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Locker's Style

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『橋の下の彼女』(30)

1999年7月14日(水)

フィリピン・アレン

 ミルクフィッシュの到着に待ちくたびれてか、ライアンは会社に泊まったらしく、その朝、将人たちは三人だけで朝食を取った。
 出勤時間になると、クリスが迎えにやってきた。
「養殖池の魚は届いたのか?」
 辰三が開口一番で聞いた。
「日の出と同時に到着しましたよ。数日分って話でしたけど、けっこうな量がありましたよ」
 それまで朝食に手をつけなかった辰三だが、クリスからそう聞かされると、にんまりと歯を見せて、焼き飯をばくばくとかき込みだした。

 パジェロがブエナスエルテ社に乗り入れると、見覚えのある坊主頭が加工場のなかをうろうろしているのが見えた。
「おお、変な魚がうろついてるな」辰三が嬉しそうに言った。「ミルクフィッシュに混じって、ジョエルフィッシュまで届いたか」
 パジェロに向けて大きく手を振るジョエルに微笑み返しながら、将人はしかし、彼がまた何か良からぬことを考えてはいないかと不安になった。
 昨日は空になっていた冷蔵保存庫には、ミルクフィッシュがぎっしり入った大バケツがずらりと並んでいた。全部で十杯。ボンレス(骨なし)加工は時間がかかるので、クリスの言ったとおり、これは数日で処理するには多すぎる量だと思えたが、辰三は「大丈夫、あの連中ならな」と笑みを崩さなかった。
 製氷機で作ったフレークアイスが、魚と魚のあいだに隙間なく押し込まれている。辰三が教えた、鮮魚の鮮度を最適に保つ方法だ。
「魚の扱い方、だいぶわかってきたみてぇだな」
 辰三が感心したように頷いた。
「タツミさんに教えてもらったことは、ぜんぶ書き留めてありますから」
 ライアンは、あたかも自分が指示したのだと言うように答えた。
 しかし、ミルクフィッシュの搬入と保存処置の一切を取り仕切ったのが実はトトで、ライアンは昨晩早々に彼女のところへ出かけていて、帰ってきたのは朝方、それもトラックが去ったあとだったと、将人はあとでクリスから聞かされた。

 カルバヨグから戻らないリンドンの代わりに、今日はジョエルが始業のホイッスルを吹いた。
 ミルクフィッシュの加工が始まった。大きなものでは四十センチを越える丸太のような魚が、加工テーブルの中央に積み上げられる。辰三が手本を見せた。大きな魚体を豪快に三枚におろし、切り出した身に残った小骨をピンセットで一本ずつ抜いていく。「一本でも小骨が残ったらもうボンレスじゃなくなるからな」と辰三は繰り返した。とは言っても、骨の位置も本数もだいたい決まっているから、言うほど難しいことでないらしい。
 たった一回手本を見ただけで、加工係たちはもう何度もやっているかのような慣れた手つきで加工を始めた。彼らがこの数日でどれほど腕を上げたか知らないジョエルは、そんな彼らの出刃さばきに目をむいて驚いている。
「ほら、そんなとこでふらふらしてると、お前までボンレスにされちまうぞ」
 口を開けて立っているジョエルの背中を、辰三がパチンとたたいた。
「ああ、すみません、タツミさん」ジョエルが辰三に振り返った。「あの出刃さばきなら、人間も簡単にヒラキにしてしまうでしょうね。それにしても、一週間ちょっとで彼らをここまで成長させてしまうタツミさんの指導力、やっぱりすごいですよ」
「まあ、こいつらが、俺が考えてた以上に器用だってのもあるんだが――」辰三は、目じりを下げて加工係たちを見回した。「――俺の教え方がうまいってのもあるな」
 二人は声を上げて笑った。
 いつの間にか、加工係たちは作業を分担していた。ミルクフィッシュの頭を落とすもの、三枚に下ろすもの、小骨をピンセットで抜くもの。梱包係たちは、小骨を抜く作業を手伝った。
 マニラ圏では、ミルクフィッシュのボンレスは、スパイスを振ったもので一切れ二百ペソから三百ペソで売られているという。加工係たちの日給を軽くえる値段だ。ピーナッツのはちみつ漬けが一瓶百五十ペソだったことを考えれば、妥当な価格だと言えるだろうが、それにしてもこの物価の地域差には改めて驚かされる。そこに目をつけて商売を思いつく関内は、良くも悪くも商社の人間らしな、と将人は感じた。
