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[全825件]
「 政党の依って立つ所は地方にあり、政治上の勝敗は政党の勝敗に因し、政党の勝敗は地方の勝敗に因す。 裸体的にいえば、政治上の変革は大磯、早稲田、帝国ホテルの会議より来るものを近因にして、地方の勝敗は実に其遠因なりと謂わざるべからず。 地方のこと最も重し。」 1899年3月9日、第13議会が閉会、そのすぐ後、3月19日、星派の機関誌日刊「人民」に掲載された、「機運漸く将に塾せんとす」の中の一節。 自民党政権下で、つい最近まで行われていた、地方での公共工事と引き換えに、選挙権者の支持を得る、というやり方は、星亨が開発したようです。 もっとも、どの程度、国会議員の先生方が影響を与えたのか、よくわかりませんが。 当時の政党領袖ですら、「地方的利益欲求は田舎代議士たちのご機嫌をとるために無視するわけにはいかなぬ厄介物としか考えられていなかった」ようで、伊藤博文も、バークのブリストル演説のようなことをしきりに言っていたようです。 星亨がこのような考えを持つようになったのは、秋山真之が戦術を勉強していた同じ時期に、アメリカの政党について研究していた成果なのでしょう。 秋山真之は星亨に対し、「公使は貴重な書物をいろいろお求めになりますが、とてもそんなにたくさんお読みになれますまい、ワシがかわって読んでさし上げているのです」、と言ったそうですが、秋山に政党のことは分からない。 立憲政友会設立に際しては、このあたりが、大きな問題になります。 そもそも、自民党が保守政党である、等というのは、かなり、おおざっぱな言い方で、大半の先生方は、バークも何も関係なしに、地方的利益を追求することを中心に活動されていました。 しかし、これが、自民党の力の源泉であったようで、星亨が開発したこのやり方ができなくなくなると、急速に、その力を失ってしまいます。 上記の星亨の言葉は、今では、通用しないのか、それとも、政党にとって、力の源泉は、やはり、地方にあるのか、よく分かりません。 橋本ブームなどを見ていると、やりようによっては、政党にとっての宝の山は、相変わらず、地方にあるような気がしないでもありません。
第一次大隈内閣が崩壊した時期の年表を見ると、次のようになっていて、新聞を読んでいるだけで、日本はこの先どうなるのだろう、と不安になってくるような情勢です。 その点では、今の日本と同じようなものです。 1898年3月6日 ドイツ、膠州湾租借 3月27日 ロシア、旅順・大連租借 4月20日 米西戦争始まる 7月1日 イギリス威海衛租借 7月6日 露清間に中東鉄道南満支線敷設契約 7月7日 アメリカ合衆国、ハワイを併合 ロシア、ドイツ、イギリスだけでなく、アメリカまでもが迫ってくる、という感じです。 川上操六は、早くから、ロシアを仮想敵国とし、諜報活動を行い、1896年9月から4カ月、台湾、広東、順化(安南)、サイゴン、プノンペン、バンコクを訪れていますが、日本の台湾支配が日英関係に及ぼす影響、フランスのインドシナ支配後の仏清関係、仏英関係の確認などが目的のようで、さらに、その後、ハバロフスクも訪問しています。 しかし、これは政府中枢にいる専門家の行動で、国会にいる先生方の行動は、別のものです。 第2次山県有朋内閣(1898年11月から1900年9月) 1898年11月7日第13議会召集 「山県有朋」(岡義武著)によると、このころ、山県有朋は、星亨と会見し、「ロシアの動向を縷縷説明して陸軍拡張の急務であることを述べ、かつ星に対して入閣して政府を援助するよう懇請し、どの省の大臣になるかは全く希望通りに取り計らうとまで述べた。これに対して、星は国際情勢の重大性を承認した後、しばらく沈思し、首相の意見は愛国の至誠に発すると考えるから、自分は幕下のものとともに増租案成立のために努力するであろう。ことは容易である。心配されるに及ばない。ただし自分としてはこの際入閣することは辞退する、と答えて辞去した。増租案の運命をかけたこの会見の成行について山県の憂慮は一方でなく、現にこの会談の際、隣の部屋には平田、大浦、小松原(英太郎)、安広伴一郎など彼の腹心を呼び寄せてあった。