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ladyたぬきの日記 [全61件] 暑中見舞いの季節だが、相変わらず「ファミリー写真」をプリントしたものを 送ってよこす人がいる。 いったい、何を考えているのだろう。 友人・知人が少ない人に限って、家族写真の賀状や暑中見舞いを送りつけてく る。その人が公私にわたって幅広くよしみを通ずる人なら、もっと別な作り方を するだろう。 と、見透かされるだけだから、どんなに親しい人でも、少なくとも仕事関係に それはやめた方がいいだろう。 たしかに、あえて家族を見せる営業方法がないわけではない。営業活動は自分 を売り込むわけだから、自分の家族を通して自分を知って貰いたい、という意図 は無意味ではない。 だが、ライターやDTPの営業にその手法は有効ではないと思う。別に家族に仕事 を発注しているわけではないし、発注者は普通、その人の家庭に興味もないだろ う。 発注者が知りたいのは、ひっきょう、その人が頼んでいる仕事を好きかどうか、 だと思う。 兼職か専業か、経験はあるのか、子どもに手はかかるのかなど、主婦SOHOには それぞれ能力と立場と事情と価値観がある。発注者は、それらで可能な仕事をお 願いできればと考えている。 能力の見極めは発注者が行えるが、意欲やこだわりまではわからない。それを いかにして表現できるかを考えてみたらどうだろう。
暫く日記をお休みしていたが、実はパソコン自体に触れていなかった。日記だ けでなく仕事も休業中である。先頃、1ヶ月ばかり入院し、現在は高額医療還付 を心待ちにしている身だ。ただし入院と言っても、病気でもけがでもない…… とだけ書いておこう。 さて、私が入院中の代役を頼んだSOHOは、しっかりネタを提供してくれていた ようである。 月刊オープンシリーズのムックで、私のかわりにDTPができる人を探していた。 信頼できる人に頼みたかったので、付き合いのある編プロに頼んだのだが、こい つが食わせ物だった。イニシャル書きは本来好まないが、とりあえずAとしよう。 まず、Aは別の自称デザイナーBに振った。それは別に構わない。発注先が、 さらに別の外注に頼むことはめずらしいことではない。 ただ、たとえそうだとしても、あくまでこちらが仕事をお願いしているのはA であってBではない。便宜上、こちらがBと直接連絡を取る事もないとはいいき れないが、仕事の責任は当然Aにある。 ところが、AはBに丸投げした。Bがいきなり、「私が仕事を受けました」と いう「ご挨拶」メールを送りつけてきたのだ。AやBの意図や自覚がどうあれ、 通常、こういうことはあってはならない。これでは、Aはただのブローカーでは ないか。 もちろん、元の発注者がそれを求めれば話は別だし、CMやペイドハプのよう な代理店やコピーライターなど多くのスタッフが入るプロジェクトは、元請け代 理店と孫請けのコピーライターが名刺交換をして会議で同席することはある。が、 それらは今回の例とは意味も事情も違う。 まあ、これはどちらかというとAの誤りであり、Bの責任ではない。だが、B はBで、肝心の職能に問題があった。 今回の仕事は4色で64頁。使うソフトはクォークだができるか、とBに尋ねる と、「ぼくはイラストレーターが得意だ」などと返事をしてきた。 「別にあなたの得意なものなど聞いていない。今回の仕事は64頁でクォークで4 色だから、ペラものではなくページものを作れるのかどうか。そして、クォーク が扱えて分版処理の知識があるかどうか、ということを聞いているのだ」 「わかりました。やってみます」 こいつは、決して「できる」とは言わなかった。テキスト中心の64頁のもの をイラストレーターで作ろうなどと酔狂なことを抜かしている時点で、「でき る」という返事を期待してはならなかったのだろう。 怪しいと感じたので、試しにトライアルを作らせたら、案の定、イラストレー ターで作ってきた。こいつの頭は鶏か。 「一昨日、クォークで、とあれほど約束したはずですが?」 