「そういえばタツミさん――」ジョエルが悪びれる様子もなく言った。「アマリアの気持ち、そろそろ受け入れてあげたらどうです?」
「そりゃもう済んだ話だろ」
 そう答えながら、辰三はアマリアをちらりと見やった。
「今朝、久しぶりに彼女と話したんですけどね、『わたし、やっぱりタツミさんのことはあきらめられない』って言ってたんですよ」
 辰三のために彼女を二千ペソで〈買った〉張本人のジョエルは、平然とそう言ってのけた。
「気持ちはうれしいけどよ、俺はな、従業員の子とどうにかなろうなんて考えてねぇ。それに今はよ、この会社を動かすことで頭がいっぱいだからさ」
 ジョエルの嘘を真に受けている辰三は、照れくさそうにそう答えると、またアマリアの方を一瞥してから、加工場の隅に転がっていたヤシの実をつかみ上げ、リーファーコンテナの方へ向けて軽快にドリブルしていった。
 よく何のためらいもなくあんな嘘を平気でつけるもんだよ、と頭の中で言いながら、将人は呆れる思いでジョエルの横顔を見た。
 将人の責めるような視線を受けても、ジョエルの表情に罪悪感は皆無だった。
「ああいうこと言われてうれしくない男はいないだろ。タツミさんの機嫌もますます上々だし」
 言い返そうとして、将人は口をつぐんだ。灼熱の太陽の下、草むらをヤシの実をドリブルして駆け回るほど、辰三を気分良くさせているのは事実なのだ。
「ところで、ちょっと小耳に挟んだんだけど――」ジョエルが将人の肩に腕をかけた。「――どこかの日本人が、アレンの貧乏娼婦に、すっかり入れ込んでしまってるらしいね」
 貧乏娼婦、とジョエルが言うとき、露骨な蔑みの響きがあった。
「娼婦に入れ込んでるわけじゃない。ひとりの女性を気にかけてるってだけだよ、その日本人はね」
 将人がしかめっ面で答えると、ジョエルはしたり顔を返してきた。
「ショウ、若いころは誰でも一度は経験することさ。でもね、いつか必ず目が覚めるときがくる。もしこれがフィリピン人どうしの話なら、気が済むまで好きにさせておけばいいと放っておくところけど、君は違うんだ。僕たちの大事なゲストなんだよ。アレンの貧乏娼婦の嘘にのせられた君が、何千ペソもの金を巻き上げられるのを、黙って見ているわけにはいかないんだ」
 将人は驚いてジョエルを見返した。ティサイに千ペソ渡したことを知っているのは、アルマンとクリスだけだ。二人のどちらかが口を滑らせたとしか思えない。しかしアルマンでないことは確かだった。彼は昨夜から今朝出社するまで将人とずっと一緒だったし、アマリアの一件が響いているのか、ジョエルとは挨拶すら交わさなかったのだ。
 そうなると、犯人はクリスということになる。いくら口の軽い彼でも、将人がティサイに現金を渡したことがライアンたちの知ることころになれば、ただ事では済まないことくらいわかりそうなものなのだ。二人の関係を応援しているはずの彼が、なぜこうも簡単に口を滑らせてしまったのか、将人には理解できなかった。
「巻き上げられたんじゃない、僕が自分の意思で渡したんだ。彼女は僕の前で涙すら流した。人生を変えたいっていう彼女の気持ちに、嘘はないと思う」
「それを、フィリピンでは〈巻き上げられる〉って言うんだよ」ジョエルは鼻で笑いながら、将人の肩に手に腕をまわした。「相手はティサイなんだってね。僕も、ハルディンには何度かいったことがあるから、彼女とは顔なじみだよ、おっと、買ったことはないから安心して。確かに、娼婦にしておくのがもったいないほどの美人だということは認める。だけどね、いくら美人でも、娼婦になる女ってのはそれ相応の人間なんだよ。マニラに行けば、上流階級で、フィリピン人と白人のハーフで、英語も上手くて、学歴もあって、ティサイよりずっときれいな、〈まともな〉女はいくらでもいるし、君が言い寄れば、そういった女のほとんどが、君のデートの誘いに二つ返事で応じてくれる。わざわざこんな田舎町の娼婦を選ぶことはない。言わせてもらえば、まったくばかげてるよ」
