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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.07.10
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前回(7月8日)の記事に掲載した竹原市の東野の絵図をもう一度見てください。

画面のほぼ中央部に描かれる山すその尾根のあたりに、「浄光庵(ジョウコウアン)跡」という記載があります。

ここには、浄光庵という小さな寺があったようですが、絵図が記された19世紀初頭以前に廃寺となっていたため、寺に関する情報は何も伝わっていません。
元禄15年(1702)の「竹原東野村指出帳」にも記載されていませんから、江戸時代の早い段階に廃寺となってしまったようです。

しかし、その場所は、ある程度は確定できます。
いま、青田の谷から山にはいった場所に、むかし上閑(ジョウカン)さんが住んでいたという屋敷跡があります(現在は山林です)。
現地での聞き取りによると、上閑さんの屋敷跡には、古くは寺があったという伝承があるそうです。

「ジョウコウアン」と「ジョウカン」、似てませんか。
おそらく上閑さんは、浄光庵の跡地に屋敷を建てたことから、ジョウカンと名乗るようになったのでしょう。

上閑さんの屋敷跡からさらに山にはいった場所には、無縁墓地があり、宝篋印塔の基礎や五輪塔の笠なども残ります。
この点からも、上閑さんの屋敷跡あたりを、浄光庵の跡とみて間違いないでしょう。

それでは、浄光庵は、いつごろ存在したのでしょうか。
その手かがりは、現地に残る宝篋印塔や五輪塔です。

左上の写真は、そのなかでもとりわけ造りのしっかした宝篋印塔の基礎で、上部は竹原市内では数少ない二段式です(基礎1)。
横幅は38.6センチあり、縦横の比率や格狭間の特徴、輪郭の上下の幅の比率や上部の段形側線と輪郭の横内側線が一致することなどからみて、14世紀後半の基礎となります。

また、この基礎が残る墓地から少しのぼったところにも、宝篋印塔の基礎や五輪塔の笠などが埋もれています。
宝篋印塔の基礎は2基あり、いずれも上部は反花式で、横幅は、35.5センチ(写真未掲載)のものと、36.7センチのもの(写真左下・基礎2)になります。

このうち、基礎2と、さきほどの基礎1の格狭間の花頭形(矢印の位置)を比較すると、基礎1は左右にほぼ直線的に開く傾向が読み取れるのに対し、基礎2は、左右にゆるやかに傾斜して開くという違いが読み取れます。

この傾斜タイプ(B形)は、直線タイプ(A形)とともに14世紀からみえるものできますが、側面の縦横の幅の比率は、基礎2が0.51、基礎1が0.49となり、基礎2のほうが、わずかに高くなります。
このことは、基礎2のほうが、基礎1よりも新しい基礎であることを意味しています。
また、花頭形の両端にある円弧の位置や、脚間の位置などは、14世紀後半の特徴を持ちます。
しかし、側面にある輪郭の上の幅と下の幅の比率が1.35あることから(14世紀は1.2以下)、いまのところ15世紀前半の基礎と考えています。

ちなみに、15世紀にはいると、基礎の上部の高さが増して、全体の縦横の比率が0.75前後となりますが(14世紀は0.72以下)、先の調査では、この基礎の全体の高さを計測していません。
このため、今年の夏の調査で、あらためて各部を細かく計測しなおしたいと考えています。

この場所には、宝篋印塔の残欠のほかにも、五輪塔の水輪1基、火輪1基、空風輪3基が残ります。

このうち火輪(写真右)は、高さ13.8センチ、幅21.2センチほどで、小型の五輪塔の残欠になりますが、その形からみて、小早川墓地にある戦国期の五輪塔よりも、古いタイプとなります。

また、上閑屋敷へむかうHさんの家の近くにも、宝篋印塔の基礎が埋もれています。

こうした点からすると、浄光庵は、14世紀後半から15世紀にかけて存続し、戦国時代の終わりごろまでに廃寺となったと考えられます。
また、基礎幅38.6センチという宝篋印塔の大きさから判断すると、塔の造立者、さらには浄光庵の開基は、小早川氏の一門、そのなかでもとりわけ有力な一門とみてよいでしょう。

いまこの一門が誰なのか、明確にはできません。
しかし、青田の谷の出口近くにかつて住んでいたMさんの屋号は、「兼久」(カネヒサ)といいます。
谷には「兼久山」があり、谷の奥にあるサエモン池とその奥の池を、Mさんの家では「兼久池」と呼び伝えてきました。
どうやら兼久は、谷を押さえる中心的な家だったようです。

小早川一門に兼久という家はありませんが、包久(カネヒサ)ならばいます。
包久は、小早川一門のなかでも、草井(クサイ)と並ぶ筆頭の家でした。
おそらく兼久とは、この包久をさし、その系譜につらなる家とみてよいでしょう。

そうなると、小早川一門の包久は、青田の谷の出口あたりに屋敷を構えて、谷を押さえていたのかもしれません。
そして、浄光庵は包久の寺であり、宝篋印塔の造立者も包久だったのかもしれません。

谷の出口あたりに一族筆頭クラスの包久が住み、谷を出たすぐ北側の山麓の諏訪迫(上青田)に小早川家の当主が住む、そんな風景がうかんできます。

このように、たとえ記録がなくとも、宝篋印塔を通して、歴史の風景を復元していくことが可能なのです。





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最終更新日  2005.07.11 11:42:56
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