カテゴリ:Goto Islands
「似首(にたくび)」とは変わった地名で全国的にも珍しい。
平家の落人伝説とも関係なく、「似(にた)」は「仁田」とのことで肥沃な水田を意味し、「首」は細くなる峠道のことで、どうも本来的には「仁田峠」と同義語であるらしい。 五島列島は昔から漁場として、又中国貿易と中継点として遣唐使の時代から開かれていたらしく、その中でも上五島は平戸藩、福江藩の領有権が交錯していた土地でもあった様です。 其処に福江藩から分知された富江藩が割り込んで来たことで、漁業権海域を巡っての血を見る出入りもあり、漸く「海上真っ二つ」裁定によって決着がついた歴史があります。 こんな話をしてくれていた、家内の親戚で似首郷の長老格であった叔父が昨年末89才で逝去、先日49日法要があったので五島列島に行って来ました。 似首郷外れの海岸に立つ事代主神社には人影も無くひっそりとしていましたが、神社入口には、領有権を争った経緯などを示した魚目浦絵図コピーの付いた説明板が掲示されていました。 万治二年(1659)、江戸幕府によって福江藩1万5千石から分知、3千石の富江藩創設が許された。これによって有川村は、従前通り福江藩に止まったが、魚目村は富江藩となった。藩を異にした双方の間には前海の海境を巡って論争が起こり、27年間にも及んで出入りが絶えなかった。 両藩の間でも協議が重ねられたがいっこうにラチがあかないところから、業を煮やした有川方では貞享四年(1687)福江藩から訴訟の容認を得て、代表を江戸に送り、幕府に訴訟した。 その結果、幕府は有川、魚目の双方にそれぞれ浦絵図を作製し、口上書を添えて差し出すように御指紙をもって命ぜられた。 これを受けた魚目方では早速長崎の絵師に正副二軸の作製を依頼し、完成するやこれに口上書を添え上京、幕府に提出した。この裁判は、双方評定所呼び出しの上、元禄二年(1689)二月御裁許が申し渡された。結果は、有川方の勝訴となり、海域の約半分が有川領となった。 この絵図には、当時の漁場の様子が詳しく書かれているばかりでなく、地名の由来、説明など歴史的事項、地形や神社寺の位置関係も克明に記され、当時のことを知る上で、学術的価値がある。 代々、富江の五島家に保存されていたが、昭和八年(1933)、当時の五島家現主から似首の事代主神社に寄進されたものである。 似首峠を越えた地帯には中通島の穀倉畑も散在していますので、それを称して「似首(仁田峠)」と言ったのか、五島鯨等の水産資源が豊富だったことが「似首」の由来になったのかは定かではありません。 人口の減少・高齢化が激しい地区ですので、長老格の知識を受け継ぐ人達も育っていない様で寂しいものがあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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