 ふと、マニラからサマールへの移動に使った国内線の、あの美しいスチュワーデスのことが頭に浮かんだ。たしかに、フィリピンにはあんな女性が他にもたくさんいることだろう。しかし彼女のような〈まともな〉女性たちは、誰かに救ってもらう必要などなく、物理的にも精神的にも、何ら不自由のない生活を送っているはずだ。
 それにひきかえティサイは――。
「彼女の人生を変えてあげたいんだ」
「ショウ、君が変えられるのは、彼女の人生じゃなくて、財布の中身だけだよ」
 ジョエルは、何を言っても取り合うつもりはないよ、とでもいうように薄ら笑いした。
「ジョエル、僕は本気なんだよ」
「僕も本気だよ、ショウ。だからこそ忠告してるんじゃないか。とにかく、まずはティサイの気持ちをはっきりさせないと」
「どうやって?」
「会って話すんだ」
「いつ?」
「今夜か、明日の夜」
「君がひとりで会いに行くの? それとも、僕も一緒につれてってくれるの?」
「ショウを連れて行かなかったら意味がないだろ。君に接する彼女の態度を見て、僕が彼女の本心を見抜くんだから」
 ティサイに会える――そう思った途端、将人は自分の顔に場違いな笑みが浮かんだのがわかった。
 ジョエルがティサイを露骨に娼婦扱いすることにはいらだちを覚えるが、それでも彼は、ティサイのことに関しては、ライアンよりはずっと話がわかりそうな気がする。
「正直、複雑な気持ちだけど――じゃあ、お願いするよ」
「言っただろ、夜のことはこのジョエルにお任せって」
 たとえ普段は養殖池で寝泊りしているといっても、ジョエルはブエナスエルテ社の重役で、クリスとパジェロを自由に扱う権限を持っているのだ。これで、なかなか思うように外出させてくれないライアンのお伺いをたてる必要もなくなる。
「リンドンも、今日の午後にはカルバヨグから戻るだろ、だから一緒に連れていくつもりだよ。知っての通り、彼はこの会社で英語が一番うまいから、ノノイやクリスとちがって正確な通訳ができる。感情的にならず、客観的で、冷静で、極めて公平な人間だから、こういう相談の相手としては最適さ。ただひとつ問題があってね、彼はハルディンのような場所には、例えどんな理由があっても絶対に入ろうとしないんだよ」
「その心配ならいらないよ。ティサイはもう、ハルディンを辞めたんだ」
 その分の生活費を渡したんだからね、とは続けなかった。
「それは彼女が君との約束を守っていたら、の話だろ?」
「守らないはずがないだろ」
 ジョエルは、どうかな、というように肩をすくめた。
「疑っているの、彼女を?」
「それはね、つまり、そういうものだからさ、娼婦ってのがさ」
 言い返そうとしたが、ジョエルの確信に満ちた表情に見つめ返されて、将人は思わず言葉を飲み込んでしまった。
「たださ、ティサイのショウに対する気持ちの全部が嘘だ、と言ってるわけじゃないんだよ。例えばね、相手がちょっと金持ちのフィリピン人だったら、彼女もきっと、『いいカモがあらわれたぞ、もっともっと金を巻き上げてやろう』って考えるだろうけど、さすがに相手が若くてハンサムで金持ちの日本人となれば、『このひとについていけば、自分の人生が本当に百八十度ひっくりかえるかもしれない、まっとうな生活にもどれるかもしれない』って考えたくもなるだろうね。もしかすると、今ごろ本気で娼婦を辞める気になっているのかもしれない。だからこそ、会って彼女の本心を確かめる必要があるんだよ」
 その通りだね、と将人は大きく頷いたが、何だかジョエルにいいように言いくるめられたような気もしていた。
「よし、今夜はまずハルディンへ行こう。彼女が本当に君との約束を守って辞めているかどうか、そこから確かめようじゃないか」
「彼女がハルディンにいないと確かめた後はどうする?」
「そのまま彼女の家に行けばいい。アレンのはずれの、橋の下の集落に住んでるそうだね。車なら五分もかからないよ」
 そんなことまでクリスは話したのか、と呆れながら、将人は「わかった」と頷いた。

 十時の休憩の飲み物には、コーラではなくボゴジュースが運ばれてきた。
 氷運びに精を出したおかげで、全身汗まみれになっていた将人は、アルバートからボゴジュースを手渡されるなり、息継ぎもせず一気に飲み干した。飲み終わると、トトに教えてもらったやり方で、ナタを使って実を真っ二つに割り、中の白い果肉をスプーンですくって食べた。繊維質が大量に含まれている果肉は食べ過ぎると腹をひどく下すのはわかっているが、深みのある甘いミルクのような味と香り、硬いゼリーのような心地よい歯ごたえは、軽い禁断症状すらもたらすほどの美味なのだ。
