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Locker's Style

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『橋の下の彼女』(31)

1999年7月15日(木)

フィリピン・アレン

 会社に着くなり、辰三はリーファーコンテナに駆け込んで、並んだバケツにひとつずつ手を突っ込み、魚種の確認を始めた。
 リンドンが買い付けてきた鮮魚は、おおむね、辰三の指示した通りのものだったが、試験的に買ってきたという魚もいくつか混じっていて、それらは、黄色に黒いまだら模様のある、手の平ほどのコハダに似たものや、鯛に似ているが、薄い青とオレンジのまだら模様のものなど、およそ日本人なら避けて通るような外見の魚ばかりだった。
 辰三がその中でも飛びぬけてグロテスクな灰色の魚を手に取って、リンドンに掲げて見せた。
「こんな魚は、間違っても関内さんとこにはだせねぇぞ」
「でも、フィリピンではよく食べられる魚なんですよ。日本的な加工法を応用して天ぷらやヒラキできるなら、将来、ブエナスエルテ社のオリジナル商品として国内販売できると思ったんです。日本人が避けるなら、〈ミツオカプロジェクト〉と競合せずに済みますから、なおさら都合が良いですよ」
 リンドンは冷静に説明した。
「ああ、なるほど、そりゃいい考えだ」感心したように頷くと、辰三は唐突に話題を変えた。「ところでよ、あの朝っぱらのマーチングバンド、ありゃなんだ?」
 今週に入ってから、まだ薄暗い早朝に、文字通り笛と太鼓で編成された鼓笛隊が、床や窓を振動させるほど力強い演奏をしながら、社宅の前の道を往復していた。その音で将人も眠りが浅くなることがあったが、顔の上を這っていくゴキブリも気にせず眠り続けられる今となっては、小ぶりの雨か、つむじ風の音くらいにしか感じない。
「小学校のマーチングバンドですよ。アレンのお祭りの出し物でメインストリートを行進するので、張り切って練習しているんです。一年に一回の、彼らの最高の晴れ舞台ですから」
 ライアンが言った。
「それにしたって、日の出前だぞ? あんなものすごい音で行進してんのに、町の連中がよく文句いわねぇな」
「お祭りのための練習だってわかってますからね。それに、苦情を言うどころか、バンドが通るのを、みんな表に出てながめてるくらいですよ」
「まったく暇なんだな」
 辰三が苦笑いした。
「この町には、仕事がなくて、ただ何もなく毎日を過ごしている人たちがたくさんいますからね。彼らにとっては、早朝だろうが深夜だろうが、面白い見せ物があれば、時間なんて関係なく飛んで見に行くんですよ」
 リンドンが言った。
 将人はふと、仕事がなく、昼過ぎまで眠り続けて夜眠れなくなり、明け方までプレステのゲームをしていたころの自分のことを言われているような気分になった。
「祭りは来週から始まります。父さんも、祭りにあわせてマカティから戻ってくると言っていました。祭りのあいだは、地元の比較的裕福な家に招かれて、食事をいただくんですよ。お祭りとはいっても、それぞれの家が、有力者の集まる社交場の役目をしますから、できるだけたくさんの家を訪問して、できるだけたくさんの人たちに会うんです。交友の広さは、ビジネスにおいてとても重要ですからね」
 ライアンが言った。
 つまり、祭りのあいだは、レックスに付き合ってその社交会めぐりをすることになるらしい。夜の外出はかなり難しくなるということか、と将人はため息をついた。
「そういや、俺たちがサンパブロに戻るのがいつなのか、レックスか関内さんから聞いてねぇか?」
「少なくとも父さんは何も言っていませんでした」
 ライアンはアルマンを呼んだ。毎日午後二時に、アルマンはサンパブロの関内に定時連絡を入れているが、今のところ、将人たちがサンパブロに戻る時期について関内はまったく言及していないという。
「タツミさん、そろそろ日本に帰りたいですか? ご家族が心配ですか?」
 ライアンが不安げに聞いた。
「その逆だから聞いたんだ。ブエナスエルテ社の加工場が順調に動き出した今となっては、一日一日がすごく大事だろ。そんなときに何の前ぶれもなく、いきなりサンパブロに呼び戻されたりしたくねぇんだ。こっちを去るまでに、俺がいなくなっても加工場が止まるようなことにならねぇよう、しっかり準備しておきてぇからな。何度もいうけど、今回、俺がフィリピンに来たのは、ブエナスエルテ社のためでよ、AMPミナモトのためじゃねぇんだ」そこで辰三は、誰かに聞かれたら困るとでも言うように、背中を丸めて小声になった。「それによ、あのつまらねぇ晩酌に何日もつき合わされるためでもねぇ」
「ありがとうございます」ライアンがにっこりと微笑んだ。「でも、たまにはご家族に電話してあげたらどうですか? みんな、タツミさんがいなくてさみしいでしょうから」
 辰三が大笑いした。
「ばかいっちゃいけねぇよ。出発まえはな、女房なんて『もう帰ってこなくていいから』って言いやがったし、息子どもなんて、俺がフィリピンに行くことになった、って話しても、ひとこと、『ふーん』って言っただけだったしな」
「心の中では、みんなタツミさんを心配してますよ」
 そんなことねぇよ、を繰り返した辰三だったが、リーファーコンテナから加工場へ向う途中で、将人に「たまにはミナモト水産に報告を入れねぇと悪いから、そのついでに、お前、家に電話かけてもいいぞ」と言ってきた。将人が「ではそうさせていただきます」と答えると、辰三も「そんじゃ、俺もかけてみるか」とにんまりと言った。

