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カテゴリ:海外小説感想
最悪の気分の時に読むものではないと思ったものの、最悪の出来事の前から読み始めていたため、他に移ることを許さぬような作風に押し負けて読み進め、それなりに救われた。上巻よりややこちらの方が粒ぞろいか。
女の子は慎重に一歩さがり、目をしっかり老人に向けたまま、眼鏡をはずした。そして、さっきつかまれと言われた木の近くの岩の上に置いた。「そっちも眼鏡をとりな。」 「俺に命令するな!」老人は高い声で叫ぶと、ぎこちない動作で、女の子のくるぶしめがけてベルトを振りおろした。 女の子の反撃は素早かった。がっちりした全身をぶつけてくるのと、足で蹴るのと、こぶしで胸になぐりかかるのと、どの打撃を最初に感じたかわからないほどだ。打つ場所もわからず、ねらう位置を見極められるように相手から身をはなそうとして、老人は鞭を振りまわした。 「はなせ! はなすんだ!」しかし女の子はあらゆる所にいるように思えた。一度に四方から襲ってくる。一人の子供にではなく、頑丈な通学用の茶色の靴をはき、小さい岩のようなこぶしをふるう小悪魔たちの群れに襲われているような気がする。老人の眼鏡が横に飛んだ。 「はずせって言っただろ。」女の子は攻撃をゆるめずに言った。 『森の景色』より 老人と孫娘の殴り合いの喧嘩というのは生まれて初めて読んだ。 黒人の子供への一方的な善意(5セント恵む)をはねつけられ気が狂う母親(『すべて上昇するものは一点に集まる』)、自分が不治の病だと思い込み、いつまで経っても書き出せない作家志望者が死の淵でカトリック教会の神父を呼び、期待を裏切られ、自分が死ぬ病気などではないと知らされ、これから続く生へ絶望する若者(『長びく悪寒』)、母親のくだらぬ善意によって引き取られてきた色情狂の娘とのトラブルと不運から母親を撃ち殺してしまうことになる息子(『家庭のやすらぎ』)、見込みがあると思い家に引き取った少年院上がりの少年に家と気持ちをかき回され、実の息子を失うはめになるカウンセラー、救いのない人々の話ばかりだ。『パーカーの背中』だけは微笑ましくて楽しい。 オコナーが『賢い血』を書き始めたのは若干23歳。その後39歳の若さで死ぬまでに小説を書いた。アメリカでは少数派のカトリック教徒。 「希望を持たない人びとが、小説を書くことはない。それどころか、そういう人は小説を読みもしない。希望をもたない人は、なにかを長く見つづけるようなことはしない。その結城がないからだ。絶望に至る道とは、なんであれ経験を拒むことである。そして小説は、もちろん、経験する方法である。」 訳者あとがきに引用されている『小説の本質と目的』から 背がテーブルの高さにまだ負けていて、かけ算のお気に入り「3の段」をいつまでも頭の中で繰り返していた昔、南北戦争というのは北アメリカ大陸と南アメリカ大陸が争っているスケールの大きい戦争だと思っていた。オコナーの書く、アメリカ南部を舞台とした話に出てくる白人たちのほとんどは、黒人を使役しつつ、憎みつつも、黒人とうまくやっていけていると思っている。都会に出てきた老人を面食らわせる「都会の黒人」をのぞけば、黒人たちも白人をただ白人であるというだけで憎んでいるような素振りはない。作品中はっきりと描かれる多くの黒人差別の中においても、だ。作家志望者の若者に叔母がこぼす愚痴「南部側の立場を主張しておくれ、それをやる作家がすくなくてね」という言葉にはやたらと真実味がある。南北戦争に負けた人たちもまたアメリカ人だったのだから。 筑摩書房 単行本 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004/10/29 01:23:18 AM
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