するとBは、居丈高にこう反論する。 「割付を指示されたデータの中に、テキスト本文だけでなく表やグラフもありまし たよね。表やグラフなどはイラストレーターで作るものです。ぼくは13年のキャ リアでいろいろな仕事をしてきたプロですが、いつもそうやってきているのです」 「表やグラフなどはイラストレーターで作るもの」とは限らない。クォークだけ で処理できることもある。もちろん、表やグラフをイラストレーターで作ること はある。しかし、ページ全体を作ることはレアケースだ。 だいたい、クォークで作るという話をしているわけだから、イラストレーター で作ってくることがすでにアウトだろう。 そしてだめ押しは「キャリア13年」うんぬんかんぬん。このテの自己防御や居 直りで自分の不作為と向き合おうとしないSOHOが、私が知っているだけでもどれ だけいたことだろう。 プロレスラーのギミックじゃあるまいし、その「キャリア」とやらは口ではな く作品で見せてもらいたい。 だが、そういうことを言っている手合いに限って「作品」もひどいものなのだ。 こいつの場合も例外ではなかった。何より、提出してきたデータが「CMYK」でな かったのは弁解の余地なしだった。 要するに、「イラストレーターが得意」なのではなく、「イラストレーターし かいじったことがない(しかも出来も悪い)」ということなのだろう。 このホラ吹きSOHOのために、先方への提出が遅れてしまい、結局入院中だった 私が慌てて外泊許可をもらい、何とか間に合わせて事なきを得た。 私はもはや怒りを通りこし、こんなデタラメで「DTP」の看板で食っていける のだろうかと、この自称デザイナーの生活を心配し、同情までしてしまった。 それにしてもAもバカだよね。欲をかいてできもしない仕事を引き受けたた めに、その仕事をしくじっただけでなく、これまでシコシコ築いてきた信用を も失う事になったのだから…… いいかい、Aよ、Bよ。できないものは引き受けない。その勇気は相手のため だけでなく、自分のためでもあるのだ。長く真面目に仕事を続けたかったら、目 先の欲得にとらわれず、潔く辞退すべし!
一部の方が指摘されているように、昨年後半の私の日記は、低次元のミスリー ドに対する反論や批判に使われることがあった。 時間と手間を考えれば、実にもったいないことだと思う。読む人にとっても、 いい思いはしなかったかもしれない。 しかし、それらを無原則に放置していると、その寛容さが誤解され、いつしか 「黙殺」が「黙認」と解釈されてしまわないとも限らない。それはさらなるミス リードにつながりかねないので、ときにはコメントしておきたいと思ったわけだ。 やはり書くべきときは書かなければ伝わらない。 で、相変わらず誤読で目立つのが、この日記を「専業主婦VSキャリアウーマン の対立」ととらえているパターンだ。 その人に言わせると、自分はそういう枠組みや対立がノーサンキューだから、 この日記を認めないという。 「なんちゃってSOHO」の仕事上の誤りを指摘することが、どうしてそういう解釈 になるのか、私にはわからない。 私は、そう考えるその人自身が、実は「専業主婦VSキャリアウーマンの対立」 なる呪縛から自由でないのだろうと考えている。 そして、自由になれない自分の苛立ちが、この日記に対する八つ当たりとして あらわれるのだと思う。 前回も書いたが、「なんちゃって」というのは誰もがいつ陥るかもしれない 可能性がある。 仕事を甘く見てはならないのは、独身であろうがパラサイト何とかであろうが 専業主婦であろうが、キャリアウーマンであろうが同じ。もちろん、性別も年齢 も関係ない。 現象として、現役から遠ざかっていた主婦は間違いを犯しやすいし、家庭にお さまっている気楽さが仕事に取り組む姿勢を甘くすることもある。だから、「主 婦SOHO」という表現を私はしばしば使ってきた。だが、その本質は決して「主婦 だけの問題」ではない。 そんなこと、いちいち解説しないとわからないのだろうか。 