 そういうわけで、十時の休憩が終わってしばらくすると、大バケツの氷を取りに向うたびに、将人は必ずトイレに寄らなければならなくなっていた。
 何度目かのトイレから出てきたとき、さっきまで裏の納屋に簡易ベッドを広げて寝ていたクリスが、その扉に隠れるように手招きしているのが見えた。
 将人は氷をアルバートに頼んで、クリスのいる納屋に入った。どんよりと湿った空気が満ちていて、サウナのように暑い。
「君の口は、ヤシの実の果肉を食べすぎた僕のケツくらい緩いんだな」
 将人は、あきれた、というように首を振った。
「違うんだ、誤解なんだって――」ライアンたちのいる計量所の方をちらちらと気にしながら、クリスが大きく首を振った。「――本当に仕方なかったんだよ」
「いいかい、君がうっかり口を滑らせたばかりに、彼女の人生が大きく変わってしまうかもしれない――というか、大きく変わらなくなってしまうかもしれないってこと、わかってるんだろうね?」
 将人は語気を強めた。
 大きく息を吐き出して、クリスはがっくりうなだれた。
「昨日の晩、ライアンが彼女に会いに行くっていうから、送っていったんだ。それでね、いつものように、家の外からそっと彼女の名前を呼んだんだけど、熟睡してたのか、反応がなくてさ。それでいったん引上げることにしたんだ。一時間くらい経ってからもう一度行ったんだけど、そのときは彼女を起こすことができた」
「それで、待ってるあいだの暇つぶしに、ライアンにべらべらと話してしまったってわけ?」
「そうじゃないんだ、そうじゃなくて、いろいろと事情があって――」
「クリス! 言い訳ばっかりしてないで、少しは反省してくれよ。わかるだろ、ライアンやジョエルはティサイのことを物みたいにしか見てないんだ。彼女を助けたいという僕の考えを応援するはずがない。確かに、僕が彼女に会うためには車を使わなきゃならないし、ボディガードもつけてもらわなきゃならないから、これから先、すべてをすべて、彼らに内緒にできないことはわかってる。でもね、だからといって、わざわざ聞かれてもいないことまで君がべらべらと話すことはないだろ」
 ごめん、とクリスは口をすぼめて頷いた。
 将人は続けた。
「フィリピンの階層社会とか、民族差別っていうものを、何となくだけど、最近は感じ取ってる。階級意識や民族意識の強いライアンたちを刺激するようなことはしたくないんだよ。聞かれても答えずに済むことには、答えないで欲しいんだ」
「わかってる、わかってるんだけど――」
 それだけ言って、クリスは黙り込んだ。一分ほど待っても、口をもごもごさせるだけで、続きの言葉が出てこない。
「そろそろ加工場に戻らないと」将人はクリスの背中をたたいた。「君がティサイの友人で、彼女のことを思うなら、どうか――」
「いたんだよ!」
 クリスが唐突に言って、将人を見据えた。
「いた? いたって、何が?」
「ティサイだよ」
「どこに?」
 言わなくてもわかるだろ、というように、クリスが頷いた。
 将人は、体を流れ落ちる生暖かい汗が、氷水のように冷たくなるのを感じた。つまり、彼女は将人の金を受け取ったあとも、ハルディンにいたということなのだ。
「だけど昨日はもう仕事しないで帰るって―――」
「わからない、わからないよ、まだ本当のところはね。でも昨日の晩、バネッサのところへ向う途中――あ、バネッサってのはライアンの彼女の名前なんだけど、ライアンが、『ハルディンへ寄っていこう』って言い出したんだ。『ショウを良いカモだと思わせたりしないよう、こっちにはアーミーやマフィアのうしろ盾があることをティサイに教えてやらないと』って息巻いてね。だから私は、『ハルディンに行っても、ティサイはいないと思いますよ』って、調子に乗って言ってしまったんだ。そしたら、『なぜそんなことがわかるんだ?』って聞き返されてしまって――」
 君らしいね、と将人は首を振った。
