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madamkaseのトルコ行進曲

madamkaseのトルコ行進曲

Yaprak dokumu(落葉) その5


第59話

 玄関に立ち尽くす家族の張り詰めた空気を小さなアイシェが破った。「お姉ちゃ~ん!」とネジュラに飛びついたのを機に、人々はわれに返った。フィクレットが「お帰りネジュラ」と呼びかけると、ネジュラもほっとして「ただいま」と答えた。だが、レイラとシェヴケットは冷たくきびすを返して行ってしまった。レイラは1人テーブルについてまるでやけ食いするかのように食べ物を突き刺したフォークを口に運んでいる。シェヴケットはそそくさと朝食も取らず出勤してしまった。
 アイシェは学校を休みたいと言い出したが、「ネジュラはこれから毎日うちにいるんだから学校を休むことはない」と両親に説得され、スクールバスも迎えに来たので出て行った。

「ネジュラの鞄、2階に上げとくわ」とフィクレットが言うとレイラはじろりと姉を睨んで、「どこで寝るのよ」と言った。以前ネジュラはレイラと同じ部屋で寝ていたのである。だが、レイラの脳裏には、オウスとの結婚生活に破れ、実家で息を潜めるように暮らしていたレイラの前に、勝ち誇ったネジュラが2階から手荷物とピンク色のコートを手にして下りてきたときの姿がまざまざと浮かんでいたのである。
以下回想場面――「どこに行くの、ネジュラ! オウスと逃げる気ね!」
――「邪魔しないでっ。わかったでしょ、レイラ! オウスはやっぱり私を選んだのよ、あんたじゃなくてこの私を選んだのよ。こんなコート、あんたこそお似合いだわ、これでも着てなさいよ!」とピンクのコートを投げつけるネジュラ。それを払いのけたレイラは烈火のごとくいかった。
――「やったわねーっ!」と仲睦まじかった姉妹の間に取っ組み合いの喧嘩が起こった。

 レイラは自分をこれほどまでに踏みつけにしたネジュラをやっぱり普通に迎えることは出来なかった。その憎しみのこもったまなざしに驚いてアリ・ルーザが思わず声をかけた。
「レイラ、クズム(私の娘よ)」
「なにも言わないで!」と父にも厳しい声で答えるレイラ。
フィクレットはそのときのすさまじい喧嘩を見ていただけに、レイラの気持ちはわかっている。
「私があなたの部屋で寝るわ。アイシェの隣を空ければいいでしょ?」とレイラに言って荷物を2階に運んだ。
「ああ、フィクレット、あなたがいなくなってからタンスの中味を動かしたので何がどこにあるか分からないかもしれないわ。私が手伝うからいいわ」と母のハイリエが2階についてきた。フィクレットが階下に下りてしまうと、母はネジュラの荷物を見てポツリと言った。
「荷物はこれだけ? そうね、出て行くときも鞄一つで出て行ったんだから当たり前ね。ああ、ネジュラ、お前は悲しみでお母さんを殺したも同然よ。どんなに辛かったか、会いたかったか・・・」
 ネジュラも母に与えた悲しみに自分も傷が疼くような思いで、深い後悔に泣きながら母親の胸に抱きついていった。

 サロンではフィクレットが下りてくるのと入れ替わりに父アリ・ルーザが2階に上がろうとしていた。フィクレットはレイラの肩を抱きしめてやった。父親が2階に行ってしまうとレイラは声を上げてフィクレットの胸に泣き伏した。
「レイラ、あなたも辛いだろうけど、ネジュラは傷ついた小鳥よ。許してやってちょうだい、ね?」
 アリ・ルーザは母と抱き合って泣いているネジュラのそばに来た。
「お父さん・・・」
「うむ、お前の声を聞けて嬉しかったよ。今度のことではみんながみんな重い荷を背負ってそれをこらえながら生きているんだ。お前も自分の道をもう一度取り戻してしっかり歩きなさい。大学をやめたりしないだろう?」と父。ネジュラは父の肩に顔を埋めて泣いた。
「さ、ネジュラ。お母さん達は下に行くから、ゆっくりお休み。もしシャワーを先に浴びるならタオルは昔と同じ引き出しにあるわよ」
 両親が下に下り、1人になるとネジュラは窓から庭を見下ろした。懐かしいわが家。涙をこぼしながらもネジュラの頬には安堵の笑みが浮かんだ。

 下りてきたハイリエがチャイをほしいと言ったので、フィクレットが台所に立った。レイラが甲高くとげとげしい声で言った。
「フィクレット姉さん、フェルフンデ姉さん、なにも私に気を使ったふりをしなくたっていいのよ。ネジュラと話したいんでしょ! 遠慮なく2階に行ってやれば!」
 首をすくめてフェルフンデがフィクレットを見る。フェルフンデは2階に上がっていった。
「ネジュラ、お帰り」とフェルフンデはごく普通に言ったが、ネジュラの反応は違っていた。
「ええ、帰ってきたわよ。でも何もかもあんたのせいで始まったのよ。あんたさえいろいろ画策しなければこんなことにはならなかったわ。自分がなにをしたかわかってるの?」
「まああ、よく言うわよ。この鳥は恐ろしく向こうっ気の強い鳥になったものね」とフェルフンデは驚いた。ネジュラはいまや、傷ついてぶるぶる震える小鳥ではなかったのだ。呆れて出て行こうとするフェルフンデにネジュラはなおも言った。
「私だってこのうちに帰って、本当はレイラをどんなに恋しかったか、抱きしめてもみくちゃにしてうんとキスしてやれたらと思っていたのがわかったわ。オウスのヤツを訴えてやりたい気持ちよ」