そうかと思えば、専業主婦=家庭が幸福、キャリアウーマン=不幸、という紋 切り型のレッテルを貼り、私が不幸の部類に入るから怨念の日記を書いていると のギミック作りに熱中している人もいる。 私は、何が何でも不幸な人でないといけないらしい。 これを実際に書いているのが女という証拠はどこにもないし、書き手が複数か もしれませんよ、と親切にバーチャルな場の曖昧さを教えてやっているのに、 「いいえ、女に違いない」と必死に頑張っている(笑) 女に違いないと頑張るのも、男だと決めつけるのもナンセンスだといってるの に、なぜわからないのだろう。 だいたい、専業主婦でありさえすれば幸福になれるわけではないし、家庭が嫌 だから働くというのものでもあるまい。面識もない他人に向かって「お前は幸せ (不幸せ)」などとお節介な評価をくだすことに何の意味がある。 ひっきょう、その人自身が満たされないから、そんなレッテルと固定観念で他 人を貶してオノレの黒い心を慰めるしかないのかもしれない。
前回も書いた、私の正体を知っているある同業者が、 この日記が始まって しばらくしてから、自らのホームページ(楽天日記)に、次のような「批判」を 認めた。 「外注を使って仕事をするのはムシがよすぎる。社員を雇用して育てればいい」 フリーランスの力を借りて仕事をすることを否定したら、編プロは成り立たな い。ブローカーになりかねない微妙な問題も含んでいるが、編プロは人材派遣業 的側面を自らの業務のうちに必然的にもっている。固定費のかさむマンパワーの 常時維持を最小限に抑えることで、コスト的メリットをクライアントに提案でき ることこそがその真骨頂だからだ。 それとも、「なんちゃってSOHO」は、社員として採用すれば人が変わったよう にいい仕事をするとでもいうのか。 ふふ。その理屈は、小学生にたくさんの小遣いを与えたら、大学生になれると 言っているようなものではないか。 女性(とくに主婦)にチャンスを与えたい、という弊社の方針自体が気にくわ ないというのなら、それはもう、外注だの正社員だのといった、採用の仕方の問 題ではないだろう。 何よりも、その同業者は、かつてフリーランス時代の弊社の社長を外注で使っ てきた事実をどう考えているのだろうか。 話を戻そう。 私の日記を読み、「なんちゃってSOHO」なんか使うからだ、という感想を持た れること自体は、その限りで間違っていない。 問題を起こすのは、たしかに「なんちゃって」ということなのだろう。 ただ、ではどこからが被害を与える「なんちゃって」で、どこからがそうでな いのか、その「しきい値」というのを考えると、実は案外難しい。 私がこの日記を始めた頃に書いたような一部の例は文句なしの「なんちゃって」だが、 そういうわかりやすい人は、さすがに弊社でも門前払いをさせていただいている。 なにがしかの経歴や実績をもって仕事をしている「プロ」を名乗る人でも、い ざ使ってみると「なんちゃって」になってしまう場合があるから厄介なのだ。 そう。今、これを読んでいる「売れっこ」で自信満々のアナタも、いつ「なん ちゃって」に転落してしまうかもしれない可能性がある。 (もちろん私も含めて……) 人間は間違いうるものだからだ。 「なんちゃってSOHO」というのは、きわめて演繹的な概念であり、これからもそ の定義は「進化」する。その意味で、私たちは、つねに「なんちゃって」 になりうる危うさを抱えながら仕事をしているのではないだろうか。 結論 これをやったら「なんちゃってSOHO」になるという指摘はできるが、「なんち ゃってではないSOHO」という定義は不可能である。 よって、「『なんちゃって』でないSOHOを使うべし」という指摘は、論理的で ない。 今年はこのへんで……。 来年もよろしくお願いします。