それだけに、星の以上のような返答は、憲政党操縦を画策して来た彼にもさすがに強い感銘を与え、星が辞去すると、山県は隣室の人々を招いて、泣きながら卓をたたいて喜んだ。山県は星の人柄を後年までも賞揚している。」 星亨は、第一次大隈内閣の失敗から、学習をしているようです。 というようなことで、昨年の「菅降ろし」が成功していれば、あるいは、小沢一郎と森喜朗とのあいだに、このような美しい光景を再現したかもしれませんが、昔も今も、現実は、それだけですむものではありません。 星亨は、3年後、それらのことが原因で、命を落としますが、どうやら、大部分は山県がネコババして造園費に回していたとか。 それは、ともかくとして、第2次山県内閣は、第13議会、14議会で、必要な予算、法案をほとんど成立させます。 一方、星亨は、第一次大隈内閣を叩き潰したときからの、「今の所は致し方ないから首班には伊藤でも引っ張り出さう。併し、永く老人連を戴くべきではないから、基礎が定まったら伊藤始め老人連を悉く退かして、われわれを以て思うさま遣り捲らう」という野望、つまり、本格的政党政治の実現を目指す活動に集中し、山県との約束をまもって一般の党員を抑え、政府との争いは、休止。 この野望が、戦前の大政党である立憲政友会、さらには、完成品である戦後の自由民主党につながります。 で、その自由民主党は、というと、星亨の時代から120年を経て、現在は、ぼろぼろで、再生の道筋は、見つけにくい。 ということで、体たらくが過ぎると言われている国会議員の先生方は、一種の革命的状況の中で、右往左往している、ということなのかもしれません。 星亨と山県有朋のように、思惑の違いがあれ、妥協が成立すれば良いのですが、ともに地獄へ進むというストーリーも考えらるので、その時は、怖い。
この時期、今と同じように地震が多いです。 1891年10月28日 岐阜・愛知県一帯に濃尾大地震、全壊消失14万2177戸、死者7273人、ちなみに、阪神淡路大震災は、死者6434人、行方不明3人、全壊10万4906棟、全焼7036棟 第一次松方正義内閣の時期ですが、濃尾大震災復旧予算・法案だけは、通したようです。 1896年6月15日 三陸地震津波、死者2万7122人、流失・全半壊8891戸、船被害7032隻、ちなみに、昨年の東日本大震災は、使者1万5843人、行方不明3469人、漁船2万2000隻以上 日露戦争まで8年、第一次世界大戦が1914年、関東大震災が1923年ですから、預言者風にいえば、日本のギリシャ化は、なんとか乗り越えることができるが、その後、ヨーロッパで大ごとが起き、首都で大地震が起き、さらにその後数十年で、日本は滅びるであろう、ということで、この先大丈夫かいな、という感じがします。 政治の混迷はまだまだ続きます。 これから、しばらくの間、貴族院が、反政府ですが、相変わらず、ねじれ国会。 第一次大隈内閣(隈板内閣ともいう、1898年6月から10月) 衆議院で多数を占める政党から内閣首班を出すという、日本の議会政治史上、画期的な内閣で、議会制度を始めてから、10年を経ずして実現。 山県有朋、伊藤博文、松方正義は、よく耐えてきました、といっても、憲法を停止すれば、さらに大混乱でしょうから。 メンツを重んじる中国人が、議会政治を行わないのが、よくわかります。 もし始めても、山県や伊藤のように、耐えることができるかどうか。 8月 前内閣の置き土産の総選挙 これが本当の置き土産で、憲政党260当選ということで、定数が、たしか、300だと思いますから、2009年の民主党以上の圧倒的勝利。 数だけは多いですが、どういうわけか、やはり、鳩山・菅内閣とおなじようなものでした。 民主党は、第一次大隈内閣の失敗を勉強すべきでした。 まず、陸海軍首脳が反発。 民主党政権でも、野党のときの癖で、「暴力装置」と言ってしまい、批判されていた方がいましたが、当時の軍部は、山県や松方に近いので、当然、反発します。 今は、ちょっとした騒ぎになるだけですが、当時は、軍部を怒らせると組閣ができないことにもなりかねません。 