 下ではアリ・ルーザの書斎でひとりこもっているレイラのそばにアリ・ルーザがやってきた。レイラは父に甘えてすがりつく。ネジュラの話題を避けながら父と娘は話をしていた。そこへ母もフィクレットもフェルフンデもぞろぞろと入ってきた。みんなが自分の周りに来たとなるとレイラは途端に元気になった。
「フェルフンデ姉さん、ヤマン氏の会社に連れて行って! ほら、私に仕事を世話してくれると行ったじゃないの」
「ああ、そうね。今日すぐに行ってみる?」とフェルフンデも膝を乗り出した。みんなにやんやとはやされてレイラはすっかり気を良くしニコニコしながら立ち上がった。彼女が着替えのために2階に上がっていくと、シャワーを浴びたネジュラが風呂場から頭にタオルを巻きバスローブ姿で出てくるのと出くわした。一瞬気まずい空気が流れたが、無視して部屋に入ろうとしたレイラに、ネジュラが声をかけた。
「レイラ、ありがとう。あなたって強いわ。私だったらこんな決断できなかったわ」
 むすっとしたまま部屋に入ったレイラだったが、急に声を上げて泣きだした。それは妹のほうから声をかけてきたのに頑なに拒んでいる自分や、一方ではやっぱり許せないでいる自分を発見したことに対する、もつれた糸のようなどうしようもない思いからだった。その声は隣の部屋にいるネジュラにも聞こえる。1人の男を挟んで敵味方になってしまった姉妹の切ない再会の朝だった。
 
 ジャン弁護士からレイラに電話が来た。
「どうした、泣いているのかね」
「ネジュラが帰ってきたの。それでちょっと・・・」
「大丈夫か、どこかで会おうか?」
「いえ、これからヤマン氏のところへ行くんです。就職の話で面接に・・・」
「そうか、それだったら向こうで会おう。私も用事があるので行くからね」
 
 その頃アダパザールでは近所に住む幼馴染のヌルニサを訪ねたフィクレットの姑ジェヴリエが、フィクレットの悪口を言い続けている。ヌルニサはいつぞやフィクレットの身元調査にジェヴリエがイスタンブールへ送って、アリ・ルーザ一家の洗いざらいを調べさせたあの人物である。
そこへお茶をいれてきたのはヌルニサの姉の孫レイハンだった。美人で笑顔の可愛いレイハンは国立病院の看護士として働いているという。ジェヴリエは一目でレイハンを気に入り、ヌルニサに持ちかける。
「あの子、タフシンの嫁に来て貰えないだろうか、ヌルニサ、本気で言ってるんだよ、わたしゃ」
「いやあ、タフシンはいい子だけどちゃんとフィクレットと結婚してるじゃないの。私は他人の家庭を壊すようなことに加勢したくないよ。ましてレイハンにそんな役目なんかさせたくないわ」
「そんなことをいわないで、離婚させるのなんか簡単だよ。私に任せてさ、ね。あんたと私は長い友達じゃないか。ついに親戚になるときが来たんだよ、ほら!」

 フェルフンデはレイラを伴って小雨の降る家を出た。出てゆく2人をネジュラが2階から隠れるようにして見ている。レイラは見送る父母とフィクレットに手を振り、ちらと2階も見上げたがその視線は氷のように冷たかった。フィクレットは「私もそろそろ家に帰ろうかしら。電話してみるわ」と言いながらアダパザールに電話するが、姑は留守なのか応答はなかった。
 
 ネジュラが2階から降りてきた。フィクレットが軽い食事の用意をする。ネジュラはサロンにかけられた家族写真の額の数々を懐かしく見回しながら、「この額から飛び出したので、私に大きな罰が当たったんだわ」とつぶやいた。
「お父さん、私少し働きたいのよね」と言い出したネジュラにアリ・ルーザは答えた。
「大学は辞めないだろうな。それにバーなどはだめだぞ。わかった、考えておく。私に任せなさい」

 ヤマンの社長室。
「レイラ、君は幸運な女性だ。ちょうど私の秘書が出産でしばらく休みなのでその間は秘書で働いてもらおう。彼女が戻ったら、君には別なポジションを考えるよ、レイラ」
「ヤマン・ベイ。先日はシェヴケットが助けてもらい、今日はまたレイラに仕事を与えてくださって本当にありがとうございます。なにもかもあなたのおかげで助かります」とフェルフンデは感謝する。
 そこにジャンもやってきた。レイラはすぐ翌日から任務に就くことになった。

 刑務所の大部屋では、オウスがボスのタラットに文句をつけていた。
「何で頼みもしないことをするんだ。どんなつもりなんだ、ええ?」
「俺はお前のために、好意でしたつもりなんだぜ」とタラットは憮然としていった。
「余計なお世話だ。俺の周りのものに決して近づくなっ、いいかっ!」
 タラットは手下の者達と顔を見合わせた。

アリ・ルーザ家では夕食の支度が整っていた。戻ってきたレイラはテーブルに並んだメニューを見てむっとし、声を荒らげた。
「何よ、これ。ネジュラの好きなものばかりじゃないの!」と母に文句を言った。
「まあまあ」とフェルフンデがその場をとりなし「ねええ、今日はレイラの就職が決まったの。さあ、レイラ、みんなに説明しなさいよ」と言った。一座の主役になっていればご機嫌のレイラ、その晩の夕食は賑やかに進んでいった。2階の広い廊下の隅に置かれたソファで、ネジュラだけは1人で母と長姉の心づくしの料理をもくもくと食べている。下から響いてくる団欒の笑い声はネジュラの疎外感をあおった。

