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北 の 狼

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Mar 9, 2005
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闇の世界に生きながら、魅惑的な芸術を創造し続けてきたファントム・・・・・。
フェントム自身の相貌は、俗世間から隔離されざるをえないほど醜いもので、芸術的な<真>や<美>とは対極的なものでした。そういう彼にとって、芸術は以下のように二つの意味を有していたのです。

・芸術は唯一、ファントムの不遇の意識や世間に対する反感を、積極的な生の目標(<真>や<美>)へと転化させうる可能性を秘めたものでした。つまり、芸術によってのみ、彼は(相貌の醜さに起因する)”生き難さ”を打ち消し、彼の惨めな境遇に抗うことができたわけです。

・芸術は、<真>や<美>への予感を通じて、人間の生をもっと充実させたいという欲望を誘惑しますが(エロス・イメージ)、そのことは”生き難さ”の源泉ともなるのです。何故なら、生の充実は他者との交わりを抜きにしては達成できませんが、ファントムにはその交わりこそが欠けていたのですから。

このように、ファントムにとっての芸術とは、自分を拒絶する世間への反感の表徴である一方、世間において自己実現と遂げたいという欲望の具現化でもあったわけです。彼にとって芸術とは、そういうアンビバレントな存在だったのです。
たぶん、この傾向は、多くの実在の芸術家にもあてはまるのではないかと思います。



クリスティーヌは、最愛の父が臨終の間際で約束してくれた「私が死んだら『音楽の天使』を授けてあげる」との言葉を信じて、その父の愛の印を必死で探すあまり、オペラ座でどこからともなく響くファントムの声を聞いた時、彼こそが「音楽の天使」だと思い込むにいたります。実際、ファントムが授けてくれる音楽は素晴らしいものがあったのでした。

ファントムとクリスティーヌ・・・・どちらも心に傷を抱えた孤独な存在でしたが、芸術を通じて心を通い合わせることができたのでした。
ファントムのほうは、クリティーヌとの交わりを通じて自己実現の可能性を求め、クリスティーヌのほうは、ファントムからの教授を通じて父の愛を実感するというかたちで。

クリスティーヌとファントムが小舟にのり、オペラ座の地下に隠されたファントムの棲家へと向かうシーン。ここは前半のクライマックスで、クリスティーヌはファントムの魅力に完全に取り込まれていきますが、この時、両者にある転機が訪れます。
クリスティ-ヌは純真な少女から魅惑的で情熱的なソプラノ歌手へと変貌し、ファントムは表情に自信が溢れ将来への手応えをしっかり掴んだかのようであります。そして、クリスティーヌは、戸惑いながらも「闇の世界(=狂気)」に幻惑され、そこへ踏み込みことの心地よさを覚え、他方で、ファントムは、クリスティーヌという存在が、自分の生を充実させるための触媒ではなく、彼女を愛すること自体が生の目的であると気づいたのでした。
つまり、二人がファントムの棲家へと向かったこの行為は、両者にとってある種のイニシエーションとしての意味合いがあったわけです。

そういう経験を共有した二人の前に割って入ってきたのが、クリスティーヌの幼馴染の青年ラウルでした。ラウルは、世間での成功者であり、礼儀をわきまえ、考え方に邪なところがなく、また女性を一目ぼれさせる美貌の持ち主でもあり、ファントムとは正反対の存在なわけです。
そして、クリスティーヌは、この両者の間、すなわち恋愛と慈愛という感情の間で翻弄されることになります。


◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


ここで、「ファントム=クリスティーヌ=ラウル」という”三角関係”について、芸術論的に考察してみましょう。
まずは、過去の私の投稿から引用します。


*************
理性的、道徳的、美的等々のあらゆる制約や要請を無視・破壊し(意味性を徹底的に剥奪し)、「書く主体」を放棄する時、あとに何が残るのか? ダダは、この問いに対する解答を、根源的に追い求めたわけです。このような極端かつ極限的な手法は、破壊対象(理性、近代)に対して極めつけのダメージを与えるとともに、逆に、でてくる「解答」によってはダダ自らの限界を逆説的に露呈してしまうことにもなりえます。

シュルレアリスムの場合、例えば自動記述は、外観としての私(意識、、理性、主体)が、内面に潜むもうひとりの私(無意識、感性、客体)によってとって替わられる「夢の書き取り」でしたが、どちらの「私」も私の一部にはちがいありません。ダダの場合、バラバラに解体された私が、偶然の産物と化したオブジェのなかで、根絶されます。

自動記述が、深層の「私」を映す鏡であろうとしたとすれば、ダダの詩は、私の屍体置場でした(ダダのイメージには、常に、そういう不気味さがつきまといます)。
人間存在の深部に下降して、そこから(人間の生を充実させる)何ものかを現実界へ持ち帰ろうと試みるシュルレアリスム。下降したまま、虚無の世界に留まり、そこに安住の地を求めようとするダダ。
両者の根源的な違いは、この辺にありそうです。

「シュルレアリスム:ダダとの違い」
*************


ダダの魅力的な世界は、例えば、以下のような作品で窺うことができます。


*************
・・・・その日から、昼の内容は夜の大壜に注ぎこまれるだろう。

この世界では、からだに燐を塗られた犬たちが放たれ、歩行者の足もとを照らす。
人びとは悲しみという感情を失い、恐怖と残虐が新しい喜びとなる。

ガソリンを腹いっぱい飲まされた犬の群れが、火を吐きながら、美しい裸の女たちに襲いかかる。老人たちは巨大な木製の本のページの間にはさまれて、押し花のように干涸びる。前部に鋼鉄の長い針をつけた自動車が、映画館のまえで列をつくっている連中を串刺しにする。

そして、人びとは歩道にならべられた大箱にはいって、交代で夢のない眠りをねむる。死の恐怖が姿を消し、絶対的な忘却が第一の掟となったこの社会では、人間の生命はもはやなんの価値もない・・・・・

「シュルレアリスム:アヴァンギャルド(5) 」
**************


私がここで主張したいのは、「ファントム=クリスティーヌ=ラウル」という関係は「ダダ=シュルレアリスム=リアリズム」と相似形をなす、ということです。

・自らがつくりだした闇の世界にクリスティーヌとともに永住しようとするファントムは、「下降したまま、虚無の世界に留まり、そこに安住の地を求めようとするダダ」に他なりません。

・狂気(=父へのコンプレックスが嵩じた幻想世界)から逃れるために、一度は狂気の世界(=ファントムの闇の世界、ダダ)へと舞い下りた後、ラウルの援けによって現実界へと復帰したクリスティーヌは、「人間存在の深部に下降して、そこから(人間の生を充実させる)何ものかを現実界へ持ち帰ろうと試みるシュルレアリスム」とピッタリ一致します。

・もちろん、美貌のラウルは、経済的・社会的成功者で思考は理性的。つまり、俗世間的存在の典型でありリアリズムの権化ともいってよい存在なわけです。


『オペラ座の怪人』からは、芸術論的にこういう意味を読み取ることができるという次第です。





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Last updated  Mar 10, 2005 01:33:58 AM
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