 届いたばかりの鮮度の良い魚は、身がしまっていてきれいに仕上がるからか、従業員たちは、楽しくてしょうがない、といった面持ちで出刃を動かしていた。選抜組の八人はボンレスのミルクフィッシュ、残りの加工係たちは、てんぷら用やフライ用の具材を作った。将人も負けじと、アルバートと一緒に、リーファーコンテナから大バケツの氷を運んでは、ハンマーで細かく砕く作業に精を出した。
 あっという間に十時の休憩になった。
 将人は四リットルのミネラルウォーターのボトルを抱え上げ、浴びるように飲みながら表の道路に歩み出た。道端に立ち、ティサイの家がある南の方角を見つめながら、今夜は彼女に会えるだろうか、会ったら何を話そうか、と考えた。そして、ティサイを幸せにするためには、クリス、ジョエル、ライアンのうち、誰の言うことを信じればいいかを考えた。
 ティサイの涙を胸元で受け止めてから、将人の中に、ある決心が芽生ていた――もし彼女が望むなら、日本に連れて行こう――彼女の過去を知る者のいない日本なら、本当に全てをやり直せるはずだ――。
「彼女のことを考えているんだろ?」
 はっと振り返ると、首からホイッスルを下げたリンドンが立っていた。
「君は心が読めるんだな」
 将人は、ミネラルウォーターのボトルをリンドンに差し出した。彼はそれを受け取ると、将人に負けず劣らずの勢いで豪快に飲んだ。
「心を読む必要なんてないさ。だって、アマリアを見つめるタツミさんにそっくりな顔をしてたからね」
「まいったな」
 将人は頭をかいた。
「ジョエルから言われたよ。今夜、君に付き添ってハルディンに行けとね」リンドンが苦笑いした。「正直、ああいう場所に行くのはためらわれるけど」
「来てくれるの?」
 リンドンがにこやかに頷いた。
「ショウみたいなハンサムが惚れる女ってのが、いったいどれほどの美人なのか、とても興味があるからね」
「きっと驚くよ」
 恋人でもないくせに、将人は誇るように言った。
 それは楽しみだ、と言ってから、リンドンは真顔になった。
「率直に言わせてもらうと、僕はね、その娼婦の言動が非常に疑わしいと思ってる。おまけに、あのずるがしこいクリスの知り合いだそうじゃないか。輪にかけて怪しいよ。だから僕は彼女に対して、意地の悪い質問をたくさん浴びせるつもりだ。人の本音を聞きだすためには怒らせるのが一番だからね。そこをあらかじめ承知しておいて欲しい」
「いろいろ気を使ってもらって、感謝してるよ」
 娼婦を怒らせるために浴びせる質問となれば、その内容は想像に難くない。できることなら、彼女を傷つけるようなことは言って欲しくないが、彼女の気持ちを確かめるため、また、二人の関係をもう一歩先へ進めるためには、それは必要なことなのだと将人は自分に言い聞かせた。

 四時に近くなると、強烈な日差しも和らぎ始め、流れ落ちる汗粒が少しだけ減る。
 将人が大バケツをかついでリーファーコンテナから出てくると、昼過ぎからずっと見張り小屋で昼寝していたジョエルが、計量所の前で、まだ寝たりないといった顔でライアン話していた。二人は将人に気付くと、小さく手招きしてきた。
 アルバートが将人のバケツを引き受けてくれた。
「ジョエルの寝顔って、まるでミルクフィッシュみたいだね」
 将人は言った。
「あまりおいしそうじゃないけどね」
 ライアンが笑う。
「だけど増えるのは早そうだ」
 三人は声を上げて笑った。
「ところで、ショウに言わなきゃならないことがある」
 言って、ジョエルが笑みを止めた。
「なに?」
「ティサイは昨日もハルディンにいたんだよ」
「ハルディンに行ったの?」
 何で僕を連れていかなんだよ、と将人は言いそうになった。
「ジョエルは行ってない。イボンを行かせたんだ、偵察にね」ライアンが代わりに答えた。「悪気はないんだ、君のためになると思ってさ」
 将人はかぶりを振った。完全に本人の頭越しだ。
「確かに、僕はこのまえの夕方、もうハルディンで働かないで欲しい、って彼女に千ペソを渡したよ。でもね、彼女と話せたのはほんの五分ほどだったんだ。大事な話をするには短すぎたし、僕が言いたかったことが通訳を通してうまく伝わらなかったのかもしれない。彼女にだっていろいろ事情はあるだろうし」言いながら、ライアンが毎晩のように彼女を監視するような真似をしていることに、将人は腹が立ってきた。「とにかく、今夜は英語の堪能なリンドンが通訳してくれるそうだから、彼女には僕の気持ちや考えを残らず伝えるつもりだ」
 ライアンが、腕組みをして大きく息を吐いた。
「君の気持ちや考えをしっかり伝えたあとも、彼女がハルディンにいたらどうするつもり?」
 ハルディンで働き続ける彼女の気持ちもわからないではなかった。仮に将人が彼女の立場なら、いきなり降って湧いたような外国人の甘い言葉など信じないだろう。
「もう会うのをやめるかもしれないし、わかってもらえるまで話し合うかもしれない。とにかく、僕は彼女に何かを強要するんじゃなくて、彼女自身がどうしたいかという気持ちを尊重したいんだ。仮に、僕に彼女の人生を変える手助けができたとしても、その見返りに彼女の愛を求めるなんてことはもちろん考えてない。その二つはまったく別の話なんだ」
「じゃあ、彼女が君のことを愛さなくても、彼女の生活を支えていくつもりなの? 恋人でもなく、家族でも親戚でもないティサイを?」
 ジョエルが鼻で笑いながら言った。
 もちろん、と言いかけて、将人は言葉に詰まった。ジョエルの言っていることがあまりに真っ当だったからだ。
 人生を変える手助けをすれば、ティサイは自分を愛してくれると当然のように思い込んでいたことに、将人は今更ながら気付いた。そうならない可能性だって十分にあるのだ。
「ねえショウ、何度も言うけど、彼女は娼婦なんだ。君が欲すれば、五百ペソでいつでも抱くことができる。週に千ペソ払って愛を求める必要なんてない」
 将人がジョエルに向って言い返そうとしたとき、ライアンが割って入った。
「いいかい、ティサイはこれから先何年もずっと、この町で体を売り続けるよ。ショウ、ちょっと考え方を変えてみてよ。外国で車が必要になったら、いちいち新車や中古車を買ったりしないで、レンタカーを借りるだろ。それと同じでいいじゃないか、フィリピンに来たときだけティサイをレンタルするんだ。君の財力があれば、君の滞在期間中、彼女をずっとそばに置いておくこともできる。わざわざ恋人にする必要なんてないんだ」
 将人は「そうかもしれない」と二人に言い残して、加工場へ向って歩き出した。レンタカーとは例え方にもほどがあるぞ、と思いながら――。