 隣人ネイイル親子の家に珍しい客があった。カーヴェの亭主アフメットである。ネジュラが帰ってきたことを伝えに来たのだった。セデフがネイイルの目配せを無視してアフメットを茶の間に招じ入れた。
「アフメットさん、お夕食まだなら、いかがですか」とセデフがなおも母親をからかうように勧めたので、ネイイルはいやいやながら煮込み料理を盛り付けた。長らく独身を通し、ネイイルにちょっと気のあるアフメットにすれば大感激である。
「ああ、何十年ぶりでしょう、こんなに美味しい手料理を食べたのは。幸せこの上もありません。エルレリニゼ・サールック(あなたのお手に健康を=ご馳走様)」
ネイイルは彼の人のいいのは知ってはいるが、おしゃべりで口が軽いから不満なのである。

アダパザールではジェヴリエが張り切っていた。なぜかるんるんで、明日の晩はヌルニサとその姉の孫娘、レイハンを夕食に招待したからね、とデニズにうきうきと話している。一方タフシンはフィクレットがどう考えているのか、ネイイルに聞いてくれるよう電話した。ダイニングにはアフメットがいるのでネイイルは寝室に引っ込んでタフシンに言う。
「だめよ、自分で聞きなさい。私は最初からお互いタマム(OK)と言って結婚した以上、それから先は干渉しないって、宣言したはずよ。どうして電話して聞かないの」
「いや、ネイイル。俺からは絶対電話しないつもりなんだ」
「じゃあ、どうなろうと私はしらないわ。いま来客中なんで切るわよ」
 ネイイルのほうから電話はぷつりときれた。タフシンは布団の上に携帯を投げ出して口惜しがった。思い切ってアリ・ルーザ家に電話をしようと携帯を取り上げたが、やっぱり意地もあって掛けることが出来ず、また電話を放り出して頭を抱え込んでしまった。酔って口にしたこととはいえ、フィクレットに自分からは電話しない、と宣言したためにがんじがらめになっているのだった。

 シェヴケットも頑固ものという点ではタフシンに負けてはいなかった。フェルフンデの口利きでヤマンから多額の援助があって助かったということは、身を切られるような恥なのだった。
「いいか、フェルフンデ。俺の妻ならもう余計なことを一切するな」
「夫婦だからこそでしょう。ヤマン・べイのほかに誰があんな大金を出してくれるというの。そうだわ、シェヴケット、ヤマン・ベイがまたあなたをクラブに招待したいって」
 シェヴケットの胸に、賭けトランプで大勝ちしたときのことが思い浮かんだ。
「また行けば? 勝ったら借金も返してゆかれるじゃないの」
 たしかにそうだが、勝つ人がいれば負ける人がいるのが勝負の常。自分が負けたときのことを先に考えられないから賭けは危険なのである。

 ハイリエがネジュラにヨーグルトを食べさせようとしている。そこへアリ・ルーザが顔を出し、ネジュラを明日出版社に紹介して何か仕事があるかどうか、聞いて見るよと言っている。たまたまそれを聞いてしまったレイラは嫉妬心でキリキリしていた。
「お父さんたら、私には働くな働くな、まだ無理だといつも反対していたのに、どうしてネジュラには自分で探してやるの、ひどいわ・・・」と父に食って掛かった。
 その晩みんながそれぞれの部屋に引き取り、アリ・ルーザもハイリエもやっと床に就いた。
「なんて嬉しいんでしょう、ねえ、アリ・ルーザ。久々に子供達全員がこのうちにいるわ」
「うん、お前。だけどこれからだよ、これからもっともっといろんなことが始まるよ・・・」
 幸せそうなハイリエにうなずきながらも、アリ・ルーザはやがて再び襲ってくるかもしれないフルトゥナ(暴風雨)の発生を予感していた。

 刑務所では寝付かれないオウスが虚空を見つめている。タラットも歩き回っている。大部屋で起きているのは2人だけだ。時おり、タラットは何か言いたげな目をオウスに向ける。見られているのを知ってか知らずか、オウスは彼に目を向けようとはしなかった。
 アダパザールのタフシンもベッドに腰掛けてぼんやりしていた。フィクレットのことで頭がいっぱいだ。母のジェヴリエが「おーおー、息子や~。あんな女、来なけりゃ来なくてもいいじゃないか、おっかさんがお前にもっといい嫁を見つけてやるよ、ジャヌム・ベニム(私の命、私のもの=大事な相手に言う慣用句)」とタフシンを抱きしめる。うんざりしてタフシンは深いため息をついた。

 次の朝。ヤマン氏の秘書として初出勤のレイラが華やかに化粧して2階から降りてきた。みんなが思わず目を見張るほど綺麗であるがちょっとけばけばしくも見えた。
「レイラ、もう少し化粧を地味にしろよ」とシェヴケットが言った。
「え、これじゃ駄目? 分かった、もう少し化粧落としてくる」レイラは素直だった。
 やがてすっきりとしたレイラは兄と共に家を出た。一足遅れてネジュラが家を出たところでセデフと出会う。カーヴェの主人アフメットも通りかかった。ネジュラは渋い顔で歩を早めた。

 ヤマンの会社の受付。早速仕事を始めたレイラは次々にかかってくる電話を上手に捌いていた。そこに見事な花束が届いた。贈り主はジャンだった。まもなく当のジャンもやってきて、レイラの仕事始めは忙しい中にも希望に満ちて幕が開いたのだった。
 大学への道で親友イペッキと再会したネジュラは、父が自分を探しぬいてとうとう大学まで来てイペッキに娘の安否を確かめたことを聞く。心の中にじんと温かい父の愛が広がり、ネジュラは決して道を踏み違えまいとより強く自分の胸に誓うのだった。

