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カテゴリ:イスタンブールで人と会う
【5月31日・金曜日】 27日(月)夜 ホテルでご対面、打ち合わせを兼ねてスルタンアフメット・ジャーミイ(ブルー・モスク)の近くのタマラ・レストランで、トルコらしいケバブ料理で夕食をいただく。それに3人で運んできてくれた、それこそ山のようなお土産。 28日(火) アシスタントのお2人さんにもボスポラス海峡クルーズを経験していただこうと、エミニョニュで待ち合わせ、カンルジャ下船の片道クルーズ、ヨーグルト賞味コースをお試しいただき、その後5人でバスに乗りウスキュダルに移動した。 千絵さんが内部を見たかったモスクはあいにく修復中で、完成するまでは何びとも中には入れられない、と言われ、諦めてウスキュダルで有名なカナアト・レストランで昼食をいただいた。 その後、前の週に写真家さんを案内した時と同じ海岸線に沿って再び歩いた。アジア側からトプカプ宮殿やアヤソフィア博物館の見える景色を眺めることは、背景を担当するアシスタント嬢にはまたとない実習になるのだった。 午後3時半過ぎにカドゥキョイに行くミニバスに乗って、カドゥキョイ波止場に移動。千絵さんは歩き過ぎの私を気遣って、岡崎さんを案内に立て、カドゥキョイのチャルシュ(商店街)めぐりに出かけ、私は波止場の屋外カフェで休みながら待つことになった。 私はこの間に、エブルの美樹さんに連絡を取った。 美樹さんは千絵さんの代表作「天(そら)は赤い河のほとり」を連載時から読破したそうで、ほかにも人気作品を全部読んでいたというほどのファン、千絵さんにも承諾いただいたので、今夕、カドゥキョイでのご対面をセッティングしておいたのだった。 カドゥキョイのチャルシュ(商店街)に付き添って行った岡崎さんが、ほどなくカフェに戻ってきた。美樹さんがとても嬉しそうに現れたのはその少し後。 そして1時間ばかり、チャルシュや本屋さんなどをめぐり歩いた千絵さん達は、今回もまた資料になりそうな分厚い本を何冊も買い込んで波止場に戻ってきた。 美樹さんは大感激で、自作の非常に目の細かい高度な技術と思われる、B5判くらいのエブル画をプレゼント、お茶のみのひとときとはいえ、思いがけないご対面が実現したのだった。 (美樹さんにはその後30日に「夢の雫、黄金の鳥籠」の既刊3冊が、岡崎さんを通じてに千絵さんからプレゼントされた。) カドゥキョイで岡崎さんや美樹さんと別れ、私達4人は連絡船に乗り、カラキョイに戻ってきた。明日の遠出に備えて、私は車の手配などするために千絵さん達とも別れ、家に戻った。 29日(水) オスマン帝国の最初の首都はブルサだったが、その後1361年ムラット1世が征服したアドリアノープル(東ローマ帝国のハドリアノポリス)に遷都し、以来その街はエディルネと称されるようになった。 1453年にメフメット2世がコンスタンティノープルを征服し、遷都するまで首都として90年余り栄えてきたエディルネは、おおむね平坦な街の中で、どこからも目立つ小高い丘の上にそびえるセリミエ・ジャーミイ(1575年竣工・ミマール・シナン作、2010年・ユネスコ世界文化遺産に登録)がつとに有名である。 朝、チャーター車でホテルの前を8時に出発、高速道路に入って順調な走行、前日と打って変わって朝のうちは重い雨雲が垂れこめていて心配されたが、途中ババエスキという町に差し掛かり、休憩をとった。 西に行くに従って天候は回復して行き、雲間から初夏の日差しが悠久なトラキアの大地を明るく照らすようになった。 11時半頃エディルネに到着、セリミエ・ジャーミイは最後に見学、ということにして今回の取材の目的地に直行した。 目的地は2007年の6月末、日本から来た新聞記者を案内して、トルコの国民的スポーツ、ヤール・ギュレッシュ(オイル・レスリング)の取材に行ったクルックプナルという町にあった。 千絵さんが現在執筆中の「夢の雫、黄金の鳥籠」でやがて登場するエディルネ宮殿の痕跡を求めての取材旅行なのである。 92年間の首都としての任務を終えたあとも、歴代のスルタン達によって増築された広大な宮殿は、19世紀末ロシアの占領軍によって焼き払われたため、その遺構はほとんど残っていなかった。 最近、文化・観光省とエディルネ県の共同プロジェクトで、宮殿再建の工事が始まり、現場に大きな看板がかかっていたが、問い合わせるべきオフィスはまったく見当たらなかった。 どこに行けば詳しくわかるのだろう。県庁? 市役所? それとも図書館だろうか。 