 五時になり、リンドンがカルバヨグにまで届きそうな勢いでホイッスルを吹き鳴らした。
 ライアンがやってきて、手書きの製品在庫の詳細を辰三とリンドンに見せる。書類上では、サンパブロに胸を張って出荷できるだけの十分な種類と量が揃っていた。実物を確かめようと、辰三が緑のリーファーコンテナに入った。将人もあとに続く。
 全長六メートルほどの庫内には、〈急速冷凍魚〉と漢字で書かれた、白く清潔な出荷用のダンボール箱が、入り口付近までうず高く積まれていた。
「ちょっと目を離した隙に、ぐっと増えやがったな」
 辰三がにやっとした。
「つい昨日まで鮮魚がなくなりそうで困っていたのに、今は製品の保管スペースが足りなくなりそうで困ってますよ」
 ライアンが微笑んだ。
 明日、サンパブロ行きのトラックを手配するということで話がまとまった。
 関内さんに電話しねぇとな、と辰三が不自然に何度も繰り返すのを聞いてようやく、将人は衛星電話で日本に電話するという話になっていたことを思い出した。
 さっそく、見張り小屋とリーファーコンテナのあいだの、まだ生暖かいコンクリートの上に衛星電話を広げて電源を入れた。今度は従業員たちに取り囲まれることもなかったので、のんびりコンパスを見ながらアンテナの角度を調整して衛星を探すと、数秒で簡単に捕えることができた。
 辰三はまずミナモト水産に電話した。電話を取った久保山のなつかしい声が受話器から漏れて聞こえた。続いて源社長に替わった。辰三は熱心にブエナスエルテ社の様子を伝えていたが、受話器から漏れてくる社長の声は、生返事のような、そうか、それはよかったな、の二つだけだった。
「俺は元気でやってるから大丈夫だ」
 最後まで聞かれなかった質問に自分からそう答えて、辰三は受話器を置いた。
 辰三は続いて自宅へ電話した。出たのは息子のようで、愛想のない声が漏れ聞こえた。妻に替わるまでの間、辰三は受話器を手でふさいで将人に苦々しい顔を向けた。
「俺がフィリピンの僻地で汗水流して働いてるってのによ、せがれときたら、『プレステやってるから忙しい』ときたもんだ」
 妻が電話に出ると、辰三の目じりがぐっと下がった。食べ物は大丈夫か、下痢はしてないか、酒は飲みすぎてないか、などと続けざまに質問を浴びせている。今度は自分の番だとばかりに、何を聞かれても無愛想に、おう、としか答えない辰三だったが、顔には満面の笑みが浮かんでいた。
 電話を終えると、辰三が受話器を将人に向けてぐっと差し出した。
「ほら、電話代は会社もちだからよ、好きなだけおかあちゃんと話していいぞ」
 だが、受話器のコードに引っ張られた勢いで、衛星電話はくるっと半回転し、衛星との接続が切断したことを告げる警告音が鳴り響いた。将人はアンテナの向きを直して衛星との再接続を試みたが、そうしているあいだに今度はバッテリーの充電不足の警告が画面に表示された。考えてみれば、フィリピンに来てからまだ一度も充電していなかったのだ。変圧器を使えばコンセントから電源を取れるが、この位置まで届く延長コードがなかった。
 結局、将人は自宅への電話をあきらめた。辰三は関内への製品出荷の連絡も衛星電話でするつもりだったが、それは明日のアルマンの定時連絡で伝えてもらうことになった。