 アダパザール。ジェヴリエとヌルニサがスープを作っている。ジェヴリエが電話をかけに行く。タフシンに「ジャヌム・オウルーム(私の命、私の息子よ)、お前帰りに国立病院によって、ヌルニサ叔母さんの姪っ子で、看護士のレイハンを乗せてきてくれないか。今晩お客に来るんだよ」
「お袋、相手は大人だろう。一人で来るよ、タクシーでものの5分だ」
「いいからさ~、頼むよう。お前に悪いようにはしないから~」にんまりと笑ってジェヴリエは電話を置いた。そこへ子供達が帰ってきた。デニズは「電話は誰、フィクレット姉さんじゃないの?」とがっかりする。子供達が心待ちにしているフィクレットはその頃オトガルについたところだった。

 家ではハイリエとフェルフンデが、機嫌の悪いシェヴケットを説得している。ネジュラにもっと優しくしてやるようにと。初仕事を終わって帰るレイラをジャン弁護士が車で送り、どこかで食事をと誘うがレイラは断った。
 アリ・ルーザ家の広い食堂兼サロン。フェルフンデが「あーあ、お母さん。またネジュラの好きなものばかり作って、レイラが怒ったらどうするの?」とからかい半分に言いながら食卓に皿を並べている。
 アダパザールの家では暗くなった頃フィクレットが家に戻ってきたので子供達が大喜びでジェヴリエを憮然とさせていた。
 アリ・ルーザはその日ネジュラの大学の授業が済んだあと、付き添って行ってやり出版社にバイトがあるかどうかを尋ね、幸いに雑誌の編集補助の仕事につけることになった。親子で嬉しい気分で喋りながら家の前の坂道を登ってくると、黒い大きな四駆の車が追い抜いていった。
それはジャン氏に送られたレイラだった。レイラは車内から父とネジュラが腕を組んで坂道を登っているのを見てショックを受ける。家の前に着くや否や礼もそこそこに車から飛び降り、思わず父の腕から離れたネジュラを尻目に、アリ・ルーザの腕に自分が手を通し、家の門をくぐったのだった。

しばらくぶりにアダパザールの家に戻ったフィクレットは、子供達の大歓迎を受け、幸せな気分で寝室に入った。するとベッドの上にタフシンのパジャマが畳んでおいてあった。思わずいとしい気持ちになってパジャマに手を置いた途端、ドアが乱暴に開いて憤怒の表情も険しく姑が入ってきた。
「何しに来たんだい! お前なんかいなくても、家族5人仲良く楽しくやっていたのに、なんでまたぶち壊しにやって来たのさ! ええ? それともお前の家には鉄砲水でも出たのかい!」
 余りの言葉にさすがのフィクレットもカッとなった。
「ジェヴリエ・ハヌム、私のうちはここなのよ、ここが私のうちなんですっ!」
めったに大きな声を出さないフィクレットが本気で怒鳴り返したのでジェヴリエも思わずたじろいだ。そのとき、子供達の騒ぐ声が聞こえた。「わ~い、お父さんが帰ってきた~」
 フィクレットは姑はほっといて急いで玄関まで出て行った。するとタフシンは誰か客をつれてきたようだった。客に貰ったらしい菓子折りを持ち、片手でスリッパを出してやっている。玄関に入ってきたのはまだうら若い女だった。そしてスリッパに履き替えようとしたときよろけて、思わず転ぶまいとタフシンにつかまったところを、フィクレットは否応なく見てしまったのだった。


第60話

 アリ・ルーザ家のサロンでは、レイラが初出勤の様子を楽しげに語っており、みんなが賑やかに語り合っているのを、2階のソファでネジュラは寂しく聞いていた。
フェルフンデが言った。
「レイラは生き生きしているわね。ケシケ、花束でも贈ればよかったわ」
「ああ、そうだな。うっかりしていたよ」とシェヴケット。
「お兄さん、今度職場に寄ってよ。私を見に来てね」
「ああ、じゃあ明日にでも寄ってみるよ」とシェヴケットは約束した。
レイラは楽しそうに笑いながらなおも続けた。
「でもねえ、最初の電話をつなぎ間違えちゃって、切れてしまったのよ」
「それが新米ってものよ。さあさ、ご飯にしましょう」と母のハイリエ。
 レイラが食卓を見た。ネジュラの分も皿が並んでいる。レイラはそれを見ると不快そうに母を振り返った。
「あ、お前の就職祝いにみんな揃って、と思ったのよ」とハイリエが遠慮がちに言った。
 ネジュラは2階から降りてきたが、レイラと顔が合うと食卓にはつかずそのまま戻ってしまった。レイラは一段と声を張り上げて「ご飯にしましょう」と真っ先に席についた。

アダパザールでは、サロンの大きな丸テーブルにフィクレットがきびきびと食器やフォーク類を並べている。料理はすべて出来上がっていた。まさかフィクレットが帰ってくるとは思わず、レイハンをもてなして気を引こうとするジェヴリエが支度したのである。
 フィクレットにすっかりなついている小学生の男の子メフメットとジャネルは、手を洗いに行くにもフィクレットに「キスして」とせがむ。タフシンは嬉しげにそれを見ていたが、ジェヴリエはいまいましくて仕方ない。娘のデニズもいまではすっかりフィクレットに従順で、「嬉しいわ、フィクレット姉さんが帰ってきてくれて」と言うのである。
 レイハンはジェヴリエが何をたくらんでいるのかはまったく知らず、年の頃も似たようなフィクレットに親近感を抱くのだった。

