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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.09.30
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大きな宝篋印塔といえば、東広島市安芸津(あきつ)町風早(かざはや)の浄福寺にもありました。

残念ながら塔身を欠き、さらに相輪のかわりに、お坊さんのお墓として使用される無縫塔(むほうとう)をのせています。

このため、なんともへんてこな格好をしていますが、もとは、たいへん立派な宝篋印塔だったようです。

基礎の幅は、61.0センチ、高さは、37.6センチ、側面の高さは、29.5センチあり、昨日紹介した竹林寺の宝篋印塔とほぼ同じ大きさです。

しかし、基礎の高さが低い分だけ、こちらのほうが古いことを示しています。

基礎の大きさからして、もともとは6尺5寸塔として立てられたものでしょう。

なお、全体の高さは、三原市の米山寺の元応元年塔(重要文化財)や、竹原市吉名の延文二年塔をもとに、基礎幅の3.3倍で計算しています。

基礎の上部は、反花を省略した繰型(くりがた)をしています。

基礎側面の輪郭幅は、上部は4.5センチ、左は6.2センチ、下部は4.5センチあります。

笠もなかなか立派なもので、高さは31.0センチ、軒幅も53.0センチあります。

またしても細かい話になりますが、時代の特徴がもっともよくあらわれる基礎の各部の比率は、全体の高さと幅の比率が0.62、側面の縦横比率が0.48となります。

また、側面にある上下の輪郭の幅の比率は1.0、上と左の輪郭の幅の比率は1.38、基礎幅と横の輪郭幅の比率は0.1となります。

基礎の格狭間は、花頭形が左右に水平に開くA型で、左右にある二つの円弧の幅も、花頭形の幅より長く、端によっています(この違いは竹林寺の宝篋印塔の格狭間と比較するとよくわかります)。

脚も、茨の内側で切り、その幅は、輪郭幅の1/3弱となります。

このように各部の比率は、14世紀、それも14世紀前半の数値を示し、各部の特徴も14世紀の基礎と見て違和感がありません。

こうしたことから、この宝篋印塔は、14世紀前半に造立されたものとみてよいでしょう。
その意味からしても、塔身と相輪を欠くのが、残念でなりません。

『芸藩通志』(1825年)によると、浄福寺は、中世「薬師丸とよぶ地」にあり、それを「慶長五年」に「今の地に移」したそうです(巻81・1296頁)。

この「薬師丸」は、浄福寺から、およそ800メールほどの西南よりの土地になります。

だとすると、この宝篋印塔は、寺の移動とともに薬師丸から、現在地に移った可能性も考えられます。

しかし、浄福寺がここに移る前から、この地に立っていた可能性も否定できません。
この場合、ここに由緒ある寺がかつてはあった可能性がでてきます。

このどちらの説を採用するかで、宝篋印塔が立つ場所の性格がかわってくるのですが、いまとなっては、どちらが真実なのか、確認できません。

なお、浄福寺の境内には、およそ多数の石塔の残欠が散在しています。

宝篋印塔は、相輪5・笠7・塔身・基礎3個。
五輪塔は、空風輪21(ほかに空輪のみ2、風輪のみ1あり)・火輪23・水輪21、地輪6個。
一石五輪塔は、21基を確認しています。

ここから、少なくとも宝篋印塔は7基、五輪塔は23基あったことになりますが、ほかから持ち寄られたものもありそうなので、あくまでも参考値として考えてください。






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最終更新日  2005.09.30 19:05:09
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