テーマ:徒然日記(22831)
カテゴリ:Opinion
此の奇抜にも思える「書を捨てよ、町へ出よう」と言う言葉は、劇作家寺山修司の発案では無く、元来フランスの作家アンドレ・ジッドの小説に書かれた表現であるらしい。 狭い自己確認の世界に留まることを止め世の為人の為に活動して、この世に自分の生きる存在意義を確かめて欲しいと意味に判断したいのです。 「書を捨てよ、町へ出よう」は、1967年に劇作家寺山修司が書いた本で、刺激的なタイトルも広く知れ渡っていて、同じタイトルの戯曲や映画も作られている。 大学に入って病気になり、療養生活から快方に向かった頃、寺山は生きる実感を求めて読書三昧の生活から遠ざかろうと思い、それまでの豊富な読書体験から、アンドレ・ジッドの紀行的詩文集『地の糧』で、「書を捨てよ、町へ出よう」と言う表現を知るのである。 どうやら彼は「生」の実感を求め始めた後でも、猛烈な読書家であり続けたのだ。生の実感をもとめ、「書斎の知識」を去って巷に出て行くという発想は、それ程新しいものではない。 例えばゲーテの「ファウスト」で、大学で法学・哲学・医学・神学の全てに通暁した大博士ファウストが、昔よりちっとも利口になっていないことに絶望する処から始まる。彼の場合もそうした書斎の知識を去って、現実の体験、つまり「行為」の世界に、悪魔メフィストを従えて飛び込んでいくことになる。 ゲーテ、ジッド、寺山と、彼らは皆、「反読書」「反書物」的なスローガンの持ち主、読書無用論の弁護者と思われかねないが、事実はどうやら全く逆で、いずれ劣らぬ読書家で、言語によって創造的な仕事をなす人々がそうでないと考える方が、むしろ不自然であろう。 結論として、「書を捨てる」のもいいが、その前に「書を読む」必要がある。あるいは「町へ出る」のも良いが、出た後でも「書を読み続ける」必要が大いにある。寺山もジッドもゲーテも、実はその代表的実例を提供しているのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.09.27 08:56:19
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