こうしてようやく
バクテリアの話など出来るようになった。さて、細菌やバクテリアともなればもう意識などと言うことは論外だと言うことになる。それらの多くは最早まともな神経回路すら持ち合わせていないではないか?それでどうして意識的であるなどと言うことができようか?そう、その通りカモ知れない。けれども、耐性菌の事を考えるとどうにも合点がいかない。ソレは人に対しても菌にたいしてもである。抗生物質の発明のきっかけは、ある実験室での培養ミスである。コノ状況下において担当者で有るところの科学者が青カビがある種の抗生物質を分泌してると解釈される現象を「発見」したのである。この分泌物を医学的に応用し、「発明」された物がいわゆるペニシリンなる物であったように記憶している。さてこの偉大なる妙薬の発見者であり、発明者で有るところの科学者は不思議なことに自らの偉大なる発明に対してこう言い残しているのである。「医学がコレを乱用することがあってはならない、その使用は他に有効な治療法が見いだせない場合に限るべきである。」何故その様な事を言ったのか?発明者なら他にもっと大事な主張すべきことがあるのではないか?例えば「その特許権を発明者の死後100年にまで伸ばしてくれ、そうしないとボクやる気なくなっちゃう!」などと言うべきではなかったか?けれども彼はそんなことは言わなかったし、やる気だって無くさなかった。世の中にはつくづくいろんな「先生」がいるものである。しかし、彼の主張が医学において生かされることはついになかった。21世紀の現在に至って尚、抗生物質使われまくりのこの現実、彼は自らの主張における科学的根拠についても明言しているのである。その根幹をなす物がこの「耐性菌の脅威」なのである。細菌の世代交代は非常に短いスパンで行われる例えば一日とか、数時間とか、それより短い物さえ有る。なので、いわゆる「自然淘汰」の原理により投与された抗生物質に菌が耐性を持つようになるのである。しかし、驚くべき事に脅威はその原理に寄る物だけではない。実を言うと抗生物質にさらされた場合、耐性を持つ個体が持たない個体にその遺伝情報を分配することが前世紀においてすでに観測されているのである。だによって現代のいわゆる薬学は常に「新薬」を開発し、開発し、開発し続けなくてはならないハメに陥っているのである。ソレは医学的には確かにネガティブなスパイラルなのですが資本主義的にはどうでしょう?その辺のお話となると難しくて頭の良くないボクには全く分からないので、まぁ、置いておくとして、ボクはその映像を見たことがあるのだが、コレがいわゆる機械的反応で有るとはどうしても思えなかった。(頭が良くないせいかもしれない、しかし、頭が良ければコレが機械的反応に見えるとするなら、ボクはそう言う人達が偉いと言うことは認めるけれども羨ましいかと問われれば必ずしもそうではない)これにいわゆるアポトーシスを考え合わせてみるとどうであろうか?ここで質問「オタマジャクシからカエルへの変態はその個体が意識的に行っている物なのか?それとも細胞レベルでか?あるいは事前になされたプログラミングに対する機械的な反応に過ぎないのか?だとしたらそれほどに精緻な情報を書き込んだのは一体誰か?自然淘汰なる現象はそれほどまでに有能なのか?」カエルの変態とバクテリアの情報分配との共通項は「系の存続の必要性」である。ところで、この国における封建時代の特定階層が抱いていた「お家大事」の概念とその社会性及び実効性には、そう言った物となにかこう、不思議な線形性を感じないだろうか?(バカの考え休むに似たりと言われてしまえばソレまでですが)しかしですね、明らかに頭がよいいわゆるエリートの医学者からもこのような証言をする人がいたりするのです。「観察すればするほどに、私には血球や免疫システムの各々やらが意識的であるように思えてならない。」と、円の話に入ることが出来るようになった。つまり、今までのはいわゆる前振りだったのである。それはまだボクが教育とか言う物を義務として受けていた頃の話である。当時の「数学」(教科書の表紙にそう書いてあった)なる物は当然理想的であり、イデア論的であり、過激なまでにプラトニックで有るところのユークリッド幾何学や、初歩の線形代数などで有ることは今も昔も変わりはないと思う。