前内閣の陸相・海相を留任する勅語を出して、なんとか解決。 次が、増税。 当時は、今とは異なり、軍拡には、みなさん、割と好意的だったので、自由党も憲政党も、軍備増強に対しては賛成していたのですが、問題は、財源。 政権の中枢にいないうちは、無駄の削減をすれば増税は必要ない、等と叫んでいても、現実に政権を取ると困難に突き当たるのは、今と同じで、結局は、増税しないとどうにもなりません。 もう一つが、猟官運動。 当時は、官僚機構にまで及びます。 それでも、ポストは、限られているので、それが原因で、旧自由党・旧進歩党両派の間に亀裂が入ります。 「答弁は3つ覚えればいいんです」といった柳田法務大臣にあたるのがこの方です。 8月21日 尾崎文相、共和演説事件 10月24日 尾崎文相、共和演説事件で引責辞任、後任をめぐり憲政党の内紛激化 鳩山政権の当初から小沢一郎の処遇が問題になっていたようで、同じように、星亨に対する処遇問題があり、星亨が暴れだします。 「作戦の骨子は、まず予定されている11月1日の憲政党大会にさきだち、10月29日に憲政党臨時大会を神田青年館で開き、その場で憲政党を解散し、ただちに同じ名称の新党を、進歩派を排除して発足させる」というもの。 そして、「党本部の建物は元来自由党のもの(当時は星配下の日向輝武の所有名義)だったので、進歩党の持ち物を道路わきへ積み上げ、事務員を追い払って、三多摩壮士数十名を動員して警護を固めた。進歩党は当然怒って、その夜、若手代議士・同派壮士たちが多数憲政党本部へ押しかけたが、三多摩壮士たちが撃剣用の面・籠手(こて)で身を固め木刀をひっさげ警護しているので、悪口を放っただけで引き上げねばならなかった」とのこと。 10月29日 板垣内相ら旧自由党系閣僚ら辞表提出、憲政党分裂、旧自由党だけで新憲政党結成。 昨年の、東日本大震災・東電福島第一原子力発電所事故のさなかの菅降ろしを思わせる荒っぽいやり方です。 菅降ろしで、小沢一郎は森喜郎を通じて自民党との提携をめざしたようですが、星亨は、桂太郎を通じて、山県有朋と自由派だけとなった憲政党との提携を目指します。 10月31日 大隈首相ら旧進歩党系閣僚も辞表提出。 ということで、菅直人ほどのしぶとさを示すことなく、第一次大隈内閣崩壊。 現行憲法では、衆議院解散・総選挙・特別会・首班指名が一連の流れになっているので、国会を経ない内閣というものは考えられないのですが、この内閣は、どうやら、国会の経験が無いようです。 小沢一郎にとって、「菅降ろし」は、おそらく、失敗作でしょうが、星亨の方は山県有朋と憲政党(自由派)との提携を成功させます。 小沢一郎が自民党との提携に成功したとしても、優遇されたとは思いませんが、星亨も同様。 しかし、この後、憲政党の主導権を完全に掌握して山県に圧力を加えることができる星亨と、相変わらず党員資格停止で、「菅降ろし」に失敗した小沢一郎では、大きな差があります。 ということで、このままでは、小沢一郎は、「星亨になれなかった男」、ということになるのかもしれません。
第3次伊藤内閣(1898年1月から6月) 日本国憲法のもとでは、衆議院を解散して総選挙を行うまでの間に新しい内閣ができる、ということはないのですが、大日本帝国憲法下では、内閣は、あくまでも、天皇の信任に基づいているので、総選挙(3月)の少し前に新内閣成立。 伊藤博文は、挙国一致内閣を目指そうとしますが、失敗、政党との提携は無し。 4月13日 閣議、自由党の板垣入閣拒否を決定 19日 自由党本部、現政府との提携断絶を各支部に通告。 5月14日 第12議会(特別)召集 「第3次伊藤内閣は、挙国一致内閣の失敗作である超然内閣の姿で、 地租増税をひっさげて第12特別議会へ臨むほかなかった」とのこと 6月10日 自由・進歩両党提携、地租増徴案を否決、衆議院解散 6月22日 自由・進歩両党合同、憲政党結成 6月24日 伊藤首相、元老会議で政府党組織を提議し激論、伊藤首相、辞表提出、後継首相に大隈・板垣を推す なにか、総選挙の結果に一縷の望みをかけて挙国一致内閣を目指そうとしたが、失敗し、政権の途中で、衆議院の多数に支えられた政権でなければ維持できない、政府も政党をもたなければならない、と考えを変えたような感じですが、そのあたりは、よくわかりません。 政党側も、伊藤博文の考えにそったように、政党の合同が起きたのは、どうしてなのか、ということも、よく知りません。 多分、だれが仕組んだ、ということではなく、双方、雰囲気的に、次の段階に備えた、ということなのでしょう。