 イスタンブールのとあるレストラン。ヤマンとジャンが夕食を共にしている。
「ジャン、このところ君が元気になったように見受けるが何かあったかい?」
「うん、離婚することに決めたんだ。いままではどうも気が晴れなくてね」
 そこに電話がかかってきた。娘のヤームールからだった。
「お父さん、どこにいるの?」
「ヤマンさんと食事をしているんだよ」
「今日も遅くなるの? 昨日はあたしが寝たあと帰ってきたでしょ。あたし、お父さんのこと見られないじゃないの。あたしが起きているうちに帰ってくれなくちゃ嫌よ」
「分かったよ、ジャヌム、クズム(私の命、私の娘)、もう少ししたら帰るからね」
 携帯をポケットに仕舞ったジャンにヤマンは聞いた。
「オヤ夫人はどうなんだ」
「相変わらずさ。アレも分かってはいるんだ。すれ違いばかりで、ついにこうなったのを」
「君には誰か別な人がいるのかい」
「・・・・いや、いないよ」

 ネジュラ以外一家揃った夕食のあと、アリ・ルーザはレイラを書斎に呼んだ。
「レイラ、お前は今日、人生で大事な一歩を踏み出した。まじめにいい仕事をしてくれるとお父さんは信じているよ。だが、一つだけ話しておきたいことがある。今のお前は、仕事の上で知り合った人とは仕事の相手としてお付き合いしなさい。例えばジャンさんは、いまやお前の離婚訴訟の弁護士というだけでなく、兄のような存在だろうが、ぜひともそれをわきまえて付き合ってほしいのだ」
「大丈夫よ、お父さん。ジャンさんばかりじゃなく奥さんにもどれほどお世話になったか、よく心得ているわ」
「それならいい。それにレイラ、家族が仲良くうまくやっていけたら一番嬉しいとお父さんは思っている。わかってくれるね」
 レイラはやや険しい目つきで父親を見たが分かったという表情で頷いた。サロンではハイリエがフィクレットの心配をしていた。「ちょっと電話かけてみるわ」と彼女は席を立った。

 アダパザールの家の台所。フィクレットが食器を洗っている。タフシンがそばに来て言った。
「フィクレット、君がいることでどんなに嬉しかったか。子供達も俺もだよ。よく帰ってきてくれたね」
 だがフィクレットには姑がまた何かたくらんでいるのが手に取るようにわかっていた。ことさらにレイハンをタフシンに近づけようとしているのも。
「フィクレット姉さん、レイハンさんにあなたの刺繍を見せてもいい?」とデニズが聞きに来た。
「いいわよ。いま私も行くわ」
 そこにイスタンブールの母ハイリエがアダパザールに着いても電話を寄越さないフィクレットを心配してかけてきた。
「お前が電話をかけてこないから、道中何かあったのか心配になってかけたのよ」
「大丈夫よ、スムーズに帰ってきたわ」
 ハイリエはフィクレットの話しぶりがなんとなく口ごもる感じなので気になった。
「どうしたの、何かあるの?」
「ううん、別に。お客様がいるのよ、今夜」
「あらあら、じゃ、あんまり話せないね。じゃあまたあとで。タフシンによろしくね」
「え、ありがとう。タフシンもよろしく言ってます」

 レイハンはジェヴリエの悪だくみに使われているとは夢にも知らず、素直にタフシンやフィクレットと知り合ったことを喜んでいた。フィクレットの刺したテーブルクロスの見事な刺繍を見ると目を丸くして褒めちぎった。 
「グランド・バザールのこういうものを扱っているお店と契約しているの。買い取ってくれるのよ」
一緒に見ていたレイハンの大叔母、ヌリニサが膝を乗り出して、
「じゃあ、いいお金稼げるのかい?」と聞いた。答えに窮したフィクレットを見てレイハンは
「ごめんなさい。ぶしつけな質問で」と丁寧に謝り、改めてフィクレットを見た。
「綺麗ねえ。こんな風に私には出来ないわ、とても」
「ジャヌム、クズム。レイハン、あんたは働いているんだから出来なくて当たり前だよ。えーえ、うちじゃあ、朝飯から夕飯まで1日うちにいてほかに何にもしなくていいんだから、こんなのすぐ出来るさ」とジェヴリエが皮肉たっぷりに言う。

「フィクレット、私も1枚お願いしていいかしら。もちろんお代は払うわ」とレイハンが言うと、
「あっあ~、オルルム(そんなのありかい)、友達に売りつけるなんて恥だよ、プレゼントにしな、フィクレット」と姑。
「とんでもない。ジェヴリエおばさん。それじゃあ私がフィクレットに頼めないわ。でも欲しいわ」
 そんな素直なレイハンに好意を抱いたフィクレットは言った。
「・・・そうだわ、材料分だけあなたが出してくれれば十分よ。いいのを作るわ」とフィクレット。レイハンはこぼれるような笑顔をフィクレットに向けて言った。
「フィクレット、私はアダパザールに来てまだ間もないヤバンジュ(外国人、ここではよその土地の人)なのよ。友達もいないし、仲良くして貰えたら嬉しいわ」
「私もそうよ。材料はイスタンブールで買っていたんだけどようやくアダパザールでも見つけたわ。これで2人、友達が出来たわ」とフィクレットは微笑みながら傍らのデニズに言った。デニズも嬉しそうだ。

 レイラが2階に上がってゆくと、隣の部屋からネジュラの声がした。末妹のアイシェに童話を読んでやっているのだった。レイラは複雑な思いでその声をじっと聞いていた。その姿を階段の下からハイリエが見つめている。それに気づくとレイラは部屋に入ってしまった。
 ハイリエはネジュラの部屋に入った。ネジュラはきりのいいところで本を閉じた。
「さ、今日はここまでね。続きは明日読んであげるわね」
「うん」とアイシェは素直に頷いた。
「おめでとう。仕事を始めたんだってね。お父さんから聞いたわ」
「ええ、お母さん、私今までの分も頑張るわ、もう心配かけないからね」

