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madamkaseのトルコ行進曲

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 marnon1104@ お久し振りです (。≧ω≦)ノ!! kaseさんのお誕生日だったのですね。 お元…
 marnon1104@ Re:トルコでシュウマイはいかがですか?(07/08) kaseさん、こんにちは(*'▽')♪ …
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2006年02月24日
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カテゴリ:旅に出て人と会う
【2月23日・木曜日続き】

「本題に入る前に、私は経済関係の専門家ではありませんので、資料から的確な数字を挙げたり、具体的に説明したりは出来ませんが」と、学生達に一言断ってからまず、日本の戦後の復興について触れた。

「私は1943年、第二次世界大戦の真っ最中に首都東京の隣の千葉県で生まれました。1941年に始まり、4年近く続いたこの戦争では百万人余の兵士を失い、空襲で首都圏を焼け野原にされた上、広島や長崎には原爆を落とされ、これまた大量の犠牲者を出した日本はついに降伏しました。
 焼け爛れた東京には、米も野菜も、人の住める家もない状態でした。生き残った人々はぼろを着て、私の家族がいる田舎のほうまで食料を求めて、歩いたり、車輪のゴムが焼けてしまった自転車を押してやってきました。
 私は当時、2歳半だったにもかかわらず、それらを非常によく覚えています。

 そういう、まったくゼロの状態から日本国民はどう立ち上がったか、どんな過程を踏んで現在に至ったのでしょうか。
 日本が戦争に負けても、日本人達は生存競争には負けませんでした。最初はアメリカ製品の模倣的生産から始まりましたが、日本製品といえば「安かろう、悪かろう」と低く見られ、馬鹿にされていました。  
 しかし、勤勉な日本人は研究心旺盛に、不具合があれば何度も作り直し、品質向上を心がけました。やがて日本のテクノロジーは世界一との評価を勝ち取りました。

 1958年に最高額紙幣として1万円札が発行され、いまだに日本では1万円札が最高額です。インフレは戦後の一時期見られましたがまもなく収まり、日本の通貨は48年間変わっていません。物価は時の流れの中で少しずつ上がりましたがほぼ安定しています。
 私が日本にいた頃、自動販売機でたとえばコーラやジュースが110円でしたが、いまでも120円から150円くらいなものです。

 ところが、日本の経済は通貨の価値ほどには安定していませんでした。1970年代から80年代にかけて好況が続いたのですが、頂点に上り詰めた結果、90年代の初め頃大きく崩れ始めました。
 人件費の安い中国に労働力を求めて企業が工場を移転したり、終身雇用制度をやめて正社員を雇わず、派遣事業からパートタイマーをたくさん入れるようになると、国内の労働者の雇用機会が減って失業率が高くなり、国民全体の購買力が落ちて、日本は深刻な経済危機に陥ったのです。
知らない間に身振り手振り

 さて、私がトルコに初めてきたのは92年でしたが、当時の最高額紙幣が100,000トルコ・リラ(以下リラと表記)、ところが次の年、250,000リラ、その次の年には500,000リラ、さらに100万リラ札まで発行されました。(註:その後も、500万リラ、1千万リラ、2千万リラ札発行に至るまでインフレが進んだ)

 95年3月に私がイスタンブールに住み始めたとき、3月末日のトルコ中央銀行のレートは1ドルで41,378リラでした。当時バス代が1回10,000リラでしたから、4回乗れておつりがくるわけです。ところが今は1ドルが1.3YTL(註:新トルコ・リラ、05年からデノミ実施で、6桁のゼロが削られた)ちょっとです。
 バス代も1.3YTLなので、1ドルでたった1回しか乗れないのです。単純に考えても4倍以上の値上がりです。

 私が95年に借りた家の家賃は250ドル。次の年にいきなり420ドルに上がりました。大家さんは「本当はドイツから戻ってくる息子をここに住まわせたいのだが、あなたが続けて住みたいと言うので、彼にはほかに借家を与えなければならない。だからその家賃の一部を負担して貰う」というのです。
 知り合いの日本人も、ドイツから大家さんの息子が帰ってくるので出てくれ、嫌なら50ドル余計に払えと値上げされたそうです。

 どうしてトルコの大家さん達にはみんな、ドイツに住んでいてまもなくトルコに戻ってくるという息子がいるんでしょうかねえ」
(ここで会場は大爆笑、つまりドイツから息子が帰るというのは、大家さん達が店子を追い出すための、トルコ人ならみんな知っているポピュラーな口実なのである)

 こんな風に話を進め、ここからが長いので端折るが、要約すると現在のトルコは12~3年前と比べて非常に高層建築も増え、街には新しい車が目立ち、家電製品、携帯電話、IT関連製品などがいくらでも月賦で買えるが、これは見掛けだけの繁栄に似ている。

 新トルコリラも一見安定しているように見えるが、現在のところIMF基金などからの借款で潤っているからで、本来国庫に借入金が多すぎるのは基幹産業のない国では危険である、と語った。そして私は先日の、オクタイの話もエピソードとして加えた。

 トルコはどう歩むべきか。トルコの豊富な大地から得られる第一次産業、第二次産業の品々を、単に原料として低廉な価格で売らず、優れた技術を取り入れて国内でこれらを加工し、製品として付加価値をつけたい。
 それをもっと高く売る努力をすれば、国民を過酷な条件下で海外へ出稼ぎに行かせなくても、国内の労働者に雇用機会を増やし、働くものに保障を与え満足させることが出来る、それが国を富ませる方法だと思う、と結論付けた。

「皆さん、今の政治家が悪いと責任転嫁せず、こうして大学で学ぶ、力に満ちた若い皆さんにこそ、その肩で将来国を担っていただきたい。私はトルコがこよなく好きです。好きだからこそ、素人ですがあえて皆さんの前でお話させていただきました」と結んだ。
 ぴったり1時間だった。学生達の拍手は私にすればカーネギーホールで演説したくらい嬉しかったので、自然に顔がほころび、学生の中には「Siz cok sempatiksiniz(あなたはとても可愛い方ですね)」と言ってくれる人もいた。嬉しいけど、ちょっと一度眼科で視力検査して貰って下さいね~。


メティン君とインターンのハカン先生

メティン君(右・眼鏡の青年)と、お世話してくれたインターンのハカン先生

 【娘の談話】「いかにも経済を知らない人が経済について語ったという感じだったけど、まあ、せいぜいこんなもんでしょう。お母さん、よかったね、トルコの人はみんな寛容で・・・」
 



madamkaseのトルコ本 犬と三日月 イスタンブールの7年(新宿書房)







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Last updated  2006年02月28日 21時29分27秒
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