第2次松方正義内閣(1896年9月から1897年12月) 松隈内閣(しょうわいないかく)ともいわれ、この年3月に結成された進歩党の支持を頼りに成立、大隈重信は外務大臣に。 12月第10議会招集(1897年3月まで) 前内閣の戦後経営方針を続行して乗り切る。 議会閉会後、任期切れによる総選挙が翌年(1898年)中に予定されている中で、松方首相は、増税を決意するとともに、進歩党との提携を強めようとします。 日一日と大きくなるロシアの軍靴の足音に怯え、地租増徴を決意した松方首相と、日本のギリシャ化を恐れ消費税増税を決意した野田首相が置かれている状況とは、よく似ています。 このあたり、政治家は、どのように情報を集めて、どのように分析し、どのような行動をとるのか、ということが、現在の政治でも、よく分かりません。 当時の、中国とロシアとの関係や、満州で何が起きているのか(シベリア鉄道、旅順港)、などという情報や、それが何を意味するのか、ということについて、一般の国会議員に共有されていた、などとは、思えませんし、また、現在の日本のギリシャ化が、どの程度可能性のあることなのか、などということが、国会議員の先生方に、判断できるとも思えません。 ということなのだと思いますが、話の展開は、かなり異なっているものの、それに対する政治家の反応も、まあ、同じようなもの。 このような場合、松方内閣と進歩党との間には隙間風が入るし、進歩党内部にも亀裂が入りかねない、松方内閣は、自由党との提携を探ろうとする、伊東巳代治はそれを妨害しようとする、自由党内にも対立が生じる、というようなことがおきます。 この本は、当然、星亨を中心に書かれているのですが、今でいえば、性格の似たところのある、小沢一郎と比べながら読むとおもしろい。 ここでは、星亨のもくろみは失敗。 小沢一郎は知りませんが、星亨は、もともと、増税は必要だと思っていたようで、松方内閣との提携を目指すが、結末は次の通り。 1897年10月22日 進歩党、内閣改造・経費節減などを松方内閣に要求決議 29日 松方首相拒絶 31日 進歩党代議士総会、松方内閣との提携断絶を決議 11月6日 大隈外相兼農商務相辞職 12月15日 自由党大会で、松方内閣不信任提案の可否が採決され可決 21日 第11議会招集 24日 衆議院、内閣不信任決議案上程、決議を行わないうちに衆議院解散 28日 内閣総辞職 野田首相が、最も恐れているであろう、最悪の結末です。 ここで、24日の不信任案が可決される前に衆議院を解散したのは、最初の不信任案可決内閣になるのを避けたかったためのようです。 現在、不信任決議案上程中に、衆議院解散、などという器用なことができるのかどうかは、よく知りませんが、憲法上は可能なような気もしますが、賛成・反対の演説の後、直ちに決議をとるようなので、タイミングが難しいと思います。 もっとも、それ以前に、辞職するでしょうが。
私たちの世代のように、自民党の全盛期の時代に生きてきた期間が長いと、ねじれ国会で、なかなか法案が成立しないというような状況では、これから先どうなることやら、などと心配しながら国会中継を見ているのですが、そういう時代も、さほど、珍しいことではないようです。 ということで、「星亨」(有泉貞夫著、朝日新聞社)という本を読んでいるのですが、国会でやっていたことは、今とあまり変わらないようなことなので、テレビを見るときの参考になります。 「坂の上の雲は」どちらかというと官僚の世界ですが、こちらは、大体同じ時代の国会の話で、こんなことをやりながら、あの時代を、よく乗り越えてきたものだと不思議な感じがします。 今の北朝鮮とはタイプが違いますが、適応性に問題のある朝鮮にちょっかいを出しているうちに、清国と戦争をしなくてはいけないような雰囲気になって、軍拡をしなけれならない、というような状況ですが、それよりも恐ろしいのは、ヨーロッパ勢。 