アリ・ルーザは寝る前にシェヴケットを書斎に呼んだ。
「ネジュラが出て行ってからうちはみんなが辛い日々を味わっている。ネジュラとお前の間もひび割れたままだ。あの子が帰ってきてからどうだね」
「お父さん、私はあいつとは口も利いていませんよ」
「シェヴケット、思い出して欲しい。お前の就職が決まった晩のことを。お前はこの家の長男として、いまに妹達の面倒もすべて自分が見る、シェヴケット・ババ(父さん)と呼ばれるようになりたいといっていたね。家族みんなが仲良く暮らすというのは簡単なようで生易しいことじゃないんだよ。お父さんはお前に名実共にこの家のあるじになってほしいと思っている。私の言うことは、分かるな。お前が頑なにしているからこそ話をしたんだよ。頼むぞ、シェヴケット」
 アリ・ルーザはシェヴケットの肩を優しく叩いて書斎を出た。フェルフンデは部屋のドアを開け放してシェヴケットの様子を見ていた。彼は妹に対する愛憎がないまざって、歩み寄れないでいたのだが、父の言葉がいま雪を溶かし、水が小さな裂け目から地上に流れ出したように、吹っ切れた思いで、明るい顔つきになってきた。
 アリ・ルーザとシェヴケットの会話を開け放しのドアから聞いていたフェルフンデは、父が2階に上がった後、シェヴケットが次第に肩の荷を降ろしたように、爽やかな表情を見せていくのをうかがい知って、自分も思わずほっとして口元がほころぶのだった。

 一方アダパザールでは、ヌリニサおばさんとレイハンが帰るのを、タフシンに送らせようとジェヴリエが盛んに騒ぎ立てている。レイハンはそんなジェヴリエの下心は知らず、すっかりフィクレットに好意を寄せていた。タフシンの車に大叔母を乗せ、自分は助手席に乗ってレイハンは帰っていった。車がバックして庭を出て行くと、いつまでもにやにやとしながら手を振るジェヴリエのそばを離れ、フィクレットはさっさと台所に引っ込んだ。

 次の朝、ネジュラが2階から降りてくるとまだ誰も起きてきていなかった。彼女はチャイダンルック(2段式の湯沸かし器)に水を入れてチャイを沸かす支度を始めた。それより少し前にシェヴケットも目覚めていて、フェルフンデを起こそうとすると、「お湯だけかけておいてよ。その間に着替えるから」と言う。シェヴケットは背広に着替え、台所に入っていった。
 台所ではネジュラがチャイダンルックをすでに火にかけていた。シェヴケットは少し迷ったが、妹の後姿に「おはよう」と声をかけた。驚いて振り返ったネジュラの眼にみるみる涙が膨れ上がってきた。シェヴケットはちょっと微笑みかけてうなずきながら部屋に戻っていった。
「どうしたのよ、シェヴケット」
「うん、ネジュラがお湯を沸かしていたんだ」
「で?」
「おはよう、と言ったよ」
「いいじゃん。ね、夕べお父さんあなたになんて言ったの?」
「うん、まあ・・・」
「じゃあ、なんて言ったのか私が言ってあげようか、ねえ、聞きたい?」
フェルフンデは照れくさそうなシェヴケットの肩に寄りかかってからかった。

 アダパザールではタフシンが早朝パン屋に行ってきた。台所で朝食の支度をしていたフィクレットのそばに行く。
「パンのほかにポアチャ(軽い小さなロールパン)も少し買ってきたからね。フィクレット、君に謝らなくてはいけないことがある。いつかネジュラを預かってやりたいと言っていたね。あのときはネジュラを思う君の気持ちを汲んでやれなくて悪いことをした。ネジュラは大事な君の妹だ。呼んでやろうよ。一時じゃない、ずっとここで暮らしてもいいよ」
「ネジュラのことは両親が何とかするつもりになっているからもう平気よ。でも、そう言ってくれてありがとう」
 フィクレットがタフシンの申し出に笑顔で答えたとき、ジェヴリエが台所に入ってきた。
「何だって、何だって? ネジュラがどうしたって」
彼女は地獄耳振りを発揮していた。タフシンもフィクレットもうんざりする。

 アリ・ルーザの家ではネジュラが学校に行くのを見送って両親がサロンの出口にいる。2階から下りてきたレイラはネジュラを睨んだ。みんなが食卓につくと、フェルフンデが唐突に言った。
「ネジュラもレイラも仕事を持って働き始めたわ。私は家に残って毎日退屈よ」
ハイリエはそれを聞くとむっとしてフェルフンデのほうを向いた。
「だったら私の手伝いをしてうちの仕事をしたらいいじゃないの。まるっきり手伝わないんだから」
「そういう仕事じゃないのよ、私が言っているのは。シェヴケット、そろそろ子供を生みたいわ」
「しっ、みんなのいるところで何を言い出すんだ、フェルフンデ!」シェヴケットが慌てて制した。

 アダパザールのジェヴリエは子供部屋に隠れてヌリニサに電話した。
「そうだよ、姉の夫と家出したあの娘、最近別な何かことがあったらしいのさ、それを調べて欲しいんだよ」
 掃除をしようと子供部屋のドアを開けたフィクレットは、慌てて電話を切った姑の態度に疑いを持った。いつも何か仕掛けてフィクレットを追い出す理由にしようとするジェヴリエの底意地の悪さをフィクレットもよくよく呑み込んでいるのだ。