私が取材に出る前に、この件で教えを乞うたコンヤの学者ヌレッティン先生から得た、「消失前の宮殿の姿を、19世紀にオランダの写真師が撮影しているはずだ」という情報を頼りに、何とかエディルネでその資料を見つけたいと思っていた私達の取材目的到達は、難航するかに見えた。 ところが、「たとえ少女漫画でも、可能な限り史実や確実な資料に基づいて、よく調べてから描く」ことをモットーとしている取材熱心な篠原千絵さんに、これぞアッラーのお加護、とでも言えそうな事態が起こった。 エディルネ宮殿の遺構の近くに、オスマン朝第8代スルタン、ベヤズット2世の築かせた当時の医学学校のあとが、「医療博物館」として7~8年ほど前から整備され、ミュージアムとして一般公開されているのを5年前に一度見ていたので、そちらに回って見た。 博物館を見学し終わって、出口に近いプレゼンテーション・ルームに入ったところ、千絵さん達の求めていた宮殿の在りし日の姿が、写真をもとに描き起こされたのか、美しいカラーの額絵となって、壁面をぐるりと取り巻いて掛けられているのがわかったのである。 つまり、この取材旅行の目的が一瞬にして叶ったのだった。5年前、この部屋はまだ出来ていなかった。 ベヤズット2世は征服王メフメット2世の息子で、アマスィヤ県にも同じように大学校や病院を築いた英邁な君主である。医療博物館の隣の敷地には、見事なベヤズット2世のジャーミイが威容を誇っていた。 そこも見学し、市内に戻ったのが3時近くなっていたので全員さすがに空腹を覚え、カプタン(運転手)の勧める食堂で、エディルネ名物のタヴァ・ジエル(レバーの揚げもの)を揃って食べた。 生野菜と揚げたトウガラシ(ものすごく辛い)、アイラン、タヴァ・ジエル(レバーの揚げ物) 文句なく美味しい。路上にはみ出して並べられたテーブルで、街の声が賑やかに聞こえる中、満ち足りた時間が流れた。そのあとセリミエ・ジャーミイに戻り、ゆっくりと世界遺産の壮麗な建物の内部を見学した。 オスマン朝切っての大建築家ミマル・シナンの晩年の傑作 5時半頃帰途に就き、明るいうちに帰りつけたので、私は猫の餌をやりにいったん帰宅、皆さんは岡崎さんの案内でイスティクラール通りをそぞろ歩き、その後打ち揃ってベイオール、バルック・パザールのネヴィザーデ居酒屋街に繰り出したのだった。 30日(木) 日本語ガイドのチェティンさんが、アヤソフィア博物館やトプカプ宮殿などを案内してくれることになり、岡崎さんと私は小休止、夕方千絵さんが、前回泊まったスルタンアフメット・サラユ・ホテルでお別れの晩餐会を開いてくれたので、岡崎さんとまた訪ね、楽しく語らいながら夜の更けるまで過ごした。 31日(金) この日はいよいよ帰国である。午前中、わが家からタキシム広場に通ずるスラセルビレル通りにあるスーパーで買い物を楽しんだ千絵さんご一行と最後の面会、私達は10時半にジハンギルの角にあるエルヴァン・パスターネシ(ケーキ店)で待ち合わせし、チャイを飲んだ後、タクシーでエミニョニュに下りた。 お三方ともサバ・サンドは初体験。私も考えてみると何年も食べていなかった。11時を回ったばかりだったので、まだ空いているうちにゆっくり食べることが出来た。B級グルメとはいえやっぱり人気の秘密はひとえに美味しいということだ。 早めに空港に向かいたいという千絵さん達の意向で食後すぐにホテルに戻り、1時半頃タクシーが呼ばれ、のべ5日間共に動いてきたがいよいよお別れの時が来た。 タクシーの中から手を振る皆さんに私も手を振りながら角を曲がって見えなくなるまで見送った。別れはいつもさびしい。 千絵さんには山のようなお土産のほかに、猫達に過分なご厚志をいただき、また5日間ご一緒させていただいてすっかりご馳走になりました。ありがとうございました。 【ちょうどその頃、新市街タキシム広場の周辺では、広場改造計画でゲジ公園の樹木伐採に反対した市民運動のグループに警察が強権出動、デモ隊に対して、高圧放水砲、催涙ガス弾などの発射で弾圧、大きな衝突事件に発展していたのだった】 つづく お知らせ ◎※△ 海泡石(リュレタシュ)がネットで買えます! イスタンブール唯一の海泡石アトリエ、シナン・ウスタの作品がついにネットで購入出来るようになりました。追々品数も増やしていくとのことです。ぜひご覧ください。 ネットショップ 「リュレタシュ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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