サント・ドミンゴ教会の内部を参観し、そのコリカンチャ(太陽の神殿)石組みの素晴らしさにはただ見惚れてしまった。タワンティンスーユ文明の石造建築の特徴として、石組みは「剃刀の刃も通さない」というほど、ぴっちりと積まれていることがあるが、まさに字義通りであることを思い知るのである。
◎硬い鉄器も車輪もなく築造された石造建築
実際に石と石との間には、剃刀どころか極細のピアノ線すら通さないほど隙間がない(写真下)。「回廊」を回って、その石造建築技術の粋を見ると、これがいかにして達成されたのか、ただ不思議である。
これまで何度も述べたが、アンデス文明の最高峰であるタワンティンスーユ文明でも文字は発明されなかった。したがって蟻すら通れない、隙間なく積まれた石材の製作は、ただ口頭伝承で次の世代に伝えられたのだ。
金や銀、青銅を作る技術はあったが、ついに製鉄技術は発明されなかったから、鉄器は存在しなかった。
またアンデス文明は標高差の激しい山岳で発展したからなのだろう、車輪も発明されなかった。したがって建築に使われた巨石は、人力で牽引されたと考えられる(沿岸部の、つまり平地のシカンやモチェ、ナスカなどの各文明でも車輪は発明されていないのが不思議だ)。
◎生け贄を載せる石の台
その巨石の成形は、鉄器がないから、より硬い石で根気よくコツコツと打ち付けて行われたのだろう。彼らは、当然、専任の職人だった。インカ(皇帝)をトップとする官僚制度のもとで、ただ石工だけに専念していたのだ。おそらく世襲制のもとで、その技術は我々が想像もできないほど洗練されたものになっていたに違いない。
回っていた見学コースの途中に、生け贄を載せる石の台が展示されていた(写真下)。
メソアメリカ文明のチャックモールに似ている(写真下=ニューヨーク自然史博物館で。なおチャックモールについては、10年10月27日付日記:「古代オリエント博物館に『オルメカ文明』展を見に行く、残酷な遺物の展示はなし」を参照)。
メソアメリカ文明、特にアステカ文明では、人間の生け贄をチャックモールという石の台に載せて、生きたまま心臓を抉り出し、彼らの信じる第5の太陽に捧げた。伝播なのか自生なのか分からないが、アンデス文明にもそれと同じ野蛮な風習があったことになる。
◎メソアメリカ文明の野蛮な儀式台「チャックモール」
現代の基準で歴史や異文化を評価すべきではないが、アステカ帝国が行っていたように、第5の太陽に捧げるために非帝国外の他民族に戦争をしかけ、大量の捕虜を取って、その捕虜をピラミッド神殿上でいっせいに生け贄にしたような儀式が許されるのか、という問いは重い問題である。1度の儀式で、数千人もの捕虜が、生きたまま心臓を抉られたこともあったとされる。
こうしたアステカ帝国の野蛮さが周辺異民族に反感を買い、スペインのエルナン・コルテスの軍勢が来ると、反アステカの意識のために争って彼らはスペイン征服軍に参加した。コンキスタドールの軍は、メキシコ先住民たちの「義勇兵」の参加で膨れあがった。
こうしたことを鑑みれば、アステカのような野蛮な帝国は、スペイン人コンキスタドールが来なくても、やがて滅びたとも考えられる。しかし実はアステカの儀式は、少なくともアステカより2000年は古いオルメカ文明(紀元前1200年~紀元0年前後)から引き継がれた儀式である。
◎生け贄は喜んでチャックモールに登った
第5の太陽に生け贄を捧げるというその風習は、マヤ文明でも行われていた。
したがってコンキスタドールと不可分の関係であったカトリックによる異教徒たちの改宗の努力で、その風習が根絶されたこと自体は歓迎すべきだった、とリブパブリは考える。しかしカトリックの司祭たちは、同時に先住民たちの奴隷化を進めるイデオロギー上の先兵であった。先住民たちが、神の名のもとに奴隷として劣悪な金銀鉱山で奴隷労働をさせられ、無数の命を落としていった負の側面も忘れてはならない。
だから先述のように、現代の基準で過去の歴史や異文化を評価してはならないのだ。なぜならチャックモール上で心臓を抉り出された生け贄は、第5の太陽に捧げられることに喜んで台上に登ったとも伝えられるからである。
◎雪に閉ざされた高山に捧げられた少女
タワンティンスーユ文明の生け贄では、特別に選抜された子どもたち(主に美しい処女が選ばれた)が高山に生きたまま連れて行かれ、そこで生け贄にされたことも分かっている。
1999年4月、標高6739メートルという現代人でも酸素ボンベなしでは登頂の難しいユヤイヤコ山(アルゼンチンとチリとの国境)の山頂付近で、考古学者ヨハン・ラインハルトを中心とするチームによって凍結してミイラ化した少年少女3体の遺体が発見されたことは、大きな話題となった。筋肉、内臓、脳なども残った500年前頃の子どものミイラは、生け贄として選抜され、神に捧げられたものであった。むろん子どもたちは、生け贄になるために氷河に覆われた高山まで幼い脚で登っていったのである。
1995年に、標高6310メートルのペルーのアンパト山の山頂付近で発見された10~12歳くらいの少女「フワニータ」も、同様の生け贄であった。
生きた人間を捧げる生け贄儀礼は、世界中に存在していたけれども、タワンティンスーユ文明の特異な生け贄儀式は、ひときわ印象深い。
追記 どこへ行く? 不人気汚沢の脱藩渡世
予想以上のグズ、優柔不断ぶり、である。
すぐにもバラマキスト民主党を飛び出すとばかり思っていた汚沢とその一派は、まだバラマキスト民主党内に留まり、幹事長の輿石の必死に取りなしに、ああだ、こうだ、と難条件を突きつけている。つまりは、参議院に審議の移る消費税増税法案などの骨抜きを狙っているらしい。
しかし何度となく「政治生命をかける」と公言し、3党合意までやりとげた野田ドジョウ政権が、そんな言いがかりを飲むわけはない。
そうこうしているうちにバラマキスト民主党内の包囲網が広がり、汚沢が期待したらしい支持の広がりが全くなく、次第に孤立化していっている。
やむなく週明けにも、汚沢とその一派は、衆院わずか30数人で離党に追い込まれるらしい。もはや万策尽きての「離党」という名の玉砕である。
汚沢にすれば、終末に選挙区に帰った一派が、増税反対で支援者をまとめ上げ、世論喚起を狙い、支持を広がようとの目論見なのだろうが、さすがに有権者は、汚沢の旧来からの手にすっかり覚めている。
◎汚沢神話の呪縛からようやく離脱へ
いくら「マニフェスト護持」の錦の御旗を掲げようと、汚沢が汚れた刑事被告人であり、これまで様々な党を分裂させてきた「壊し屋」であることを、みんな知っている。
だから6月28日に発表された朝日新聞の世論調査結果でも、汚沢が旗揚げを狙っている新党に「期待する」はたった15%しかなく、「期待しない」が78%もあったのは当然なのだ。同時期に行われた共同通信の世論調査結果も、似たようなものだった。
離党しても、次の選挙で支持も広げられず、汚沢はもはや死に体である。
日本政治が、長かった汚沢の呪縛からようやく脱しようとしているのは、まことに喜ばしい。
昨年の今日の日記:「腎臓売買事件に見る日本の病理、いつまで底辺労働を外国人頼みなのか」