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2008年02月14日
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カテゴリ:文学
今日はいくぶん暖かかったですが(それでも最高気温8℃)、毎日寒い日が続きます。 でも 昔に比べれば、かなり暖かくなりました。 昔は大阪でもよく雪が降りました。

そういえば、小学生のころ、冬には学校に石炭ストーブがありましたね。 給食係、保健係、そして 冬にはストーブ係があって、朝 石炭をくべるんです。(これ けっこう難しい)

種火は用務員さん(いわば雑用係、昔は必ず用務員さんがいた) が点けてくれていて、少し石炭が入れてある。 その火を消さないように注意しながら、均等に入れないといけないんですね。

うまく均等に入れないと、燃焼ムラをおこして熱すぎたり、消えそうになって暖かくなかったりします。 それに 石炭粉がついたりして、黒くなることもあります。

また 各クラスに石炭を入れたバケツがあり、少なくなると取りに行くのもストーブ係の役目。  石炭ストーブ 懐かしいですね。

一時期は脚光をあびた石炭産業。 もうかなり前に石油に取って代わられ、斜陽産業となってほとんどが廃鉱となり、日本の炭鉱も今は釧路炭田を残すのみ。


ということで、本日は石炭がらみのお題 「筑紫女王

尚、昨日のお題は 「二夜連続 迷惑書き込み リスト
  ご覧になってない方はこちらもどうぞ上向き矢印


 あけぼのの茜のなかの白波よ筑紫の海よ若き日のいろ 
  わかき日のわが思い出のふる里よ夢もなみだもいまは恋しき

                           <柳原 白蓮>

白波よ筑紫の海よ・・・ と詠った歌人 柳原あき子(白蓮) 筑紫は白蓮の若き日の思い出の詰まった、いつまでも懐かしいところだった。


柳原 白蓮(やなぎはら びゃくれん): 明治18年(1885年)10月15日 ~ 昭和42年(1967年)2月22日  歌人。 本名はあき子(火へんに華 ですが、楽天ではシステムの関係上表示できません) 大正三美人の一人

父は柳原前光(やなぎはら さきみつ)で伯爵、母は前光の妾のひとりで没落士族の娘で柳橋の芸妓となっていた 奥津りょう(通名おりょう) 東京生れ

大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)の姪で、大正天皇の従妹にあたる。


明治45年、筑豊の御三家の一人で、炭坑王とうたわれた伊藤伝右衛門と再婚した白蓮。

日本のノラ・柳原白蓮・・・ それは大正時代を生きる人々にとっては、情熱とロマンどきどきハートの象徴でした。

華族に生まれ、大正天皇の従妹でありながら九州の石炭王に買われた(表現にちょっと難はありますが)薄幸の美しい歌人。 7歳年下の男のもとに走った情熱的ダブルハートな歌人でもあります。

その赤ハートは一つの事件として扱われた。 大正10年10月22日、大阪朝日新聞夕刊で報じられたのは、妻から夫への絶縁状であった。


●『筑紫女王』伊藤あき子 伝右衛門氏に絶縁状を送り東京駅から突然姿をくらます 愛人宮崎法学士と新生活?(当時の新聞記事)


妻の名は伊藤あき子、“筑紫女王”と うたわれた歌人 柳原白蓮である。 夫伊藤伝右衛門は、筑豊にその名をとどろかせた炭鉱王であった。

私は今あなたの妻として最後の手紙を差上げます・・・ 以下略(伊藤あき子の手紙文) かくて伝右衛門は、報道を通じて妻からの絶縁状を受け取ったのである。

その時、36歳のあき子は すでに宮崎龍介の子を宿していた。 龍介はまだ東京大学の学生であった。(宮崎龍介については後述)

まず その前に・・・ 大正天皇の従兄妹(いとこ)に当たるあき子が、25歳年上の伝右衛門に嫁ぐには、様々な経緯があった。

あき子は16歳で許婚(いいなずけ)と結婚するものの、夫との不仲失恋から1子を残して家を出る。

離婚後 あき子は女学校に入学し3年間寮生活を送るが、卒業後まもなく伝右衛門との縁談があり、再婚に踏み切った。

当時、伝右衛門も先妻を亡くしていた。

巨万の富を得たとはいえ、鉱山労働者から一代でのし上がった伝右衛門と、零落したとはいえ、旧公卿出身のあき子との結婚には最初から埋められない溝があった。

東京から筑豊に嫁いだあき子を待っていたのは、それまでとは全く違った暮し、言葉、習慣、そして伊藤家の複雑な人間関係であった。

飯塚の伊藤邸には伝右衛門の義妹(父の愛人の子)や伝右衛門自身の愛人やその子、さらに伝右衛門と男女関係のあるお手伝いさんなどが一つ屋根の下に暮していた。(昔はよくこういうことがあった)

出入りする炭鉱の男たちは荒々しかった。 あき子はたった1人で異国に放り出されたような心細さを感じただろう。 吐息のような湯煙に包まれるこの街で、白蓮は龍介と出会った。(出会いは後述)