 社宅での夕食にはジョエルも加わった。辰三を早く寝かせるための裏技をライアンから伝授されたのか、まるでビールを注ぐような勢いでジョニ黒を辰三のコップに注ぎ続けた。ただ、ジョエルがライアンと違うのは、一緒になってジョニ黒を飲んでしまうことだった。
 三十分もしないうちに、二人は、成田空港で買ったうちの、最後の貴重な一本を空にしてしまった。
 辰三が閉じかけた目を必死に開いて、もう寝る、と這うように二階に上がっていったときには、ジョエルもろれつがまわっておらず、目も焦点が合っていない有様だった。
 時間はまだ七時にもなっていなかった。
「さて、ほれじゃ、でかけうと、しようか」
 ジョエルは立ち上がったが、バランスを崩して床に這いつくばり、四つんばいでリビングのソファーまで移動した。
「本当に大丈夫なの?」
 いくら辰三を寝かせるためとはいえ、こんなに酔っ払った状態で、ジョエルは果たしてティサイの本音を見抜くことができるのか、と将人は心配になった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。僕をだれあとおもってるの? ふえるのがはやい、ジョエルフィッシュだぞ――」
 ソファーに倒れこむと、ジョエルはひとり腹を抱えて笑い出した。

 シャワーを浴び、まだ伸びきっていない髭をきれいに剃ったあと、将人は〈ランドマーク〉で買ったフィラのTシャツと、アディダスのハーフパンツに身を包んだ。香水の代わりになればと、アフターシェーブローションを服にふりかける。
 リビングに出ると、ライアンがブランドのポロシャツにハーフパンツという、アレンでは最高級のおしゃれの部類に入るいでたちで立っていた。今夜もバネッサに会いに行くという。ジョエルはシャワーも浴びず、仕事からそのままの格好でタバコをふかしていた。ソファーの端にぽつりと座って、物欲しげな顔をしているアルマンは今夜も、辰三が起きてきたときに備えて、社宅に待機する役目をライアンから与えられている。
 一同は、辰三を起こさぬよう、忍び足で社宅を出た。門の外には、パジェロがアイドリングして待っていた。裸電球がひとつだけともった小屋の中から、門番が訳知り顔で将人に手を振ってきた。

 ブエナスエルテ社に着くと、リンドンはちょうどシャワー室から出てきたところで、濡れた髪をタオルでごしごしと拭いていた。髪も顔も体も、ぜんぶ石鹸ひとつで済ませる将人と違って、彼は石鹸とシャンプーとリンスのボトルまで入ったかごを携えていた。
 リンドンが着替えるのを待っているとき、ジョエルはライアンに指摘されてようやく自分が魚臭いことに気付いたらしく、この場になって、シャワーを浴びると言い出した。
 どこからかイボンがやってきて、ライアンに現地語で何か言った。
「ティサイは今夜もハルディンにいるそうだよ」
 ライアンが口に苦いものでも含んでいるような顔で言った。
 彼がティサイを監視するような真似を始めてしまったのは、もとをただせば自分のせいなんだよな、と将人は反省しながらも、今夜は間違いなく彼女と会えるとわかって、顔がほころぶのを抑えられなかった。
 思いのほか長いジョエルのシャワーを待つあいだ、将人はリーファーコンテナに寄りかかって、目が痛くなりそうなほど明るい星空を眺めていた。小さな流れ星がいくつも、さっと線を描いては消えていく。
 ティサイとうまく行きますように、と願おうとしたが、光ってから消えるまでにとても言いきれないので、一つの流れ星につき、英語で一単語ずつ唱えることにした。
 三分もしないうちに、願いを言いきることができた。
 それほど、サマールの夜空に流れ星は多い。
 ライアンは会社に残った。将人、ジョエル、リンドンと、今夜の用心棒を務めるイボンが乗り込むと、クリスは意味もなくクラクションを一度鳴らしてから、パジェロを暗闇に向けて発進させた。
 ジョエルはリンドンから借りたTシャツとジーンズを履いていた。髪型を除けば服装も顔つきもそっくりだが、後部座席に並んで座るこの兄弟の性格は対照的だ。気さくでお人よしだが、しぐさや表情のどこかしこに下品さのあるのがジョエル。リンドンは誰に対しても一線を引いて事務的に接し、卑猥な冗談に笑いはしても、自ら口にすることはまずない。それでも、普段は見せない打ち解けた笑みを浮かべて話している二人を見ると、やっぱり兄弟なんだな、と将人は感じだ。
「なーんでティサイはまだ、ハルディンではたらいてーんだ?」
 ジョエルが身をよじって、荷物スペースに座っているイボンに怒鳴るように聞いた。
「わたしには、わからないです。だけど、ティサイは、ここなんにちか、きゃくをとってないと、もんばんが、いってました」
「ショウのかねはどーした? 千ペソはどーした?」
 答えを知るはずのないイボンを、酔っているジョエルはしつこくまくしたてた。
 イボンが首を振ると、ジョエルは矛先をクリスに向けた。
「おいクリス! おまえはティサイの友達なーんだろ? なんか知ってんじゃなーいか?」
「彼女とは先日の夕方、ショウと一緒に会ったきりです」
 クリスは前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「このジョエルさまにウソをつこうとはいい度胸だーな、クリスよ、ぼくは知ってんだぞー、おまえ、ティサイをつかってショウをそそのかして、あとでティサイと金をやまわけするつもりなーんだ」
 何を言い出すんだ、と将人が止めようとすると、クリスは車の速度を落としてジョエルに振り返った。
「ショウは私の友達です。そんなことするわけがない。そもそも、生活費を渡すかわりに彼女にハルディンをやめさせればいい、とショウに提案したのは、私じゃなくアルマンなんですから」
 その肝心な部分を聞かなかったのか忘れていたのか、ジョエルは、むう、と唸り声を上げて静かになった。
 こんな調子じゃジョエルがティサイにも何を言うかわかったもんじゃないぞ、と将人は心配になった。
 車はアジアンハイウェイとメインストリートの合流するT字路を右に曲がった。小さなハルディンの看板が見えてくる。
「難しい話合いになるかもしれない。一時間は必要だよね?」
 リンドンが聞いた。
「場合によってはもっと長くなるかも」
 できれば三時間は一緒にいたい、と思いながら、将人は答えた。
「だったら、ハルディンに入って話すより、ペナルティを払って連れ出して、タタイ・アナックに行こう。その方が安上がりだし。それに僕は、娼婦のたむろするような場所には、ショウのためでもやっぱり入りたくないんだ」
 ジョエルが抗議するようなうめき声を漏らしたが、リンドンの厳しい視線を受けて、萎れるようにおとなしくなった。
「場所はどこでもかまわないよ、しっかりした話ができるなら」
 ジョエルとイボンが、ハルディンからティサイを連れ出すことになった。二人は遊園地に連れてこられた子供のような笑みを浮かべて車を降りると、軽い足取りでハルディンの庭の中に消えていった。
 数分して、ジョエルとイボンが出てきた。驚いたことに、ティサイの他に、もう一人娼婦を連れている。それがノーラではなく、歌舞伎町で働いていたマイコだとわかると、クリスが安堵するようなため息を漏らした。
 ハルディンにいたことにまるで悪びれる様子もなく、ティサイはいつものように、輝くような笑みを浮かべてパジェロに駆け寄ってきた。彼女は助手席の窓に両手を突っ込んで、将人の頬を挟んで思い切り引き寄せた。肺の中の空気をすべて吸い出すようなキスを浴びせられた途端、それまで将人の頭の中に渦巻いていた、彼女に対する疑いの気持ちが嘘のように消え去った。
「あらあら、おふたりさん、いきなりみせつけてくれるじゃなーいか」
 追いついたジョエルが、とろんとした目でにやけながら言った。マイコの腰にまわした手で、尻を乱暴に撫でている。
 三人掛けの後部座席に、ティサイ、マイコ、ジョエル、リンドンの順で、四人が詰めて座った。助手席のうしろに座るティサイが、席越しに伸ばした両腕を将人の肩に絡ませてくる。その細い腕から伝わる温もりが何とも心地よかった。
 見れば、リンドンは呼吸困難になったかのように、額に枝分れした血管を浮き上がらせながら、一応は苦しげな笑みをを浮かべている。彼は唸るような声で、恐らくマイコまで連れ出したことについてジョエルを咎めているようだったが、ジョエルはろれつのまわらない口調で、まあいいじゃないか、と聞こえるようようなタガログ語を返しながら、マイコの髪をなで、ときおりその手を彼女のシャツの中に滑らせていた。
 歩くような速度で、パジェロはメインストリートを北へ進んだ。二百メートルほど進むと、真っ暗闇に白く浮かぶタタイ・アナックが見えてきた。

