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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2007.05.31
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カテゴリ:竹原市の石塔

寄せ集めながらも2基の五輪塔がある仁賀町西谷の満福寺跡(八坂神社)。

五輪塔の残欠ならば、その周辺にも散見します。


寺跡から300メートルほど北東にあるH家の裏には、火輪3、水輪3、空風輪1の残欠があります。




dc091831_edited-1.jpg



少なくとも、3基の五輪塔があったわけで、それぞれの火輪の大きさは、軒幅24.31センチ、25.24センチ、23.34センチとなります。



dc091833_edited-1.jpg

上記の写真の奥にみえる寄せ集め塔。水輪+火輪+水輪


dc091834_edited-1.jpg

水輪+火輪



満福寺跡のむかって左側の五輪塔(火輪幅26.66センチ)と同じころか、それ以降(戦国末~近世初頭)のものと推察されますが、やや小さくなります。

造塔者は、満福寺跡の五輪塔の造塔者よりも、やや下のクラスではないでしょうか。


満福寺跡から南西200メートルほどのS家の裏山にあるS家の墓所にも、寄せ集めの五輪塔が3基あります。




dc0918141_edited-1.jpg

dc0918132_edited-1.jpg



写真のように、空風輪3、火輪4、水輪1、地輪1となり、少なくとも4基の五輪塔があったようです。


H家の裏にある五輪塔とほぼ同じ、戦国末から近世初頭のころのものと思われますが、空風輪をはじめ、形があきらかに異なることから、同世代ではなく、数代にわたって造塔されたる五輪塔と考えられます。

空風輪は、むかって右のものが古く、火輪も、右側(軒幅中央27.03センチ)、左側(幅23.4センチ)、中央(24.5センチ)の順になるようです。

このうち右側の火輪は、この界隈では最大の火輪になりますので、H家裏の五輪塔の造塔者よりは、上のクラスと考えられます。

しかし、満福寺跡の五輪塔(右側)ほど古いものではありませんから、満福寺跡の五輪塔の造塔者よりも新しく、おそらく戦国末期に台頭してきた家が建てたものでしょう。

なお、左の火輪の下にも、もう1基火輪がありますが、摩滅が激しく、大きさも小型の火輪になります(火輪幅20.0センチ)



測定データ(単位はセンチ)

空風輪(右側) 全体の高さ21.0 空輪最大径13.97 風輪最大径13.97
空風輪(中央) 全体の高さ33.9 風輪最大径19.7 
空風輪(左側) 全体の高さ23.87 風輪最大径14.2
火輪  
 右側 軒幅27.03(中央) 26.51(下端) 26.93(軒上端)高さ18.4
    上端13.58 軒上端摩滅 ほぞ穴径7.76
 右側 軒幅24.5(中央) 高さ21.8
左側(上) 軒幅23.4(中央) 高さ14.7
左側(下) 軒幅20.0(中央) 摩滅激しい
水輪 最大径30.9
地輪 幅(上端)28.9 高さ8.5

中央の五輪塔の地輪にみえるものは自然石



このほかS家から100メートルほど南西にあるK家の墓所にも五輪塔の残欠があります。



dc0918142_edited-1.jpg



写真ではわかりにくいのですが、空風輪1、火輪1、水輪2、地輪1の存在から、少なくとも、2基の五輪塔があったようです。

このうち火輪(軒幅28.1センチ×22.2センチ)は、摩滅も激しく、左右の反りが強く、下端が水平であることなどからすると、比較的新しく、近世初頭のものでしょう。

ここは墓所とはいえ、K家が離村しているため、参る人もいなくなり荒れています。

離村者が増えると、このように祖先の墓も忘れ去れていくのです。

いま村には、こうした忘れられた墓所が各地に見られます。

村の衰退を物語るあかしです。


  
以上、満福寺跡とその周辺には、少なくとも13基の五輪塔があったことを確認できました。

宝篋印塔は一基も確認できませんから、小早川の一族クラスのものは、いなかったのでしょう。

また満福寺跡にある五輪塔がこのあたりでは比較的古いものになりますが、あとは戦国末以降のものとなります。

こうした点から、満福寺跡にまつられている五輪塔の主が西谷にいた領主クラスのもので、他の五輪塔の主は、その領主に随う従者の家という想定もできるかもしれません。








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最終更新日  2007.05.31 13:04:18
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