「身近な人をモデルにものを書くと傷つく人がいることもある」 私の正体を知っているある同業者が、ホームページでそう書いている。 「なんちゃってSOHO」ばかりでなく、理不尽な版元やプロダクションも叩くこと を怖がらない私に対して、牽制やあてつけでそう書いているかどうかの詮索は、 この際、措くとしよう。 どちらであろうが、私の意見が揺らぐことはないからだ。 私は、「身近な人をモデルにものを書」くことを悪いと思っていない。むしろ、 その勇気を持てるかどうかが、いい書き屋になれるかどうかの分かれ目だと思っ ている。 弊社の社長とは多少なりとも関わりのある人で、萩原遼さんという朝鮮問題研 究家がいる。 “ハギさん”は、文藝春秋社から上梓した「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの 陰謀」という本の中で、「書くことは暴露することである」と明言している。 これ、一見過激だが、至極当たり前のことを言っていると思う。 永年勤めた新聞記者としての退職金をつぎ込んでアメリカに滞在し、図書館に 通い詰めて探し当てた資料をもとに、朝鮮戦争の真実を書き上げたジャーナリス トの鏡であるハギさんならではの至言だ。 もちろん、どんな「暴露」でもいいとは言わない。その基準は、 ・公益性ある主張であること ・名誉毀損に該当しないこと この2点にある。言い方をかえれば、これらを満たしたものなら、暴露は法的 にも道義的にも論理的にも責められるべきものではない、と私は考える。 「傷つく」人がいたとしても、上記の点さえ守られたものなら、外部的名誉を傷 つけたものにはなっていないはずだ。たんに「感じ方の問題」である。だから書 くかどうかは、言論の自由というやつだ。それに対して、書かれた者は反論する なり、シカトするなりしていればいい。 いずれにしても、「言論の自由」というのは、お題目として唱えるのはたやす いが、実際の運用についてはそうした厳しい本質を持っている。 少なくとも書くことを生業とする人なら、この厳しさを認識すべきではないか。 受け止められないのなら、表現活動は諦めた方がいい。 ところが、悪口を言わない人がいい人、などという日本的な評価方法を口実に、 他者批判・相互批判から逃げるばかりでなく、それを行う人を悪者にするムキも ある。それはいかがなものか。 卑屈なまでに「いい人」でいたい人は、書き屋としての基本的な資質に欠ける ばかりでなく、他人との(適度な緊張を含んだ)距離をうまくとれない弱い人で はないかと私などは勘ぐってしまう。 筋を通し、人を裏切らない生き方をしていれば、口うるさいとは思われても、 人間としての信頼を失うことはないだろう。それだけで十分ではないか。他者に 期待し、利用しようという腹黒い野心があるから、「いい人」でいなければなら ないのではないか。 なお、たぶん、こんな誤解はないだろうとは思うが、バイブル本は、そうした 覚悟も責任感も必要ない世界なので、この稿の指す「書く」ことの対象にははじ めっから入っていない。 そういう仕事しかしていない人が、その体験の範囲を全てと思いこみ、「私は あなたに賛成しない」などと言われても、次元が違い話が噛み合わないだろうか らたぶん無視するので、その点はご容赦を。
前回、インテリ気取りの自爆をご紹介したが、残念ながらこういうケースは、 特別なものではない。似たような迷言はほかにもあるのでご紹介しよう。 【その1】 (原稿を注意されて) 「(私が)何を書いたかではなく、何を書きたかったのかをわかって欲しい」 いやぁ、これにはマイッタ。 ちょっと考えて欲しい。 たとえば、ラーメン屋が客に「うまくないラーメンだ」と言われて、「私は美 味しいラーメンを作りたいと思ったことをわかって欲しい」などと居直りの弁解 をするだろうか。するようなら、そのラーメン屋はすぐに店をたたんだ方がいい。 出した(まずい)ラーメンが全てではないか。料理人が客の好みを忖度するこ とはあっても、客が料理人の脳内を忖度しなければならない義理はどこにもない。 そもそも、忖度して貰おうということ自体、その人には仕事を請け負った者と してのプライドはないのか、と私なら考える。 甘えちゃだめだよ。仕事だろう? 【その2】 (原稿に朱をいれて戻すと) 「版元の編集方針がおかしいから、私の調子が狂ってしまったんです」 ケースにもよるが、原稿そのものが読み物として完成度が高ければ、原稿にそ う朱は入らない。