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2013.08.26
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 こんにちは。根室振興局地域政策課のヒストリー・ハンター(仮)裕です。隔週ペースで根室管内の遺跡・遺産をご紹介します。

 

 古くから漁場として栄えた根室管内はいろいろな人達が暮らしてきました。その足跡は様々な場所で、いろんなかたちで残っています。古代から近代まで根室の歴史とともに、地域の話題を簡単にお伝えして行きたいと思います。
 わたしと一緒にちょっと昔に思いを馳せてみませんか?

 

 歴史探訪シリーズ第23回第24回と道東の世界文化遺産候補である標津湿原周辺の遺跡をご案内しました。
 道東では、道央・道南と異なり、樺太から海洋漁労民族であるオホーツク人が南下してきました。彼らは、その後、アリューシャン列島を北上し、オホーツク海沿岸一体に広がっていきます。
 では、その後はどうなったのでしょうか。

 

 

 続縄文時代の終わりから擦文時代まで確認されたオホーツク文化ですが、その後、彼らの生活の痕跡は確認されていません。
 戸川幸夫の小説「オホーツク老人」では、オホーツク人は元々住んでいた人達に追われた、と描写しています。
 しかし、本当にそうでしょうか?

 色々な遺跡を回ったり文献を読んで勉強していますが、争いで怪我をした方の遺骨が出土した、という報告を、私は寡聞にして存じません。また、仮に、オホーツク人と現地の方の仲が悪かったのなら、なぜオホーツク人は何百年もの間道東にとどまったのでしょうか。
 実は、現在ではオホーツク人と擦文人が共存していたと考えられています。


  その証拠は羅臼町の飛仁帯から出土しました(飛仁帯の情報は難読地名シリーズ第24回を御覧ください)。ここの出土物は、オホーツク文化と擦文文化の中間の特徴を持っています。
 この文化様式は、出土した土地の名前を借りてトビニタイ文化と呼ばれます。

 

 詳しく見てみましょう。
 古代文化の手がかりの多くは土器に残っています。
 例えば、縄文文化は縄目模様を使った土器「縄文土器」に代表されています。その文様は時代ごとに流行が変わったり、地域色があったりと、年代解析や土地ごとの勢力を解析する手がかりとなります。

 

 擦文土器は、その名の通り、土器表面を擦ったような文様が特徴です。
 しかし、年月とともに流行も変わり、擦文時代も終わり頃になると写真のような土器を使うようになります。

H25-01_擦文土器.jpg H25-01'擦文土器.JPG擦文土器(羅臼町立博物館収蔵)

 特徴として、1.ラッパ状に縁が広がる2.土器中部に文様を配置する3.文様は幾何学的なものを彫り込む、という点が挙げられます。


 一方、オホーツク土器は、

H25-02_オホーツク土器.jpg H25-02'_オホーツク土器.JPGオホーツク土器(羅臼町立博物館収蔵)

 1.縁の直前でくびれ2.縁に文様を配置し3.文様は波型のもの貼り付ける、という特徴を持っています。


 では、トビニタイ土器を見てみましょう。

H25-03_トビニタイ土器.jpg H25-03'_ビニタイ土器.JPGトビニタイ土器(羅臼町立博物館収蔵)

 トビニタイ土器の形は、擦文土器と同様に1.ラッパ状に広がり2.土器中部に文様が配置されています
 しかし一方で、オホーツク土器と同様に3.波型の文様を貼り付けています


 トビニタイ土器の存在は、オホーツク人と擦文人が互いの文化を尊重しつつ、交流を深めていった様子を想像させるのです。

 

 さらに、近年、出土した遺骨の遺伝子調査では、オホーツク人の血と擦文人の血が入った方の存在も明らかになっており、婚姻関係も結ばれていたと考えられています。



 オホーツク文化と擦文文化の出会いは、「異なる文化同士が出会う」というケースの一つです。
 この二つの文化は「共存」という選択肢をとったと考えられています。
「共存」にたどり着くまでに多くの苦労があったことでしょう。習慣が違ったでしょうし、言葉も通じなかったかもしれません。それでも、彼らは争いを避けるために共存の道を歩んだのだと、私は考えています。


 道東における遺跡は、とても珍しいモノですが、私は、遺跡の希少性より、共存を選んだ精神性が最も尊いモノだと感じています。
 これをご覧の皆さんも、共存の精神に触れに道東にいらしてみませんか?

 

参考文献:北海道の考古学(宇田川 洋 著)
参考文献:増補 アイヌ考古学(宇田川 洋 著)
参考文献:増補改訂 アイヌ伝承と(チャシ)(宇田川 洋 著)
参考文献:北方考古学の新地平(柳澤 清一 編)
参考文献:オホーツク老人(戸川 幸夫 著)

 


・羅臼町郷土資料館の情報はこちらから

根室地域の旬の情報をお届けするブログ「E北海道ねむろのくにブログ」はこちら↓
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最終更新日  2013.08.26 18:08:16


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