ある日ボクは0,3ミリのシャープペンの芯を見ながらつくづくこう思った「0,3ミリと言うのは何と細い事か!でも、0,5ミリの芯と何がどう違うのだろう?」要するに少なくとも個人的には使用するシャープペンが0,3ミリでも0,5ミリでも都合上問題なかったのである。続いてこうも思った。「0,2の違いに問題がないのなら0,14ならばなおのことである。」と、言うわけでその日以来ボクは円周率は3と言うことにしてしまったのである。こうすると計算するときに(特に頭の良くないボクなどは)とても便利である。けれども当時の教職者からは強い指導を受けることになった。でも、ボクはその頃イデア論、つまり哲学者としてのプラントンに惚れ込んでいた時期でもあった。だから、「π等という物は欺瞞である、それは直線を以て円を表現するに等しい、そんなことは不可能だし形質的な近似は膨大な多角形となる、しかし円は角を持たないと教えたのは貴方ではないか?」等という理論展開をしてしまった。その結果、ボクの脳みそは文部科学的に「もの凄くOKでない」と言う風に結論づけられてしまったのだが、マァ、ソレはその通りであると思う(要するにボクの頭は良くないのだ)しかし、その時の議論で「直線も曲げれば弧になる」みたいなことを言われ「直線が直線である以上、ソレは曲げられない、弧と直線は絶対的に違う」と主張した。で、「では何が違うのか?」と聞かれて答えに行き詰まってしまった。以来何ヶ月かその事について考え、ある日ハタと「直線と弧では存在する次元が違う、弧は多分1次元ではなく1,5次元に存在する。」と思いついた。ちなみに当時フラクタル次元の存在は数学的に周知であった、ボクは無知なるが故に若い貴重な時を浪費してしまっていたのである(オマケに弧は1,5次元ではないと言う始末である)オマケにその頃になると「次元は0,1,2,3と言う風にとびとびに存在しないというか出来ないのではないか!?」と考え始め、ついには光のスペクトル図(例の紫外線から始まって赤外線に終わる鮮やかなアレ)を持ち出して「次元とはこんな感じに在るのではないか!?」などと思い始めイデア論から離れ、光学に走り波長を知ってガックリ落ち込むなどしている内に卒業してしまった。で、次の学校で所属したクラブの顧問の先生がそう言う議論OKの先生であり、加えて素粒子等という物を教えて貰ったりなどしたわけである。ソレは驚愕であった。ソレまで原子に構造がある事は知っていたが更に小さい粒子(ただしこの粒子、ボク等が普通に眼にする例えばコショウ粒のようないわゆる粉粒とはその存在性が随分と異なる)がそれも大量に存在するのである。その頃は随分いろんな議題が在った「何故サケは遡上するのか?」「進化は単方向か?」「高等生物は本当に高等なのか?」「人類は何故戦争をしながら平和を語るのか?(あるいは語れるのか?」等々・・・いずれも結論は出ずじまいである。それでもボクは諦められないのでこの歳になるまでそう言うことをずっと追いかけ続けている。しかし、ここ数年、ボクを悩ませている一つの疑念がある。それは、「人間の思考は、その対象に対して究極的には負の曲率に開いているのではないか?」と、言う物である。そうなると求める解が如何に簡単な物であっても、その真の解に大して微分的近似は可能であるが決してそれ自体を得ることは出来ず、ソレばかりか更に精度を増すに従いかえってドンドン離れていくことになってしまう。そう言う意味で加速器の進化に伴い今後も素粒子はドンドン発見され続けるだろう、けれどもそう、この考え方は結局の処不可知論である。そしてソレは例え如何に稚拙であるとしても思考し続けることを選択した者にとって余りOKで在るとは言えない物である。ソレを分かっていながら、ボクはここ数年という物思考上の罠とも言えるこの疑念の穴から抜け出せずにいる。相対的であり、非線系であるこの世界において一部の天才を除き線形思考型の脳しか持ち得ない人間がどうして狂気に陥らずに普通に暮らしていくことなど出来るのか?線形ではあるけれでも飛び飛びでもあるからか?(思考は常に睡眠などによって中断される)それがいわゆる量子学的整合性を生んでいるのであろうか?それとも人類はそもそも種として狂ってしまっているのであろうか?