シベリア鉄道(着工1892年)が完成すれば、極東で何が起きるか分からない、その前に、朝鮮問題に決着をつけたい、というような、かなり緊迫した時代の国会です。 第一次山県有朋内閣(1889年12月から1891年4月) 大日本帝国憲法下で、1890年7月に第一回総選挙、11月通常議会召集。 衆議院には、政府寄りの議員も当選しているのですが、自由民権運動が浸透しているので、第一回総選挙もその後も、自由党や改進党などの勢力が多数です。 今と同じように、主な争点は税金です。 予算が、なかなか成立しません。 日本国憲法下の内閣は、衆議院の信任に基礎を置いているので、関連する法律はともかく、衆議院の過半数を制している限りは、強力な衆議院の優越が認められている予算自体が成立しないということは、考えにくいのですが、明治憲法下の内閣は、天皇の信任に基礎を置いているので、衆議院が承認しないため予算が成立しないということが起きます。 そのかわり、第71条に前年度予算を執行する、という規定があります。 貴族院は、勅選ですから、この時期は、大体政府よりです。 「土佐派の裏切り」というような不名誉な言われ方をされていますが、自由党の一部が政府と妥協して、予算は成立しましたが、山県有朋は、やる気をなくして、「あなたとは違うんです」とは言いませんでしたが、首相をやめてしまいました。 後継内閣は、伊藤博文が引き受けないので、伊藤や山県に比べると格落ちの薩摩閥の松方正義が首相。 この後、10年間ほどは、4か月間ほどの第一次大隈内閣を除いて、伊藤、山県、松方の3人で、政権をたらい回しにします。 第一次松方正義内閣(1891年5月から1892年7月) 11月に第2議会を召集したが、どうにもならなく、12月に衆議院を解散、翌年2月第2回総選挙。 猛烈な選挙干渉をしますが、結果は、政府寄りの勢力は少数派で、状況はよくなりません。 1892年5月2日 第3議会(特別)召集。 5月14日選挙干渉の責任を追及する衆議院の問責決議案可決。 ここで、明治憲法下での衆議院の問責決議は、現在の参議院の問責決議と同じようなもので、憲法上規定がないので、条件が許せば突っぱねることもできます。 予算は、天皇の勅裁まで出して、やっと成立したようですが、第一次松方内閣は辞表を出して、野垂れ死。 ということで、問責決議は、今も昔も効果はあるようです。 第二次伊藤博文内閣(1892年8月から1896年8月)は、「明治政府末路の一線」と位置付けた内閣で、明治の元勲総出の内閣。 後が無い野田内閣もおそらくは、できうる限りのメンバーをそろえているのだと思いますが、ここでは、内相井上馨、法相山県有朋、陸相大山巌、逓相黒田清隆、農商務相後藤象二郎というそうそうたるメンバーをそろえ、さらに、一匹狼的な陸奥宗光を外相に、という感じで、比べてみると、野田内閣は、しょぼすぎる。 ここで、よくは知らないのですが、伊藤博文の議会に対する影響力行使には、陸奥宗光経由で板垣、星亨(自由党関東派)等と伊東巳代治―林有造(自由党土佐派)、それに、後藤象二郎ー大江卓の線などがあるようです。 1892年11月第4議会召集。 議会対策が効いたようで、政府と自由党とのあいだに妥協がうまれ、非公式ながらも政府と自由党との提携が成立し、翌2月、予算は成立します。 1893年11月、第5議会召集。 自由党の政府との連携は、あちこちから恨まれたようで、星亨は衆議院議長を辞めさせられうえに、除名されます。 この年、本腰を入れて、条約改正問題に取り組んでいた陸奥宗光も、条約励行建議で苦境に陥り、議会に対して強硬姿勢を貫くことを求め、12月に解散。 ここで、不平等条約の改正だから日本人なら反対する人はいない、と思ってはいけないようで、外国人が日本で、土地や家を買ったり、自由に商売をしたりするようになるのですから、条約励行ということも支持者はいたようです。 2~3年前に、中国人が日本の山林を買っている、というので、テレビで大騒ぎしているのを見ましたが、あまり変わっていない、という感じ。 1894年3月、総選挙。 