「ハルディンに着いて、ライアンから、ティサイを連れ出すためのペナルティの二百ペソを渡されて――そうそう、その金だけど、きっと、セキウチさんからショウのためにってカルバヨグで渡されたお金がまだあるんだよ、だって、ライアンがそんなことに自分の金を使うわけがないから――」
「関内さんの金なんてどうでもいい、ティサイの話を続けて!」
 クリスがびくりとした。
「ごめんごめん。そう、それで二百ペソ持ってハルディンに入ったんだ。そしたら――」
「彼女がいた?」
 クリスが頷いた。
 将人は大きくため息をついた。雑貨屋の前で千ペソを受け取ったあと、彼女は帰宅したとばかり思っていた。それはクリスも同じだったようだ。
「私は思わず頭に血が上って、ティサイを店の裏に引っ張り出したんだ。『ショウとの約束はどうしたんだ!』って大声で怒鳴ったよ。そしたら、『客の酒の相手をしてるだけよ、飲ませた分だけキックバックがもらえるから。もちろん寝たりしない』って言い返してきたよ。だから、『ショウはそういうことも全部含めてハルディンで働くなって意味で千ペソ渡したんだろ。ショウに人生を変えて欲しいなら、今すぐ帰りなさい』と言ったよ。彼女はしぶしぶ了解したけど、本当にそれからすぐに家に帰ったかどうかはわからない。確かめたわけじゃないから」
 興奮さめやらぬままライアンの待つパジェロに戻ったクリスは、思わず洗いざらいをライアンに話してしまった、というてん末だった。しかし結果的にその〈洗いざらい〉の話が長引いたおかげで、ライアンはティサイを呼び出してアーミーやマフィアなどといった物騒な話をする時間もなくなり、バネッサの家にそのまま向うことになったのだ。
「つまり、ティサイへの金がうんぬんの話は、ライアン経由でジョエルに伝わったってわけか」
 将人はようやく合点がいった。
「ジョエルは嫌なやつさ」クリスがつぶやいた。「あいつ、たまに池から戻ってきたかと思うと、ハルディンに行って、ねらったようにノーラを買うんだ。私の恋人だって知っていてだよ。それで、『昨日のノーラは良かった』ってわざわざ私に言いに来るんだ。そんなことに腹を立てるのがばかげてるのはわかってるよ。彼女は娼婦で、誰でも自由に買える女なんだから。だけどね、要するに、ジョエルは他人の女と寝ることを楽しむ変態野郎なんだ。そのうち、ティサイにだって手を出すかも――」
「もういいから」将人は、クリスの顔の前に手の平をかざした。「この話はこれで終わりにしよう。とにかく、今後はくれぐれも口に気をつけてくれよ」
 まだ話し足りなそうなクリスを納屋に残し、将人は加工場へ向けて駆け出した。

 社宅での昼食にはジョエルも加った。ブエナペスカ社の池から今朝届けられたミルクフィッシュを、サンがさっそく詰め物料理にしてくれた。
 久しぶりに同じ皿の料理をつつきながら、将人は、ジョエルがまだ社宅のリビングで寝泊りしていたころのことを思い出していた。
 関内がいて、レックスもいて、将人は辰三と同じ部屋で寝起きして――。
 まるで、何年も前のことのように感じる。
 食事のあと、会社に戻る前に、アレンの魚市場前の広場にある電話交換所に寄った。カルバヨグにいるリンドンからのファックスはまだ届いていなかった。パジェロが広場をぐるっと回ってシャイメリーの店の前にさしかかると、彼女がねらったように店から出てきて、止まって、というように手を振った。
「私を疑ってるの? しっかり三十分おきに確認してますわよ」
 昨日に続いて、シャイメリーは今日もファックス番を頼まれたらしい。
「ごめんごめん、そういうつもりじゃないんだ」
 後部座席の窓を開けて、ライアンが謝った。腰に手を当てて頬を膨らませた彼女は、まぶたいっぱいに、濃いエメラルドグリーンのアイシャドーをまとっている。
「ハロー、ショウ!」
 将人は助手席の窓を開けて彼女と握手を交わした。エアコンの効いた車内に、昼下がりの広場の熱気がどっと流れ込んでくる。
 シャイメリーは、まるで両目でウィンクするかのように、将人に向けて、その色鮮やかなまぶたを、大げさに閉じて見せた。
「今夜のダンスパーティー、あなたも来るんでしょ?」
「ダンスパーティー?」
「ほら、今週末からアレンのお祭りでしょ、祭りまえの催し物が目白押しなのよ。今夜はタタイ・アナックでダンスパーティー。あなた、あの店によく行くっていう話だから、どうかなと思って。ライアンにあなたを誘ってくれるように頼んでいたんだけど――もしかして、まだ聞いてないの?」