 タタイ・アナックで降りると、クリスはライアンをバネッサのところへ送り届けるために、ブエナスエルテ社に戻っていった。
 カラオケのある客席フロアには、客がひとりもいなかった。オープンテラスの方に、三組ほどがいるだけだ。タタイ・アナック号のデッキは、荒れ気味の海から押し寄せる高波で水びたしになっていた。
 ウェイトレスが出てくると、リンドンは有無を言わさぬ命令口調で、一番奥まった席に案内させた。がらんとしたフロアの中を、将人はティサイの手を取って進む。一番奥の席は、通路に沿って置かれた背の高い観葉植物がちょうど壁の役目をして、他の席からは死角になっていた。
「ハルディンの娼婦と一緒に飲んでいるところを見られたら、どんなうわさがたつかわかったもんじゃないからね」
 額に浮かんだ血管をさらに太くしながら、リンドンが観葉植物に顎をしゃくった。
「こんやはぼくのおごりだーから、好きなだけのーんで――」言いながら、ジョエルが笑いだした。「――というのはじょうだん。ライアンから金をあずかってきたーんだ。たぶん、セキウチさんがショウのためにおいていったかねが、まだあまってんだろーな」
 いったい関内からいくら渡されたのだろうかと、将人はつくづく疑問に思った。まるで、使っても使っても湧き出してくる魔法の金のように思える。
 長テーブルの通路側に、ジョエルとマイコが並んで座り、奥側に、将人とリンドンがティサイをあいだに挟んで座った。用心棒のイボンは、入り口近くのテーブルに一人で座っている。
 サンミゲルが五本、運ばれてきた。
 リンドンはビールに見向きもせず、会議でもしているかような堅苦しい口調の現地語で、ティサイと話し出した。
 ジョエルはしばらく、サンミゲルを飲みながらその様子を見守っていたが、やがて、見てられない、というようにかぶりを振ると、二人の会話に英語で割って入った。
「リンドン、自分がなんでここにきたのかなんて、ながながと説明してなーいでさ、さっさと、きくべきことをきけよ」ジョエルがティサイに向き直った。「ティサイ、きみはショウのこと、あいしているか?」
 単刀直入にもほどがある、と将人は叫びそうになった。
 ティサイはジョエルから将人に視線を移すと、唇の両端をきゅっと持ち上げて微笑んでから「もちろんよ」と頷いた。
「きいたかショウ? おめでとう!」
 ジョエルは将人に親指を立ててにこやかに頷いて見せると、サンミゲルのビンを取り上げて、隣に座るマイコと乾杯した。
 膨れっ面になったリンドンは、ジョエルに話の腰を折られた遅れを取り返そうといわんばかりに、せっつくようにティサイに質問を浴びせ始めた。始めのうちは、会話のあいまあいまに、自分がした質問の内容と、それに対するティサイの返答を事細かに将人に通訳していたが、質疑応答の速度が上がり、受け答えの口調も荒くなってくると、彼は通訳を完全に忘れて、感情をむき出しにして、ティサイと口喧嘩同然の言い争いを始めてしまった。
 現地語のわからない将人は、止めに入ろうにも止められず、ただ見つめていることしか出来なかった。
 その様子を大笑いしながら傍観していたジョエルが、テーブルに身を乗り出して、将人の耳元でささやくように言った。
「心配いらないって。リンドンはかなりきびしい質問をあびせてるけど、ティサイはごまかさずにしっかりとこたえてるよ。リンドンはきっと、ティサイがショウにうそをついていて、今夜はそれをとことん暴いてやーる、ってつもりで、ここにきたとおもうーんだ。だけど、かのじょはとっても正直にこたえてーるし、そのこたえに、うたがわしいところもなーい。だからリンドンはもう、負けをみとめるしかなーいんだけど、それができないから、言いがかりをつけるみたいになって、ティサイがおこってるーんだ。リンドンは子供のころから、すごいまけずぎらいでーさ」
「勝った負けたなんて話になる時点でおかしいじゃないか、まったくもう」
 将人はかぶりを振った。
「もうすこし、このままにしておこーよ。リンドンは、不器用で頑固者だけど、こんな言いあらそいをしながらーも、ティサイから、かなりいろいろとききだせているからさ」
 意図的にティサイを怒らせて本音を聞きだす、とリンドンは言っていた。先に冷静さを失ったのは彼の方だったが、結果的には成功したようだ。
 ティサイとリンドンの激しいやりとりは、それから一時間ほども続いた。そのあいだ、ティサイはテーブルの下で、将人の手をずっと握り締めていた。リンドンから厳しい言葉が浴びせられると、彼女は将人の手を握る力をぐっと強める。そんなとき、将人は、もう一方の手で、彼女の手の甲を優しく、なだめるように撫でた。そのたびに、ティサイは将人に振り返り、リンドンに向けていたきつい表情を緩め、目じりを下げて微笑んでくる。そんな彼女の気丈な笑みを浴びるたびに、将人の心臓は激しく脈を打った――口から飛び出して、テーブルの上を跳ねまわるのではないかと心配になるほどに。