条約励行派は減少しましたが、全体として、政府寄りの議員が減少したようで、自由等と政府寄りの会派を併せても、過半数に達せず、伊藤内閣の苦境は続く。 「内国の形成は日一日と切迫し、政府において何か人目を驚かすほどの事業をなすにあらざれば、この騒々しき人心を鎮静すべからず。さりとて故なき戦争を起こす訳にも不参事故、唯一の目当ては条約の改正の一事なり。」(陸奥宗光から、ロンドンで、条約改正交渉にあたっている青木周蔵あて書簡(3月27日付)) といいながらも、この後、陸奥宗光は、強引に、清国との戦争に導いていきます。 1894年5月第6議会(特別) 5月31日衆議院、内閣弾劾上奏案可決 7月25日に、豊島沖海戦で日清戦争がはじまり、戦争は連戦連勝で、翌95年4月、日清講和条約調印。 戦争中に、1894年10月第7議会(臨時)、12月から翌年3月まで第8議会(通常)。 当時の衆議院議員の多くは、多分、李鴻章が太っ腹なところを見せた講和条約調印のあたりまではうまくいっていると思っていたのでしょうが、講和条約調印の6日後の4月23日に、三国干渉、怒り狂ったと思います。 しかし、政府は、そうではないと思います。 朝鮮政府は、そっぽを向いてしまう、さらに、10月に、閔妃を殺害し、翌年1896年2月には、国王がロシア公使館に入り親露政権樹立、という具合に、朝鮮は、最悪の流れになります。 また、清国とロシアを接近させることになり、ロシアは、日本に支払わなければならない賠償金で苦しんでいる清国の窮状につけ込んで、シベリア鉄道の満洲通過と、旅順に不凍港を獲得すべく動き出す(1895年10月福島安正からこのような情報が送られています)。 衆議院議員の多くは、この情報に接することはなかったと思いますが、伊藤博文や山県有朋は、ロシアの軍靴の足音が急に近づいたと感じ、震え上がったと思います。 臥薪嘗胆のムードの中で、軍備拡張や産業・交通・通信手段、教育機関拡充のため減税は到底無理、それまで、減税を叫んでいた自由党への政治献金も減って懐具合も悪くなり11月に、自由党が政府と提携宣言(多分、これだと思います)。 1895年12月25日第9議会召集(1896年3月29日閉会) 1896年3月、立憲改進党・立憲革新党などが合同し、進歩党結成、自由党と拮抗する議席数になる。 5月、伊藤博文が、挙国一致体制をつくろうとして、大隈進歩党総理に入閣交渉を始める。 自由党からの強い反発を招き、伊藤博文は、政権担当の意欲をなくして、8月に辞職。 これも、福田内閣の大連立構想と辞職、民主党の反応を思い出させます。 ただし、後の方は、多分、小沢一郎あたりに振り回されて、単に、嫌になったと、いう程度だと思いますが、前の方は、かなり深刻。 この間、6月に、山県・ロバノフ協定調印。 山県有朋が、ロシア皇太子戴冠式に参列した皇族について行ったついでに、ロシアのロバノフ外相と「日露両国は協力して朝鮮の独立維持を保持する」、という合意をしたものですが、ロシア側に、日本の腹が読めた、と判断されたようです。 、 「戦略日露戦争」という本に、「見当違いの山県外交」というタイトルで、詳しく書かれています。
昨日は、初めて、JR大阪ステーションシティーに行って、一日中、うろうろしてきました。 けっこう楽しめました。 難波や天王寺も新しくなっていますが、完全に差ができてしまった、というような感じで、比較すると、なんだか、しょぼい。 京都駅や三宮駅あたりも、圧倒しそうな、感じ。 規模の大きさに、3年前に行ったドイツのベルリン中央駅の感じを思い出しました。 ただし、ベルリン中央駅近くには、デパートは無かったですから、迷うことは無かったですが、大阪駅はそうはいきません。 大丸の6階から、時空の広場を通って、三越伊勢丹に行くと、そこは、なぜか5階。 三越伊勢丹から、大丸に戻るには、5階又は7階からでなければいけません。 地方から出てきて、電車の待ち時間にデパートで買い物をすると、多分混乱するでしょう。 そのためかどうか、あちこちに、案内の方がいらっしゃいます。 外国人は、意外に少ない。 今日は、春節ですから、今日から多いかもしれませんが。 |一覧| |