 将人は、後部座席を振り返り、ライアンに「何のこと?」と肩をすくめて見せた。
 ライアンが将人に、続いてシャイメリーに苦笑いした顔を向けた。
「ごめん、ショウに伝えるのすっかり忘れてた。どのみち、今夜の予定は、リンドンから連絡が来ないことには決められないよ。とにかく、引き続きファックスをよろしく頼むよ。今夜の詳しい話は、君が会社に来たときに。じゃあのちほど、シャイじゃないシャイメリー!」
 パジェロが発進しても、シャイメリーは店に戻らず、怒ったような顔で腕組みしたまま車を見送っていた。
 会社に戻ると、辰三はアルマンとヤシの実でサッカーを始めた。
 二人がボールの奪い合いに夢中になっている最中、ライアンが将人を計量所に引っ張っていった。
「ダンスパーティーの件は、別に内緒にしていたわけじゃないんだ。いろいろと忙しくて、さっき彼女に言われるまで本当に忘れてたんだよ」
「気にしなくていいよ。君が〈いろいろと〉忙しいのは、よくわかってるから」
 将人は、皮肉を込めて言った。
「ところでショウ、君もシャイメリーの変化に気付いただろ? どうやら彼女は、君に本気で惚れてしまったみたいだ」
 将人は首をかしげた。
「言っておくけど、僕は辰三さんみたいに簡単には騙されないよ。いったい何の根拠があってそんなことを言うんだ?」
「意外と鈍感なんだね、ショウは」ライアンがくすくすと笑った。「彼女とはもうずいぶん長い付き合いだけど、あんな色のアイシャドーを塗ってるのは初めて見たよ。エメラルドグリーンのパンプスを買ったから、君がその色を好きなのかもしれないって思って使ったに決まってるじゃないか。それもあんなにべったりとさ」
「偶然だよ」
「偶然なもんか。それに、今夜のダンスパーティーは、ダンスといっても、チークダンスの催しなんだ。ナイトクラブに誘うのとはわけが違うんだよ」
 ティサイを連れて行けるのなら喜んで参加するのにな、と将人は思った。
「どうだい、デートに誘われたと思って、シャイメリーと踊りに行ってあげたら? 彼女は今ごろ、君が誘いを受けてくれるだろうかって、ドキドキしているに違いないよ」
「そんなこと言われても――」
 もしティサイに出会っていなければ、きっとシャイメリーの誘いに応じたことだろう。彼女は彼女で十分に魅力的な女性だ。しかしアレンは小さい町、いくら友人と割り切ったとしても、タタイ・アナックのダンスパーティーで、将人がシャイメリーとチークダンスなどしようものなら、あっというまに町中のうわさになる。ティサイがそれを耳にすれば、まだ緩いままの彼女の将人に対する信頼は、あっさり失われてしまうかもしれない。
「――やっぱり無理だよ、変に誤解されても困るし」
 ライアンが小さく唸った。
「ティサイのことが気がかりなんだね?」
 言い訳しても仕方がないと思い、将人は素直に、そうだよ、と頷いた。
「なぜそこまで彼女にこだわる? ティサイはティサイで別に考えて、他のいろんな女の子とデートしたり、場合によっては、それ以上もしてみたいとは思わないの?」
 将人が首を振ると、ライアンは呆れたように両手を大きく広げた。
「それはつまり、ショウの〈テイサイ〉なの?」
「僕は体裁なんて気にする人間じゃないよ。たださ、昔から、この女性、といったん決めたら、とことん一直線に突っ走るんだ。まあ、そう言うと格好いいけど、要するに向こう見ずに突っ走る性格なんだよ」
 今こうしてフィリピンの大地に立っているのは、通訳になろうと向こう見ずに突っ走った、まさにその結果なのだ。
 しばしの沈黙のあと、ライアンが口を開いた。
「君を見ていると、僕まで突っ走りそうになるよ」
「突っ走るって、何に?」
「彼女さ、バネッサに」
「彼女はすでに君のものじゃないか」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
 ライアンがふっと息を吐いた。
「彼女は生粋のワライ族で、僕はスペイン人の血が流れるタガログ族。向こう見ずに突っ走れば、辛い決断を迫られる」
「民族とか階級とか、そんなもの捨ててしまえばいいじゃないか」
 苦笑いしながら、ライアンは、そんな簡単にはいかないよ、と首を横に振った。