 もはやその場で服を脱ぎだしそうなほどの勢いでマイコとスキンシップしていたジョエルは、九時を過ぎたころ、「わるいけど、あとはリンドンにまかせーるよ」と言い残し、彼女を連れてどこかに行ってしまった。
 ジョエルがいなくなると、リンドンはイボンを同じテーブルに呼んで――だが立たせたままで椅子には座らせなかった――荒々しい口調で次々に質問を浴びせた。アレンで生まれ育ち、ギャングのボスまで務めたイボンに、ティサイの返答の中に何かしら矛盾が感じられるかと問いただしているように見えた。リンドンが質問を浴びせるたびに、まるで嘘を言えばすぐさま牢屋に投げ込まれるとでもいうような緊迫した表情で、イボンはそのサルそっくりの顔を縦に横に大きく振って答えている。
 イボンへの尋問を終えると、リンドンはしばらく腕組みしてひとりで唸っていたが、そのうち開き直ったように表情を明るくすると、肩をすくめながら何度も頷いた。ティサイともにこやかに言葉を交わし、栓を抜いたまま何時間も放っておかれたサンミゲルを持ち上げて、ごくごくと飲み干した。
「僕が思うに――」リンドンは天井で回る扇風機を見つめながらようやく英語を話した。「――彼女は嘘をついていない。金を巻き上げようなんて考えてないし、君に対する気持ちも、本物と考えてよさそうだよ」
 将人は、机の下でつないでいるティサイの手をぐっと握りしめた。リンドンの執拗な尋問によく耐え抜いてくれた、と感謝しながら。
 少し間をおいてから、リンドンは続けた。
「聞きたくない箇所もあるだろうけど、これは君のために必要なことだから、彼女から聞いたことを彼女のいる前ですべて話すよ。それなりの覚悟を持って聞いてくれ」
 言って、リンドンはまるで議事録を読むかのように、この二時間ほどのあいだに交わされた、ティサイとのやりとりを語り始めた。

