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真理を求めて

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2006.03.31
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「百条委、論点整理の全議事録」で議論されている、公文書か私文書かという議論はなかなか興味深い。それは、各議員が語っている論理が、論理として真っ当であるかどうかが極めて明瞭に判断出来る形で提出されているからだ。

ここで問題にされているのは、「田附保行証人の私的メモ」が、公文書に値するものかどうかと言う「事実」だ。もしこのメモが公文書だとすると、「田附保行証人が「私文書」及び「私的メモ」と証言したことは偽証と認定することが妥当」になるからだ。しかも、このメモが、後に田中知事が廃棄するように指示したものと考えられてもいるようだ。

この議論は、今度の告発における中心をなすくらい重要なものだと思われるのだが、考察に先立って、一般論として「公文書」と「私文書」について考えておきたいと思う。僕は、何が「公文書」であるかは、極めてハッキリとしたルールによって決められているのではないかという気がしてならない。つまり、そのルールに従っているかどうかで、「公文書」であるかどうかは、形式論理的に決定されるようなものではないかと感じている。

僕の勤める学校などでも、「公文書」は、どこから出たものかがハッキリと記載され、番号が打たれ、どこを経て下ろされてきたかも、担当責任者の印などが押されてハッキリしている。そのような形式を持たない文書は、「公文書」とは呼んでいないような気がするのだ。そういう意味で言えば、単なるメモが「公文書」になるようなことは絶対にあり得ないような気がしてならない。

「公文書」は明確に定義されるものだと思うが、「公文書」でないものはすべて「私文書」になるかと言えば、そこは形式論理では捉えきれない現実の弁証法性があると思う。現実には、「公文書」とも言えないが、さりとて「私文書」だとも断定出来ないものが存在する。学校などで言えば、職員会議の提案文書だとか、保護者への通達文書だとか言うものがそうだろうか。これは、厳密に連番を打って、いつどんなものを発行したかをちゃんと記録しているものではないが、情報公開の対象にはなるかも知れない。「公文書」に準ずる存在だと考えられるだろうか。

「田附保行証人の私的メモ」が、このような「公文書」に準ずる存在かどうかを議論するのであれば、いろいろと解釈の違いが、妥当性を持って説明されると言うことがあるかも知れない。しかし、「公文書」なのか「私文書」なのかが議論されたら、それは「公文書」ではないという結論しかあり得ないのではないか。そして、議論が二者択一しか結論が出せなかったら、「公文書」でなかったら「私文書」だと言うことにしかならないのではないか。

論理的には僕はそう考えるのだが、果たして百条委の議員たちはどう考えているだろうか。林委員は、


「田附証人はですね、総務委員会の参考人意見、あるいは当百条委員会の証言の中に一貫して最初は私的メモとして自分は作成して運用していると、繰り返して証言されております。そのことは最初から最後まで一貫しておるわけですね。」


と指摘して、田附証人の認識の中では、「私的メモ」という「私文書」だったという見方をしている。これは、そのメモ自体を客観的に「公文書」か「私文書」かという決定は語らずに、田附証人の認識を問題にしている。それは、この認識が「偽証」というものを判断するのに大きな要素をしめるからである。「私文書」及び「私的メモ」と認識していれば、そう証言するのが当たり前だ。もしこれが間違いであったとしても、それは単に間違えただけのことであって、偽証ではないのである。

偽証を問題にする限りでは、「公文書」であるか否かは関係ない。むしろ、そういう決定出来ないことにこだわっていたら、偽証かどうかという判断にも狂いが出てくる。論理的にはまったく正当な展開だと思う。

竹内委員の


「これまで、当委員会の中でメールの存在などもそれぞれ示されましたけれど、その中で今回の発端になりました田附氏から知事のもとに送られているメールの中で、特にそれは下水道課の中のやりとり、部下がなかなか言うことを聞かない、ということも含めた中に、明確に議事録ということで田附証人が書かれているものがございます。それがすべて転送されて共有されているという意味でいきますと、もとになった文書の中に議事録ということで田附氏自身が認識していたということでございまして、したがってその後私文書ということに関しては、それは当てつけたものであると、断言せざると得ないというふうに思います。」


という文章は、論理的でないので非常にわかりにくい。主張のポイントだけ拾い上げると、「明確に議事録ということで田附証人が書かれているもの」という理由で、「公文書」だと主張しているのだろうか。そこを明確に語らないので論理的にわかりにくい。本人も分かっていないので曖昧になるのか、論理的にハッキリさせると論理的な間違いが明らかになるのでハッキリ出来ないのか。林委員の明快な論理と比べると、その曖昧さがより際立つ。

これは一般論としておかしい。「議事録」という言葉で呼べば「議事録」になるというのは、宗教では正しいかも知れない。大地を叩いて「実りあれ」と言えば、豊かな植物が実るというふうになれば、これは言葉というのは偉大なものだなと思う。「議事録」と名前を付ければ「議事録」になるのであればこんな楽なことはないだろう。議論と呼べないような滅茶苦茶な議論であっても、会議と呼べば議論になってしまうのであれば、議員は楽だろうなと思う。

