端午の節句と屈原
今日は「こどもの日」、元来は五節句の「端午の節句」とされ、「柏餅」や「粽(ちまき)」を食べつつ、男の子の成長を願う風習となっています。しかし、粽(ちまき)を食べる由来には、怨霊を慰めると言う歴史もある様です。「こどもの日」として祝われる5月5日、元来は五節句の「端午の節句」にあたります。「端午(たんご)」は5月最初の午(うま)の日のことで、午(ご)の音が五に通じることなどから、奈良時代以降、5月5日が端午の節句として定着したそうです。この節句は、家の後継ぎとして生れた男の子が、無事成長していくことを祈り、一族の繁栄を願う重要な行事で、関東では「柏餅」、 関西では「粽(ちまき)」を食べます。端午の節句に粽を食べる風習は、紀元前3世紀の中国、楚で始まったとされる。国王の側近で忠臣であった屈原は人望を集めた政治家であったが、強国秦の策略で失脚し失意の内に汨羅(べきら)江に身を投げた。それを知った楚の人達は粽(ちまき)を川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。明治31(1898)年3月26日、岡倉天心は東京美術学校を追われた。欧米型近代化に背を向ける天心流の国粋主義が、国家政策の邪魔になったともされる。天心の受けた打撃は大きかったが、ただちに彼は、私立美術学校として日本美術院の設立に動く。天心失脚に憤慨した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら教官17名は4月に辞職、天心と共に歩んでいくことを決意した。10月15日、日本美術院はスタート、開院式に合わせて記念展覧会が開催され、会場に飾られた大作がされた。その1つが大観の「屈原」だった。横幅が3メートルある大画面に、1本の花を手にして荒野をさまよう道服姿の屈原が描かれていた。屈原は中国古代の楚の人、政敵の告げ口によって江南に放逐され、詩を書き残して入水したのである。人々はこの絵に美術学校の校長を追われた天心の無念きわまる姿をみて、胸を打たれたのである。天心の胸中を察し、思わず涙するものもいた。