 彼女の生い立ちや現状に関しては、以前ノノイの通訳を通して聞いたものの補足程度だった――ルソン島南端の町、サンタ・マグダレナで生まれ育ったこと。アメリカ人の残飯だと見下されて育ったこと。八歳と三歳の子供がいること、夫とは合法的別居状態であること――。
 だが、ティサイの母親が米軍相手のホステスをしていたということ以外にも、初めて知ることがたくさんあった。
 ティサイの夫――名はアルフォンソという――は、マニラに本拠地を置くある有力マフィアの元メンバーで、かつては北サマールの町で彼の名前を知らない者はいないというほどの悪名をとどろかせていた。アレンのギャングのボスであるイボンですら、昔は彼を恐れていたという。
 ティサイがアルフォンソと出会ったのは、彼が麻薬取引のためにサンタ・マグダレナを訪れたときだった。ティサイが十六歳、アルフォンソが十八歳。二人の美男美女はお互いに一目惚れだった。二人は出会ってからそれほど間をおかず結婚し、一人目の子供ができた。カタルマンに、ニッパハウスでない、そこそこ広い家を買った。大組織のマフィアがうしろ盾になっているおかげで、危険な目に会うこともなく、ビジネスも結婚生活も順調だった。
 そんな暮らしが一変したのは、アルフォンソが北サマールでの麻薬取引を組織から一任されたすぐあとだった。アルフォンソが売るはずの薬物をくすねて自ら摂取するようになったのだ。彼から笑いとやさしさが消え、凶暴性がそれに取って代わり、ティサイや息子に容赦ない暴力を振るうようになった。麻薬をやらないときは酒を飲み、暴力を振るわないときは他の女を抱いていた。量は増え、強度は増し、奇怪な行動が目立つようになった。
 二人目の子供を妊娠していることがわかったとき、ティサイはもう現実から目を背けるわけにはいかなくなった――このままでは、子供たちが危ない――。
 彼女は、息子をサンタ・マグダレナの母親に託すことにした。
 ほどなくして、アルフォンソは重度の麻薬中毒に陥る。取引にも支障が出るほどになると、彼を諭すために、マフィアの幹部がマニラからサマールに出向いたのだが、話し合いの最中に麻薬の幻覚症状が始まり、その男に銃を突きつけるという大失態を犯してしまう。組織を追放されただけで殺されずに済んだのは、奇跡としか言いようがなかった。
 組織からの収入は途絶えた。後ろ盾を失った元マフィアとその家族に、カタルマンの人々は冷たかった。家を売り、町を離れ、アルフォンソの故郷であるアレンに引っ越した。だが仕事はなかった。二人目の子供――娘だった――が生まれてすぐ、ティサイは娼婦になることを決意した。麻薬中毒の後遺症で脳が萎縮してしまったおかげで、アルフォンソが人間と動物の境目を漂い始めたのもその頃だった。
 あるとき、夫が窃盗を犯して刑務所に収容された。それをきっかけに、彼女は離婚を決意、合法的別居申請をして受理された。
 出所してからもアレンに住み、廃人同然の暮らしをしているアルフォンソは、今でもときおり、彼女に金をせびりにくるという。
「同情することはないさ、低層階級にはありふれた話だよ。こんな話なら、フィリピンのどこにでも、小石のように転がってる」リンドンがぶっきらぼうに言った。「ただね、合法的別居とはいえ、前夫とは今でも週に何度か顔を合わせているというのが、僕は気になるんだ。ティサイにではなく、娘に会いに来るという名目らしいけど」
 確かに、週に何度も、という部分は気になる。
 リンドンが将人を見据えた。
「こんな話を聞いても、ティサイを支えていくという君の決心は変わらないのか? 君の渡した金が、そのジャンキー(麻薬中毒者)の薬代に消えるかもしれないんだよ」
 将人はすぐには答えられなかった。フィリピンのどこかしこには転がっているかもしれないが、日本ではテレビドラマの中でしか耳にしないような話で、正直なところ、内心ではかなりの衝撃を受けていたのだ。
 押し黙った将人の手を、ティサイが強く握った。顔をあげ、彼女に微笑み返そうとしたが、目を見ることはできなかった。
「彼女が人生を変えたいなら――」しかし将人は搾り出すように言った。「今の生活から脱出したいんなら、そして僕にその手助けができるなら、彼女を支えたいと思う」
 リンドンがかぶりを振った。
「君もとことんお人好しだね。まったく感心するよ。彼女のような連中は、いわばフィリピンのゴミなんだ。君は外国人だからわからないだろうけど――」
 将人がにらみつけると、リンドンは慌ててその先の言葉を飲み込んだ。
「大事なのは彼女の気持ちなんだ。君が彼女をどう思うかじゃなくてね」
 リンドンは肩をすくめた。
「もちろん、彼女は人生を変えたがっている。だけど誰だってそうだろ、現状に満足してる人間なんてこの世にどれだけいる? ただね、ひとつだけ彼女をほめるとすれば、自助努力でどうにかやり直せる段階をとっくの昔に越えてしまったということを、しっかりと自覚してるところかな」
 言って、リンドンはティサイとのやり取りの、残りの部分を語り始めた。

 ――あの夜、ハルディンに入ってきた将人を見たとき、ティサイは、夫に一目惚れしたのと同じ衝撃が全身に走るのを感じた。そのハンサムで背の高い外国人が、自分を指名したうえに、顔を赤くして照れながらお世辞を言ってくる。彼女は、これは悪い冗談か、さもなくばとてつもなくいい夢を見ているに違いないと思った。だからやたらと気分が良くなって、思わず飲みすぎてしまった。モーテルに入って、服も脱がないうちに寝てしまい、明け方に目を覚ますと、将人は消えていた。
 やっぱり夢なんだ、と思った。外国人だったから、二度と顔を合わせることもないと思った。ところが数日して、その日本人が、エメラルドグリーンのパンプスを持って再び彼女の前に現れた。その次の夜は、夜のビーチで語り合っただけで、心の底から楽しんでいるといった顔をした。またその次の日は、夕方に現れたかと思えば、君の人生を変えたい、と千ペソ渡してきた――。