伝右衛門と白蓮が過ごした飯塚市幸袋本町に飯塚の本邸は現存し、2007年の春から一般公開されている。 近くを遠賀川が流れ、古色が漂う静かな住宅街の一角に邸宅はある。

土塀が巡る邸宅は、敷地面積約5000平方メートル、建物の延べ面積約920平方メートル。 明治期の邸宅の外観は純和風であるが、内部は洋風の華麗な造りという。

玄関口に立派な長屋門がある。 昭和2年、白蓮のために福岡市天神に造った別邸が焼亡し、焼け残った長屋門を当地に移築したもの。

広大な庭に面した1階の広間は、伝右衛門とあき子が披露宴を挙げた間である。

3日3晩続いたという宴の最中、伝右衛門は度々あき子に、「立って皆に着物の裾の模様を見せてやれ」と命じたという。

若く美しい妻をいとおしく、また自慢に思う夫のはしゃぎ様が目に浮かぶが、あき子は屈辱としか受け止めることができなかった。 夫婦の溝はすでにその時から始まっていたのだった。

2階奥のあき子の部屋は、贅を尽くした本邸の中でも最も美しい部屋であった。 襖には四季の自然が愛らしく描かれ、四つの取っ手にはすべて違う装飾が施されている。

部屋を入るとすぐ上に結界壁と称される丈1メートル程の壁が天井から下ろされていて、あき子の了解を得ないものはそこから先へは入れなかったという。


 朝化粧五月となれば京紅の
       き光もなつかしきかな



女学校時代に佐々木信綱の指導を受け、歌を作り始めたあき子はこの部屋でたくさんの歌を詠み、歌集を編んだ。 歌の多くは、周囲が案じるような激しいを綴ったものだった。

むろん架空のに過ぎなかったが、やがて歌があき子の運命そのものを導いていった。

結界壁に象徴されるように、あき子は自ら結界を作り、殻に閉じこもって孤独に陥っていった。 この広い屋敷の中で、歌の世界のみが彼女の安住の場所だったかもしれない。

100年前のままであるという窓ガラスの向こうに庭が広がる。 当時はここから遠賀川も見えたという。 あき子が幾たびも飛び込もうとした遠賀川である。

あき子が日々眺めた景色は、歪んだガラス越しにゆらゆらとひずんで見えた。 それは涙に潤む涙ぽろり景色のようでもある。

前代未聞の公開絶縁状を叩きつけられ、恥をかかされた伝右衛門ではあったが、周囲の者に、「今後あき子のことは一切言うな」 と命じたという。 一度は自分が惚れた女なのだからと。

一方、龍介と一緒になるため、そして彼の子を産むため、世間を敵に回すことも恐れず出奔したあき子だったが、その後実家に監禁され、龍介と会うことさえ叶わなくなっていた。

関東大震災のどさくさの中で、ようやく龍介と再会し、共にくらすことができたのは、長男香織が生まれて1年後のことである。 龍介が結核で臥していた間は、夫に代わってあき子が執筆活動などで家族を養った。

また 弁護士の仕事の他に夫が力を注いでいた労働運動も陰で支え続けた。 着飾って御殿の中で座ってくらしたあき子は、自らの意思で行動し、働く女性となっていった。

3度目の結婚にしてようやく幸せを手に入れたかに見えたあき子を、さらなる苦難が襲ったのは終戦の4日前のことだった。

学徒出陣中の長男香織が戦死したのである。 かつて絶望の淵にあったあき子に生きる希望の種となって宿った香織であった。

一報を受けたあき子の髪は一日で白くなったと言われている。 しかし悲しみから立ち上がったあき子は、「悲母の会」を立ち上げ、平和運動に奔走した。


 和田津海(わだつみ)の沖に火もゆる
        火の国に我あり誰そや思はれ人は



別府市青山町に伊藤家の別邸跡がある。 分譲され住宅地となった一角に、白蓮の歌碑が立つ。 龍介と出会いあき子が運命を大きく変えた場所である。

敷地5000坪の広大な屋敷は、赤銅の瓦葺きであったことから「赤銅(あかがね)御殿」と呼ばれた。 飯塚の本邸での生活に疲れたあき子はこの別邸を好んだ。

吉井勇、高浜虚子、菊池寛、九条武子といった人々がここに集い、語らい、別邸は文化サロンとなった。

当時 あき子が書き、評判となっていた戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を単行本化する依頼に、編集者の代理で遣わされたのが龍介だった。

歌碑の立つ山茶花(さざんか)の垣根を巡らした小さな公園には、当時をしのぶよすがは何もない。

晩年は緑内障で両眼失明したあき子だったが、龍介に支えられながら歌を詠み続けた。 そして自宅で龍介にみとられながら81歳でこの世に別れを告げ、最愛の息子の元に旅立った。


尚、炭鉱町・筑豊を扱ったものに、過去ログ「川筋かたぎ」があります。
お時間があれば、こちらもどうぞ。
また 「働けど働けど」も よろぴく~



●別ブログ2/07の新着は「美術鑑賞とグルメ三昧」 こちらも見てねウィンク

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最終更新日  2008年02月14日 23時36分52秒
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