 ヤマンの会社。2階の社長室の前に受付があり、シェヴケットが顧客を訪問した帰りに寄ってみると、レイラはそこで生き生きと働いていた。ヤマンも近くの外出先から戻り、また乗馬クラブのサロンでの賭けトランプに誘うのだった。

 日曜日が来た。ジャンの車で乗馬クラブに向かうのは、助手席にシェヴケット、後ろにフェルフンデとレイラの3人だった。オヤ夫人は娘のピアノのレッスンで一緒には来られなかった。ジャンはしばしばバックミラーに映るレイラを盗み見た。フェルフンデはすぐにこれに気づき、ジャンが本気でレイラにのめりこみ始めているのを感じた。
 アダパザールでも、タフシンがフィクレットと子供達を連れてドライブに行こうとしていた。
「さあ、みんな揃ったか。じゃあ行くぞ」とタフシンが立ち上がりかけたときだった。
「ちょっと待ちなよ。レイハンがまだ来ていないよ。せっかくの日曜に1人で寂しいだろうからあたしがみんなと一緒に行くように誘ったんだよ」
「どういうことだよ、お袋。俺は久々に子供達を遊びに連れて行くつもりなんだよ」
「だからさ、レイハンを連れて行ってやりなと言うんだよ」
 ソファに座っていたフィクレットはそれを聞くと堪えきれずに自分の部屋に駆け込んでしまった。姑はどこまで自分を侵害してくるつもりだろう。彼女は頬を伝うくやし涙を両手で拭った。

 乗馬クラブではジャンとフェルフンデとレイラが乗馬を楽しんでいる。乗馬初体験のレイラははしゃいでいるが、それが感情を表さないオヤ夫人と比べ、ジャンの目に新鮮に映った。そしてサロンではシェヴケットがまた賭けに大勝していた。
 持ち時間が終わって3人は馬から下りた。レイラはまだ興奮している。フェルフンデはシェヴケットの様子を見に行き、ジャンとレイラは厩舎を見に行った。子供時代に見た馬の出産の話をするレイラをジャンはいとしげに見つめている。夫婦の会話と言うものがないジャンの結婚生活。彼はまだ少女趣味の残るレイラに強く惹かれている。
 そこへオヤ夫人がヤームールを連れてやってきた。ヤームールは父親と共に乗馬に行き、レイラはオヤ夫人とカフェに座った。

 アリ・ルーザとハイリエは末っ子アイシェにせがまれて海岸通りに散歩に出ることになり、ネジュラも連れ、ネイイルとセデフ親子も誘って出かけたのである。
 アダパザールのティー・ガーデンではタフシンとフィクレットとレイハンがコーヒーを飲んでいる。
「フィクレット、あなた方はいつ結婚したの」
「8ヵ月前よ」
「私はまだ来たばかりだし、どうか友人としてこれからもよろしくお願いね」
「こちらこそ」フィクレットも謙虚なレイハンに親しみを感じていた。そうとは知らぬ姑ジェヴリエは、この間に、ヌリニサの報告で、ネジュラの件をすべて知ったのだった。ジェヴリエは今度こそフィクレットを追い出す切り札を握ったと自信を強める。

 フェルフンデがカフェにやってくるとレイラがぽつんと座っていた。
「オヤ・ハヌムは?」
「あそこでお友達と喋っているわ」とレイラは少し離れたところで知り合いと愛想よく立ち話をしているオヤ夫人を見た。間もなくジャンとヤームールが戻ってきた。オヤ夫人は話し相手と別れの挨拶に抱き合ってキスをし、夫のそばにやってきた。
「私は帰るけど、あなたはよかったらみんなと一緒にもう少しいたら?」
「いや、私も帰るよ。君達はどう?」
「ええ、あとでヤマン・ベイが送ってくれるでしょう」とフェルフンデが言った。
 オヤ夫人はレイラに一瞥したきりで抱き合って別れを告げることもなく出て行った。
「えええ、変じゃないの。どうしてさっきの友人とは抱き合ってキスしたのに、レイラ、あなたにはキスもしないの」フェルフンデがいぶかしげにレイラに言った。
「別に私は気にしないわ」とは言ったものの、レイラもオヤ夫人の態度は腑に落ちなかった。

 日曜日は刑務所の面会日でもある。ジェイダはオウスの子供カーンをしっかりと抱いて受刑者達の出てくるのを待っていた。オウスが出てきた。タラットにも子分が面会に来ている。
「カーン、俺の息子よ。元気に育ってくれ。ジェイダ、この子が物心つく頃にはもう、ここへ面会に来るのはやめてくれ。刑が終わったら外国に行くんだ。誰も俺を知っているものがいないところでこの子は成長する。それまでの辛抱だ」
「分かったわ、オウス。この子のことは任せておいて」
「ほかのもの達はどうしてる? ネジュラから便りはあるか?」
「ええ、電話で話したわ。元気で学校にも行っているって」
 ジェイダはそれだけ言った。彼らの後ろではタラットが子分に命じている。
「いいか、あの女と赤ん坊もしっかり追跡しろよ」
「兄貴、肝に銘じて!」