「もちろん、彼女も君の事を信じたいと思っている。だけど、君もティサイも、まだお互いのことをよく知らない。君の彼女に対する気持ちは、娼婦である彼女のことをよく知れば知るほど、弱まるかもしれない。それに、君はあと数週間で日本に帰るわけだし、聞くところによると、次回のタツミさんの訪問でも、また通訳として帯同できるかはわからないんだろ? 彼女は、息子や娘のためにも、無一文になる危険は冒せない。だから、彼女は今でもハルディンで働いているんだってさ。あくまで、客の酒の相手をしているだけで、売春はやってないそうだけど」リンドンはサンミゲルを一口すすった。「さあ、これが彼女から聞いた話のすべてだ。公平に、正確に通訳したつもりだよ、個人的感情は抜きにしてね」
 なぜティサイが相変わらずハルディンに出ていたのか、その理由はこれではっきりした。彼女には、支えなければならない二人の子供がいる。子どもたちのために、離婚できないフィリピンで合法的別居を決意するほどの彼女だからこそ、降って湧いたように現れた日本人の、虚言かもしれない話を信じて、収入を途絶えさせるような危険を冒すわけにはいかないのだ。将人に対する誠意を保つために体を売ることは止めながら、ハルディンで客の飲み相手を務めて最低限の収入を確保しようとする彼女の自助努力は、むしろ褒められるべきものだろう。
「正直に言うよ。僕はね――」将人はティサイと目を合わせた。「君に必要としてもらいたいんだ。君にそう思ってもらえるなら、それが何よりの報酬なんだよ。日本では、僕はそれこそゴミみたいな人間なんだ。誰かの人生を変えられるような力があるのは、この町にいるあいだだけさ。だからどうか、魔法がとけるまえに、僕のことを信じてほしい。僕にかかった魔法は日本に帰ればとけてしまうけど、僕が君にかける魔法は、きっと解けることはないと思うんだ」
 リンドンが通訳すると、ティサイは、泣き顔と笑い顔の混ざったような表情を浮かべて何度も頷き、そして将人の胸に顔をうずめた。
「彼女には何度も言ったんだ、『君はショウとつりあうような人じゃないから、身を引いた方がいい』ってね。だけど、彼女は決して『うん』とは言わなかった。それをどう解釈するかは、君しだいになるけど」
 そんなことをティサイに言っていたのかと、将人は怒りを通り越して呆れた。私情を挟まない通訳とよく言えたものだ。
「それで、金の話はどうする? これからも、毎週千ペソ渡すのか?」
「そのつもりだよ」
 将人が答えると、リンドンは、将人の胸にもたれかかっているティサイに現地語で何か言った。また余計なことを言っていないかと心配になる。二人の間に、しばしやりとりが続いた。
「週に八百ペソあれば、家賃と食費、それに贅沢なものでなければ服も、十分にまかなえるだろって言ったら、しぶしぶ納得したよ。だから、これからは週に八百ペソ渡せばいい。ハルディンを辞めても十分に食っていける。もし次にハルディンにいるところを見たら、援助は打ち切りだって言っておいたから」
「おいおいリンドン、ティサイはブエナスエルテ社の社員でも、君の部下でもないんだぞ。何か提案するなら僕に断ってからにしてくれないか」
 将人が咎めると、リンドンは「そうはいっても君はわが社の大事なゲストだから」と苦笑いした。
 予想外の展開になったが、それでも、なかなか言えないこと、聞けないことを、今夜はリンドンが片っ端から代わりにやってくれたことに、将人は内心で感謝していた。

 タタイ・アナックの脇の路肩に止めたパジェロの中で、クリスが熟睡していた。将人が運転席をノックすると、彼は驚いて飛び上がり、天井にしこたま頭をぶつけた。
 寝ぼけたクリスのふらつく運転で、明かりひとつないメインストリートを進んだ。リンドンが助手席で、将人とティサイが後部座席に座っている。ティサイは、将人の太ももをまくらにして、ごろりと横になっていた。
「あ、そういえば――」ハルディンの看板が見えてきたとき、将人はふと思い出した。「今度の日曜日に、サン・ホセのビーチへ遊びに行くんだけど、もし都合がよければ、一緒にどうかな?」
 次の日曜は、ビーチコテージを借りて、あわよくば辰三とアマリアを結ばせようという計画になっている。
「なんじ?」
 ティサイが聞いた。リンドンにたずねると、八時ころには出発するんじゃないかな、と答えた。
「じゃあ、日曜の朝八時に、ブエナスエルテ社まで来てくれる?」
 将人はティサイの髪を撫でながら聞いた。
 彼女は会社の場所をはっきりとは知らなかったが、アジアンハイウェイ沿いの、白と緑の、二機の大きなコンテナが並んでいるところだと説明すると、それなら知ってる、と即答した。
「アジアンハイウェイを北へ進めば見落とすはずがないよ」
 リンドンが言った。
「オーオ」
 ティサイは将人の膝枕から顔を上げ、嬉しそうに頷いた。
 ハルディンの前でパジェロが止まった。ティサイが将人の太ももから顔を離す。頬が当っていた部分の汗がエアコンの冷気ですっと冷えた。
 彼女が顔を寄せてくると、将人は車内に他の人間がいることも忘れて、彼女の唇と、舌と、頬と額に繰り返しキスをした。


「日曜にティサイがうちの会社に来るところ、通行人に見られないといいけど」
 ティサイをハルディンで降ろし、パジェロが走り出すと、リンドンがひとり言のようにつぶやいた。
「誰も気にしませんよ」
 言って、クリスが露骨に舌打ちした。
 リンドンがとがめるような顔を運転席に向けたが、クリスは押し黙ったまま、正面の暗闇をじっと見据えて運転を続けていた。

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