具体的に原稿を直すというのは、おおもとの問題ではなく、原 稿の書き方それ自体が奇妙なのだ。 私が見たところ、原稿がうまく書けない「なんちゃってSOHO」は、まず、「私 だったらここはこうするのに……」などと、自分の原稿の出来は棚に上げて、聞 いてもいないのに編集方針に口を挟みだす。 自分がその方針で仕事を請け負っている、という前提を図々しくも忘れ、とい うより、まるっきりひっくり返して、自分が請けてやってもいい仕事はこういう 方針だ、と自分の能力の都合でクライアントの方針を変えてしまいたくなるらし い。あんた何様(笑) 私は、この時点で、「この人は危ない」と判断し、諦める。 そういう人はまもなく、エスカレートしてつまらないことから責任転嫁を始め るからだ。 「このときにこう言ってくれれば私はこうしたのだ」 そこで言われることは、たいがいどうでもいい些末なことで、いずれにしても 原稿の出来にはあまり影響がないか、もしくは、結果論としての「れば・たら」 話である場合が多く、要するに、原稿ができない醜態に対する自己正当化や八つ 当たり以上の意味を持たない。 もちろんここまできたら、もうアウトだ。この人は使えない。 【その3】 (原稿を直されて) 「見解の相違ですね。私は自分の原稿でいいと思います」 ライティングの仕事には2通りある。大きく分けて、著作権が自分に残る場合 とそうでない場合(業務委託)だ。 前者は、自分の名前で本を出版(企画出版)したり、署名で新聞や雑誌で連載 したりする場合を指す。著作権が明確に自分にあるから、当然、書いたものにつ いて責任を負わなければならない。この場合、表記や寄稿規定・要項など、その 版元が定めていること以外は、自分の裁量で書ける。 後者は、版元なり制作会社なりが著作者となる仕事を手伝うもので、その法的 な是否判断は措くとして、ライターは書いた原稿について、著作権自体を著作者 に売り渡すという形になっている。単行本執筆でも、ムックなどはそうした契約 形態の場合がある。 主婦SOHOは、おそらくページ建てで後者の仕事を請け負うことが多いだろう。 その場合は、最終的にその原稿の権利を持つ人の意向で仕事をしなければならな いのは当然である。 そういうときは、一人前にポリシーなど開陳しなくていいから、言われたとお りに原稿を書けばいいのである。その場合、それが仕事なのだから。 【その4】 (お粗末原稿しか書けなかったとき) 「コミュニケーションが足りなかったからうまくできませんでした」 掲示板にも、こんなこと書いている人がいたようだが、脱力してしまった。 少しはちゃんと頭を使って欲しい。【その1】でも書いたが、客は業者を忖度 する必要はないが、業者は客のニーズを忖度するのも仕事のうちである。 そう。クライアントが何を喜ぶのか、それを探るのは本来、請け負った側の仕 事である。根本的にそこを勘違いしているのではないか。 もちろん、客が、「こんなものを作って欲しい」というオーダーをきちんと行 うのは当然だ。 しかし、この日記で書いているのは、そういうことではない。 田貫さんが書かれているように、「その人(SOHO)に能力がなけりゃ、どうし ようもない」問題というのがある。私はこの日記で、主にその部分、つまり「そ の人(SOHO)」の能力に依拠する問題を書いている。 さらに言えば、間抜けな「なんちゃってSOHO」を雇ってしまった後悔やグチを 書きたいわけでもない。そういうことなら、最初から主婦SOHOにチャンスなど与 えなければいいだけの話だ。 それにしても、白黒を曖昧にした「どっちもどっち」論で片づけないと、気に 入らないという、良くない意味での判官贔屓の書き込みが後を絶たないが、これ も平和ボケのひとつなのだろうか。 それでは結局、「その人(SOHO)」の側がいつまでたっても現実の課題に気が つかず、よってそこから合理的な進歩や改善の道筋を見いだすこともできないだ ろう。 それなのにきちんと批判せずに、曖昧な両成敗論を求めることが、責任と道理 ある見解といえるのだろうか。 「『弱者』の味方」の方々は、そのへんまで考えて書き込んでいるのか、ぜひ伺 いたい。
