今から420年以上前の戦国時代、九州のキリシタン大名家由来の4人の少年が、はるばるローマに渡り、時のローマ教皇と日本人として初めて謁見した「天正遣欧少年使節」は、日本史の教科書にも出てくる。
◎戦国期は「キリシタンの世紀」
その他、スペイン王にも歓待されるなど、ヨーロッパ各地で大歓迎された4人は、しかしその後どうなったのだろう、とかねてから疑問に思っていたが、NHK―BSプレミアム2月9日放映の『英雄たちの選択――悲劇のキリシタン弾圧~大人になった天正遣欧使節の決断」は、長年の疑問をすべて氷解させてくれた。
そして戦国期のキリシタン信者たちの置かれた困難な状況や、おそらく日本の歴史上、最も多くの信者が集め、「キリシタンの世紀」とも呼ばれた時代なども紹介され、僕には感動の1時間だった。
◎キリシタン大名ゆかりの少年たち
まず当時13歳前後だった4人は、なぜローマに派遣されたのだろうか。放送は、その背景を解説してくれる。
4人とも、キリシタン大名にゆかりの者だった。
首席正使の伊東マンショは大友宗麟の血縁者だったし、大村純忠の名代で正使の千々石(ちぢわ)ミゲルは、純忠の甥だった(帰国後に棄教)。また2人の副使の中浦ジュリアンと原マルティノは純忠ゆかりの少年だった(図=右上・伊東マンショ、右下・千々石ミゲル、左上・中浦ジュリアン、左下・原マルティノ)。
4人を派遣したイエズス会員で司祭のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、高い身分の少年たちを派遣すれば、自分たちの布教の成功をローマ教皇に知らせることができると考えたのだ。
年齢を13歳前後の少年にしたのは、ヨーロッパでの知識をできるだけ吸収し、持ち帰った日本でできるだけ長く伝道に携わってほしい、という思いからだろう。
◎東方から来た少年たちはヨーロッパ各地で大歓待
1582年2月20日(天正10年)、4人は、数人の日本人修道士やイエズス会士たちと長崎を出港した。途中、マカオ、マラッカ、ゴアなどを経て、2年半後の1584年8月10日に、ようやくポルトガルの首都リスボンに到着した。
帆船なので風待ちをし、スエズ運河もない時代なので、喜望峰回りだ。途方もない時間がかかったのだ。
はるばる極東から少年キリスト教徒が日本の有力王侯の使節としてやって来たということで、彼らは各地で最大級の歓迎を受ける。スペイン国王フェリペ2世に拝謁、さらには各公国の領主(メディチ家の当主を含む)にも拝謁し、歓待を受ける。
ちなみに放送によると、知られているだけでも東方の4少年使節を報じた記事は70件以上にも達しているという。今ならテレビ各局に毎日、出ずっぱりのようなものだったのだろう。
◎謁見した教皇は感動のあまり「滝のような涙」
そしてついに1585年3月23日(天正13年)、彼らはローマで初めてローマ教皇グレゴリウス13世に謁見している(図)。ユリウス暦に代わって後に「グレゴリオ暦」と呼ばれる新暦を採用したことで、歴史に名が残る教皇である。
むろん彼らは、ローマ教皇に会った初めての日本人であった。ただこの時、中浦ジュリアンだけは欠けていた。熱病に冒されていたとも伝えられている。
この謁見に際して教皇は、途中の危険を顧みずはるばる極東からやって来た少年たちの勇気と信仰の強さに感動し、「滝のような涙を流した」という。
ただこの2週間後、グレゴリウス13世は死去している。代わって就任したシクストゥス5世の戴冠式(同年5月1日)にも、3人は出席している。この時も、中浦ジュリアンは欠席している。
(続く;3回連載となります)
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