それが「議事録」であると言うことが事実になるには、それが「議事録」にふさわしい内容を持っていると言うことが証明されなければならない。それが真っ当な論理というものだ。田附氏の認識が「議事録」という名前で呼ばれていたとしても、それが「公文書」としての「議事録」であると言うことは、その呼び方だけでは証明されない。確かに田附氏がそう認識していたという客観的な証拠がなければならないのである。竹内委員の論理展開には、そのような具体性はどこにもない。

石坂委員が語る


「偽証ということの認識をもう一度確認しますと、意図して事実をゆがめて事実でないこととして証言するというのが私は偽証と思っております。」


と言うことは、一般論としての「偽証」と言うことの意味では、ほぼ全面的に僕は賛成だ。論理的には、こう考えるのが正しいだろう。「意図して」と言うことがポイントになると思う。意図せずに行った間違った証言は、偽証ではなく、単に間違えていたと言うことを示すだけだ。このような論理的な前提を確認して、石坂委員は次のように論理を展開する。


「私は総じて人間の記憶というのはそうは言っても曖昧なものだなあという感想をそれぞれの方について感想として持ったところでありますが、時系列的な証言を総合して今総括してみますと田附証人自身は下水道課長であった当時、当初ですね、公文書ということの認識、情報公開についても、認識については曖昧だったというふうに思います。しかし、結果としてそれが公開請求が出されたことにより岡部証人自身が証言していることですが、私的メモということにして公開の対象にしないという誘導を岡部証人によってされまして、そういう認識の中で、これは私的メモだと思いこむに至ったと思いますので、意図して事実を歪めて偽証したというのには当たらないと私はそう思いますので、偽証認定には賛同できません。」


実に明快で真っ当な論理展開だ。田附証人は意図したのではなく、様々な要因から、最初は何となく「私的メモ」だと思っていたのが、「私的メモだと思いこむに至った」のだという。その過程が、「私的メモということにして公開の対象にしないという誘導を岡部証人によってされまして」と言うことから整合的に解釈出来るという論理展開をしている。ここで、意図したのではないと解釈出来ることから、偽証ではないという解釈も出てくる。

次の柳田委員の発言は、「公文書」であるかないかという問題が、いつの間にか「少なくとも情報公開請求の対象であるという認識を彼は持っていたこと」に変わってきている。この議論の出発点は、「公文書」であるかどうかと言うことだったはずなのだが、田附証人にその認識がないらしいと言うことになってきたので、「情報公開請求の対象であるという認識」にすり替わってきたのだろうか。

小林委員長は、この議論の冒頭に、


「15年4月16日付けの2部、17日付け、5月20日付けの合計4つの文書においても、公用文書であることは、公文書か否かの検証で検証のとおり明らかになっている。従って情報公開請求された文書は、明らかに公用文書であり、田附保行証人も岡部英則証人も田中康夫証人も公用文書の認識はあったと断定できる。判断できる。」


と言いきっている。ところが、真っ当な反論が展開されてしまったので、この前提がいつの間にか、「公用文書の認識」から「情報公開請求の対象であるという認識」にすり替わってきているのだ。どうしたのだろうか。柳田委員は、「私文書であったという認識の裏付けになる行動というのは彼は証言としては私たちは得られませんでした」と語って、その行動を次のように描写している。


「情報公開請求がなされて、その際に、自分の机の中にあった文書を各それぞれの課の職員に見せるという行為があります。これは私文書であるという認識であれば行わない行動なんですね。公文書であるか私文書であるかわからないときにはですね、行うことかもしれません。あるいは公文書であるというふうに自分自身で認識があるとき、この二つのケースにおいて行う行動であると。しかしながら、私文書であるという認識をもっている人はですね、情報公開請求をされて、自らの机の中にある、あるいはファイリングされているものをですね、課の職員に提示をするという行為をですね、これは公用文書、公文書それぞれの認識はあるんですけれども、少なくとも情報公開請求の対象であるという認識を彼は持っていたことはこの行動から見いだせる訳であります。」


この行動は、柳田委員が言うように、田附保行証人がメモを「私的文書」であったという認識ではなかったと言うことを示す行動だろうか。これは自明には言えないだろう。そう解釈することも出来るかも知れませんねという程度だろうと思う。逆に、「私的文書」だと思っていたから、そんなものが情報公開の対象になると言うことに驚いて、本当にそうなんだろうかという意見を聞きたくて、それぞれの課の職員に見せると言うことがあるかも知れない。そう解釈することだって出来るのではないか。また、公に記録される意見ではない、私的な意見を聞きたいときに、私的なメモを見せて説明することもあるのではないか。解釈だけなら、いろいろと考えられる。

次の石坂委員の指摘は、非常に重要な指摘だが、考察するには長くなりすぎたので、続きはこの次にしよう。





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最終更新日  2006.03.31 23:25:09
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