「だけど、これだけははっきり言える――僕はバネッサを心から愛してる。ダバオにいたころは、可愛くて、頭もスタイルも良くて、親の社会的地位も高い、条件は完璧な女の子たちとたくさん付き合った。でもね、バネッサと出会って、僕は今までの恋愛が本当の恋愛でないと思い知らされたよ。僕は、大学卒業するやいなや、ダバオの都会から、いきなりこんなサマールの僻地に飛ばされた。友達も車も携帯電話もゲームも、ありとあらゆるものを置き去りにしてね。最初の数ヵ月は、このままだと頭がどうにかなってしまうんじゃないかって、本気で心配した時期もあった。もう全てを捨ててでもアレンから逃げ出したかった。バネッサと出会ったのは、そんなときだったよ。始めのうちは思ったんだ、島流しにされたような孤独感のせいで、彼女への思いが何倍にも増幅してるだけだ、いったんアレンを離れれば、目覚めた途端にその内容が思い出せなくなる夢と同じで、ワライの女のことなんて簡単に忘れてしまうに決まってる、ってね。だけど、夏休みや新年にダバオに戻ると、忘れるどころか、彼女に対する思いはむしろ強くなった。会いたくて会いたくて、アレンに帰りたくて帰りたくてたまらなくなるんだ。まったく、これが笑わずにいられるかい?」
 将人は笑ったが、それはおかしいからではなかった。
「それでわかったんだ、僕の彼女に対する愛情は、一時的なものじゃなくて、正真正銘の本物なんだってね」
 ライアンにここまで言わせるバネッサがどれほどの女性なのか、将人は考えずにはいられなかった。
「いっそのこと、彼女を連れて外国に移住するなんてのはどう? 外国なら、君たちは同じフィリピン国籍を持つ、同じフィリピン人でしかないだろ?」
 言いながら、将人は思った――ティサイが日本に来れば、フィリピンパブのホステスだと疑われることはあっても、ゴーゴーバーで娼婦だったのではと疑う者は――欧米人との混血だとひと目でわかる、モデル並みの顔立ちを見ればなおさら――まずいないだろう。
「それも考えたことがある。でもね、僕の人生は、僕だけのためにあるわけじゃないんだ。父さんは一念発起してメトロバンクを辞め、一から魚の養殖を勉強して、あれだけあった貯金を使い果たした上に借金までして、ようやくブエナペスカ社を立ち上げたんだ。そして今度は、セキウチさんと、ミナモト水産をはじめとする日本企業からの投資を受けて、ブエナスエルテ社が設立されることになり、父さんが社長に抜擢された。もちろん、父さんが一人で、マカティの営業所、ロザリオの養殖池、アレンの加工施設の全てを管理できるわけがない。誰かに仕事を任せなきゃいけないけど、フィリピンじゃ、最後まで信頼するのは親族だけって決まってる。僕、リンドン、ジョエルの誰か一人でも欠けたら、会社は大変なことになる。僕がいなくなれば、父さんだけでなく母さんも、おばあちゃんも、おじいちゃんも、親戚のみんなも、そしてこの会社の従業員たちも、タツミさんもミナモト水産も――他のたくさんの人々も不幸にしてしまうんだ。もちろん、バネッサはとても大切な人だよ。でもね、もし彼女ひとりと、彼女以外の大勢の大事な人々たちの、どちらかを選べと言われたら、答えは考えるまでもない。そもそも、僕には選ぶ権利すらないんだよ」
 真剣な面持ちで、自らに課された重い責任を語るライアンを見て、将人は、外国に移住すればいい、と軽く言ってしまった自分が恥ずかしくなった。
「ごめん」
「ショウが謝ることはないよ。バネッサのことに関しては、むしろ勇気をもらってるんだから」
 将人は考えた――自分はこの歳まで、自分のまわりの大事な人たちに対する責任を、ライアンのように真剣に考えたことが一度でもあっただろうか――。
「それで、今夜もティサイに会うのかい?」
「ジョエルが一緒に行ってくれるって。リンドンも一緒に連れて行くと言ってた」
 将人は、ジョエルがリンドンと一緒にティサイの本心を見抜くつもりでいることをライアンに話した。
 ライアンも、それはいい考えだ、と賛成して、ボディガードにはイボンを使えばいい、と付け加えた。
「もし彼らがティサイと話して、彼女の君に対する気持ちが真剣だと確かめられたら、たとえ相手が娼婦であれ、僕はショウを応援する」
「本当に?」
