を見守る」というもので、自ら強力な指導力を発揮して改革を断行する、というものではなかった。 そして、この首相の姿勢がマスコミを中心に「丸投げ」と批判されるようになった。 。。。簡単にこれまでの「小泉構造改革」の流れをまとめると、こういうことになるんじゃないかと思う。 さて、「小泉首相は構造改革に指導力を発揮していない」 いわゆる首相の「丸投げ」姿勢に対する批判なのだが、これについて少し考えてみたい。 結論からいえば、私は小泉首相の丸投げ姿勢は悪くない。評価すべき点があると思っている。 これは「民主主義」のあり方に関わる問題だと思う。 「民主主義」。。。 これほど定義が難しい言葉はないだろう。 なにしろ、あの北朝鮮さえ、「朝鮮民主主義人民共和国」と名乗っているのである。どこが「民主主義」なのかさっぱりわからないが、北朝鮮政府は「民主主義の国だ」だと堂々という。 で、これほどに難しいのだが、私は現時点では 「民主主義とは、国の政策や国の利益の中身を国民自らが決定すること」 と一応考えている。 この「民主主義」の考え方からすれば、小泉首相の「丸投げ」は正しい面がある。 もしも小泉首相が「改革を断行する!」と言った瞬間から、全く誰の意見も聞かず、議論もせず改革を断行したらどうなるのか? 国民はその強力な指導力に一時的に興奮するかもしれないが、その興奮がさめた時にどうなるのか? 切り捨ててしまった反対論、少数意見、弱者の視点などに真実があることが明らかになるかもしれない。 いや、おそらくこれが石原慎太郎や小沢一郎なら、首相になった瞬間からどんどん改革を進めてしまうだろう。 しかし、石原や小沢も含め、間違いを絶対に犯さない完ぺきな人間などいない。しかし国家レベルで間違いを犯すということは許されないことである。 国家が、その政治指導者の誤りを取り返すことは極めて困難なことなのである。 それは、日本が敗戦後、今日にいたるまで近隣諸国との外交関係でその傷跡を残していることを考えてみれが明らかである。 小泉首相が「改革を断行する」と言いながら、実は具体論を持っていなかったことは、当然批判されるべきだ。 それでも、付け焼刃でブレーンを集め、高支持率に乗って勝手に改革を進めることなく、政治課題に対して国民の間で広く議論をさせようとした姿勢は、もっと評価されてよいと思う。 なんでもかんでも「首相の指導力」を期待して、それに任せっきりにするのは、国家の将来を考えると危険である。 重要な問題であればあるほど、「民主主義」的に議論を進めることが大切なのだと思う。 わたしが小泉首相でもう1つ評価することがある。 それは小泉首相になってから非常に議論がオープンになったということである。 これまで日本の政治といえば、主権者である国民からわからない密室で官僚と族議員が政策を決めているという印象があった。 国民の側から見れば、1つの政治課題に対して、いったいどの政治家が賛成で、どの政治家が反対か、官僚はどう考えているのか、どの業界が賛成なのか、反対なのか、さっぱりわからなかった。 ところが、小泉内閣になってからこれがわかりやすくなった。 端的な例が「道路公団民営化委員会」の最終報告決定の過程だろう。 建設慎重派の今井会長と、慎重派の猪瀬、松田委員などの対立は、議論を全てオープンにするという委員会の方針のため、全て国民が知るところとなった。 そして、議論がオープンであったために、抵抗勢力と言われた「道路族議員」、扇大臣、国土交通省、地方自治体などが、委員会の議論をマスコミに向かって批判できた。 そして、それらも国民が知るところとなった。 これで最終的に、今井委員長辞任という混乱振りまで国民は一部始終を知ることとなった。誰がなにを考えているか、どう行動したか、国民は全て知ることができたわけだ。 この間小泉首相は「議論を見守る」という姿勢に終始した。 大混乱後の最後報告にも、委員会の仕事に謝意を表し、 「あとは政治の仕事です」と淡々と答えた。 ここで小泉首相の「丸投げ」姿勢に対する批判はピークに達したわけだが、 私はこの「あとは政治の仕事」と淡々とした姿勢に、 小泉首相の、政治を知り尽くす男としてのしたたかさが隠されていると見ている。 首相のいうことは 「あとは国民が決めてくれるさ」 ということだと私は解釈している。 「国民が決める」とはどういうことか? これは、この「道路公団民営化委員会」の最終報告に、抵抗勢力が激しく抵抗し、改革が頓挫しかかった時に、もし国民の政治に対する怒りが爆発すれば、改革は成功するということである。 政治学の世界では、昔から言われている1つの命題がある。それはアンソニー・ダウンズという学者が言った、 「政治家は選挙で再選するために政策を立案するのであって、政策を立案するために政治家になるのではない」 という命題である。 これは昔、自民党の大物が言った名言「政治家は、選挙に落ちたらただの人」と基本的に同じ考え方。要は、「政治家にとって選挙に勝って議席を維持することが最も大切なことである」ということである。 この命題は今でも生きている。 もしも抵抗勢力とされる政治家が地元に帰ったとき、 「改革が頓挫すれば次の選挙が危ない」という空気を感じることになれば、その政治家の考え方などあっという間に変わる。 彼は地元から国会に戻ればテレビ画面の前で必死に「改革」を訴えているだろう。 政治家なんて、しょせんそんなもんだ。 日々のニュースに注目してみてほしい。 そして政治家の行動をよく観察してほしい。 何をやっていても、突き詰めると全てこの「再選」のために行動していることがわかるから。 そしてこの政治家の特徴を突き詰めて考えると、 小泉首相は抵抗勢力の政治家を説得できないことがわかる。 なぜなら、彼は選挙でこの政治家に一票を投じるわけではないから。 政治家を説得できるのは、選挙で一票を持つ国民一人一人だけなのだ。 国民が構造改革を日本に必要なものと考えるなら、 国民自身が抵抗勢力に対し、 怒りを選挙での投票行動で示すぞという姿勢をみせることが大事なのである。 長くなりましたが、まとめます。 小泉首相の「丸投げ」姿勢は、評価すべき点もある。 なぜなら (1)私の考える「民主主義」とは、「国の政策や国の利益の中身を国民自らが決定すること」である。 (2)小泉首相は構造改革という政治課題に対し、高支持率に乗って拙速に改革を進めることなく、国民の間で広く議論をさせようとした。この姿勢は「民主主義的」であり、もっと評価されてよいと思う。 (3)改革に関する議論を公開したことで、主権者である国民に、政策の是非についての判断材料を与えた。これも「民主主義的」である。 (4)全てを「首相の指導力」に依存したとき、その首相が間違った判断をした結果取り返しがつかない事態となったときどうするのか?政治指導者が誤った判断をした結果、それを取り返すのがどれほど困難かは、戦後日本の歴史が証明している。重要な問題であればあるほど、「民主主義的」に議論を進めていくことが大切である。 (5)最後に構造改革の是非を判断するのは、国民である。政治家は「次の選挙で再選されること」を何よりも優先する。「改革に抵抗すれば選挙に落ちる」ということを、国民が政治家に知らしめれば、政治家は変わり、改革は成功する。 政治家を動かせるのは、選挙で一票を持つ国民だけである。 日本の将来を決めるのは、首相個人の指導力ではない。 主権者である国民自らの、主体的な行動なのだと、私は思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2003年05月15日 03時39分09秒
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