以前、東京近郊にある国立大学を出た女性の「ダブルブッキング」を例に出し た(2月18日の日記)。そのときに書いたのは、 いくら名門大学や大会社に入ったことがあるといっても、それだけでスキルは 保証できない。 ということだ。 これは、採用する側だけでなく、採用される側(つまり本人)もきちんと認識 しておいてほしいことである。 根拠のない世間知らずの自信や自負が、仕事を進める上でマイナスになる場合 があるからだ。 過日、ある「有名」大卒ライターの女性が、お願いした原稿に、「パラダイム」 なる言葉を使っていた。 私は、2つの理由から、別の言葉に置き換えるように命じた。 ひとつは、「言葉の成金」原稿を認めないという私の方針による。 必然性のないカタカナ言葉や独りよがりの新造語を並べた、もっともらしいが 中身のない原稿は表現者にとって恥である。「言葉の成金」とは、萩本欽一さん が教えてくれた戒め的な表現である。けだし至言だ。 もうひとつの理由は、(このときはこれがより問題なのだが)「パラダイム」 という言葉自体が問題だったからである。 トーマス・S・クーン初出のこの言葉は、科学史上の「一定期間の規範」とい う意味で使われたが、そもそも科学的な用語として認知されているわけではない。 ところが、それが一人歩きして、今では「物の考え方」「概念」「計画」「潮 流」「段落」等々、様々な意味合いで安易に使われ、もはやクーンの意図すら大 きく逸脱してしまった正体不明の便利言葉に成り下がっているのだ。 おそらく、この大卒ライターは、「パラダイム」についてそこまで知っていた わけではなく、たんに、「格好いい言葉でまとめたい」という安直な気持ちで使 っただけだと思う。 残念ながら、そういう見せかけを私は許さない。そんな「成金」ではなく、も っと地道な原稿を書いて欲しいのだ。 ところが、私の指示に彼女はこう答えてきた。 「パラダイムという言葉を知らない読者たちの水準を合わせるという意味で、直 すことにします」 負けず嫌いは勝手だが、こちらはそういうことを言ってるんじゃないだろう。 安易に、問題のある言葉を使っているという反省をしようとせず滑稽に突っ張 っている彼女に、私は失笑を禁じ得なかった。 また、同じ原稿だったが、ある事実について、認識不足としかいいようのない 間違いも見つかった。 そこで、そちらについても、正確な事実関係を説明した上で直すように指示す ると、今度はこんな回答が返ってきた。 「そのこと(正確な事実関係)は知っていました。ただ、もしもそうじゃなけれ ば、という展開で書いてみても面白いと思ったんです」 さすがにこれには、開いた口がふさがらなかった。 誰も「ドリフのコント(もし……なら)」を書いてくれと頼んではいないのだ。 もちろん、これまたデマカセの言い訳であるろう。要するに、自分が無知であ るという理由で突きつけられた直しは、ご自分のプライドが許さないらしい。 しかし、そんな「プライド」にいったい何の意味や説得力があるのか。 少なくとも使う方は、そんな自称インテリとは面倒くさくて金輪際お付き合い はゴメンだ、と思うだけである。 何より本当のインテリになりたかったら、間違いが発覚したところからが大事 ではないのかな? 「なんちゃってSOHO」は、男社会で勘違いした女性という生き物の象徴かもしれ ない。無知を恥じずに開き直って甘えるか、もしくは無知を強引に糊塗してつん のめっているのか……。 自分の能力は他人にも自分にもごまかせるものではないし、また何の努力もな く思い通りになれるわけでもない。 ありのままの自分を冷徹にとらえ、そこから地道に頑張るということを考えて みたらどうなんだろうか。学問がそうであるように、仕事にも王道などはないの だ。あったら誰も苦労などしない。 |一覧| |
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