海辺ではネジュラとセデフが親達と離れて少し散歩しようと言うことになった。少し歩いていくとカーヴェのおやじ、アフメットが釣りをしていたが朝から何も獲物はなかった。
「え~い! ふざけんなよ、魚ども。俺様は毎週毎週お前らを養いに来ているんじゃないぞ!」と悪態をついている。そこに娘達2人が通りかかったのである。
「あら、アフメットさん。私達お茶のみに来ているんです。よろしかったらご一緒にいかが。うちの母も来ていますよ」とセデフが言うと、アフメットは大喜びで竿をしまい、ついてきた。
 みんなで合流し、お喋りするうちにアフメットが今日は自分の誕生日だと言う。
「そうだ、夕飯は魚料理でどうですか。この間、ネイイルさんにご馳走になったから今日は私がみなさんにご馳走しますよ」
「とんでもない、アフメット・ベイ。本当はわしらがお祝いをしてあげなくてはいけないのに」
「なんのなんの。私に任せてください、カイマカム・ベイ(郡の長官さん)」

 乗馬クラブのサロンではヤマンとシェヴケット、フェルフンデ、レイラがコーヒーを飲んでいる。
「ヤマン・ベイ。またまた稼がせていただいて、何と言ったらいいのか・・・この儲け分から借金をお返ししていきたいと思うんですが・・・」
「いや、君の腕前さ。取っておいたらいいだろう。いつまた入用になるかわからないよ。私への返済なら急いでいないからもっと先でいいよ」
 裕福なヤマンはそう言ってにっこりした。
 その頃ジャン弁護士の家では、厳しい顔つきのオヤ夫人が思い余ったように夫に言った。
「あなたの心の中にレイラが見えるのよ。それはそれで仕方のないことだわ。でも、カウンセラーとしてあなたに言っておきたいことがあるわ。これだけは聞いて。レイラは本当にデリケートな子なのよ。あの子はものすごく辛い思いをして神経を病んだのよ。もしももう一度同じことが起きたらこんどこそ救いようのない病人になってしまうことは確実よ。これを忘れないで」
 それだけ言うと、夫人は夫を残して娘の寝室に入ってしまった。ジャンは黙って深くうなだれ、この望みのない愛に自らも傷ついていた。

 シェヴケット夫婦とレイラが家に帰ってくると両親とネジュラ、アイシェがいない。レイラはネジュラが両親と一緒ではないかとショックを受ける。ネイイル親子も一緒に出かけている様子だった。
「ねえ。今朝の話だけど、子供がいてもいいじゃないの」とフェルフンデが再び話を持ち出すと、
「駄目だよ、今は考えていない。子供を作れる状態じゃないじゃないか」とシェヴケットは首を縦には振らなかった。
「それにしてもお父さん達、どうしたのかしら。携帯がないからかけようがないわね」
「セデフにかけてみよう」シェヴケットがそう言うとフェルフンデが軽く睨んだ。
 セデフの電話で海辺のレストランにみんなでいることがわかった。アフメットの誕生祝で盛り上がっていると言う。レイラはむっとした。

 アダパザールでは、みんなが家に戻ってくるとジェヴリエが「ああ~、死にそうだよ~」といつものように騒いでいた。レイハンが看護士として慣れた手つきで血圧や脈拍を測るが別に何ともない。ジェヴリエはうなり声を上げてレイハンを帰そうとしない。
 そこにレイラからフィクレットに電話がかかってきた。フィクレットはいそいで自分の部屋に入ってレイラの話を聞いた。
「お父さんもお母さんも、なんでこんなにすぐにネジュラを許せるの。今日も私達のいない留守にネジュラを連れてどこかで食事しているのよ。ネジュラの帰ってきたお祝いをね!」
「レイラ、今ジェヴリエ・ハヌムの具合が悪くて取り込んでいるのよ。後でゆっくり聞くからね」
「あ、フィクレット姉さんごめん。じゃあまたね」とレイラもすぐに電話を切った。

「ふん、人が苦しんでいるって言うのに電話でぺちゃくちゃ喋っている女もいるよ、まったく!」
 フィクレットがサロンに戻るとジェヴリエは憎々しげにそう言った。
「ジェヴリエおばさん、私は今夜は夜勤なのでもう行かなくてはなりません。特に異常は認められないので静かに休んでいれば収まるでしょう。じゃあ、お大事にね。フィクレット、あとはよろしくお願いね」
「あれ~、行っちゃうの? 夜勤は誰かに代わって貰ってさ。え、 駄目なの? 仕方ない。タフシン、レイハンを病院まで送ってあげておくれ。2人でコヌシャ・コヌシャ(お喋りしながら)行くといいよ」
「ジェヴリエおばさん、私は大丈夫よ。タクシーでもすぐだから」
「そんな。うちのために来てくれたあんたを一人で帰せないよ。タフシン、それ、立たんかい!」
「分かったよ、おふくろ。じゃあ、フィクレットと一緒に送って行く」
「ええっ、駄目だよ! フィクレットに何の用があるのさ! ばかばかしい」
「いいえ、ジェヴリエ・ハヌム。私も一緒に送っていきます。そうすれば帰り道タフシンも1人にならなくて済むし、私達2人、それこそコヌシャ・コヌシャ戻ってくるわ」
 ついにフィクレットは姑の魂胆を見破り、その底意地悪さをはねのけたのだった。

 海辺のレストランではアフメットのためにアリ・ルーザ達が大きなケーキを頼み、少年のように嬉しそうにアフメットがろうそくを吹き消して誕生日のお祝いは最高に盛り上がった。そこに中年男女の二人連れが入ってきた。両頬にバンソウコウも痛々しいペンションの経営者ジュリザとあの、ネジュラを狙っていたエロ親父だった。
 2人はネジュラ達には気づかずすぐそばの席に座った。ネジュラがその2人を見た途端はじかれたように立ち上がって押しかけていった。さらにみんなを驚かせたのは、ハイリエだった。
「この性悪女、うちの娘をひどい目に合わせてくれたねっ!」と叫びながらジュリザの髪をつかんで必死に襲い掛かった。レストランはたちまち修羅場と化してしまった。


 






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