 意外な言葉に、思わず声が上ずった。
「ああ。クリスのことが気がかりだったけど、ジョエルが間に入ってくれるなら安心だからね」
「気がかりって?」
「クリスは、ティサイのためなら君がいくらでも喜んで金を出すと見抜いただろうから」
「それが問題でも?」
「クリスがティサイからキックバック(払い戻し)を受け取っているかもしれないからさ。二人がグルになっていないとも限らない」
「まさかクリスに限ってそれは――」
「ありえるんだよ」ライアンがピシャリと言った。「ショウ、娼婦のティサイの人生を変えてやろうという君の考えはとても素晴らしいことだと思う。ただ、もし本当にそうしたいなら、〈正しい方法〉でやらなければ意味がない。一歩間違えば、彼女をさらに堕落させることにもなりかねないんだ」
 将人は完全に言葉を失った。ライアンの指摘が、あまりに意表を突くものだったからだ。
 考えてみれば、クリスはハルディンのノーラと不倫関係で、彼女の職場仲間であるティサイとも友人だ。ないとは思いたいが、ないと言い切るだけの確信もない。
「確かにその通りだ。正しい方法でやらなきゃ、僕が変えるのは、彼女の人生じゃなくて――」将人はジョエルの言葉を借りた。「――彼女の財布の中身だけになってしまうからね」
「僕たちが、君とティサイのことについて、何を本当に心配しているのか、ようやくわかってもらえたようだね」
 そう微笑んだライアンの顔を見て、将人は、まだサマールに来て二日目の晩、見張り小屋で辰三と言い合いをしたあと、社宅のリビングで彼に励ましてもらったときの、あの親近感がよみがえるのを感じた。
「ああ、これからは君たちを信じて、何でも話すようにする」
 ライアンが手を差し出した。
 将人はその手を強く握り返した。


 シャイメリーがリンドンからのファックスを届けに来たのは、加工場の清掃が始まった五時過ぎだった。ファックスの届いた時間が遅かったのも幸いして、ライアンはシャイメリーの誘いをうまく断ってくれた。
「『トラックの手配に手間取ったせいで、カルバヨグを出発するのは四時過ぎになる』と書いてあります。でも、鮮度も魚種も良いものだけを選んで五百キロほど買い付けたそうですから、ひとまず安心ですね」
「小イワシは買ってねぇだろうな?」
 辰三は真顔で聞いた。
 ファックスには魚種までは記載されていなかったので、ライアンは肩をすくめて「書いてないですね」とだけ答えた。
 〈書いてない〉を〈買ってない〉と解釈した辰三は「それはよかった」と微笑んだ。

 買い付けた魚種がわからないことには、明日の加工の予定が組めない、と辰三が言うので、終業後もリンドンの到着を会社で待つことになった。リーファーコンテナと見張り小屋のあいだの、広々としたコンクリートの地面の上にガーデンテーブルを置き、そこで社宅から運んできた夕食を取った。
 ジョエルと辰三は、身振り手振りに英単語を交えて楽しげに会話しながら、タバコとサンミゲルを交互に口に運んでいる。ライアンとアルマンは、少し離れた地面の上に疲れた顔で寝転んでいる。
 将人はリンドンの到着をやきもきしながら待っていた。
 八時を過ぎても、リンドンは到着しなかった。ジョエルが「残念だけど今夜は中止だ」と将人に耳打ちしてきた。将人はがっくりと肩を落として、心の中で、リンドンののろま、と悪態をつきながら、それまで手をつけていなかったサンミゲルを一気にあおった。
 蒸気機関車と見間違えるほどの黒煙を撒き散らすトラックが到着したのは、九時になろうかというときだった。
 ぐったりとした顔のリンドンが助手席から降りてくる。途中で三回もエンジンが動かなくなってしまい、そのたびに、運転手が一時間ほどかけて修理することを繰り返したそうだ。
 リーファーコンテナへの搬入が終わったのは、九時五十分だった。
 普段は遅くとも九時には寝ている辰三はすっかり眠気まなこで、この時間では満足な照明もないとうことで、魚種の確認は明日の朝一番でやることになった。加工予定の組み立てはその後になる。
 見上げた夜空には、押し合いへし合いして場所を奪い合っているかのように無数の星がひしめいていた。


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