カテゴリ:由来や歴史
信長の城郭史上、初の石垣は小牧山城だった。 織田信長(1534~82年)が1563年(永禄6年)に築城した 小牧市の小牧山城は、3段の石垣(高さ約6メートル)で囲まれていたことが発掘調査で分かった。 小牧山城は仮の砦と考えられてきた。 しかし、2010年度に小牧市教委の発掘調査で2段の石垣が見つかり、さらに3段目の発掘により安土城(滋賀県)に先立つ本格的な石垣の城であることがわかってきた。 信長が、土豪や敵対する勢力を圧倒する演出効果を狙ったのではないかと分析されている。
しかし、驚かせるためだけに石垣を築いたのだろうか。 このためだけに賦役を課せば土豪や農民は離反するでしょう。 美濃を攻めるための前線基地としては最善の地域である。 清州より商工業者も呼び寄せ新たな街造りをする必要があった。 町割りをする際に岩石も出てきたのではないか。
山頂から見渡して感じたことがある。 木曽川と庄内川に挟まれたこの地域は扇状地でありながら岩がゴロゴロしており当時としては稲作に不向きではなかったか。 名神高速道路着工(1957年・昭和32年)当時この地域から川砂利や大石を掘り出し採掘し大いに活用されたそうです。 信長は農地開拓のため沼地や畑地にあった岩石を小牧山に運ばせ石垣に活用したのではないかと考えている。 土豪や農民は耕作地が増え町割りができ喜び、信長も年貢が増加し双方に損はない。 小牧から数キロ先に犬山市五郎丸と言う地名がある。 尾張平野の北部、木曽川左岸に位置する。 かつては海辺で、四郎丸・五郎丸という大船から地名をとったと言われている。 この近辺一帯も岩がゴロゴロしていたからこの地名が生まれたのではないか。
作業集団のなかから近くの岩崎山から石を切り出し加工する技術が芽生えたのではないか。 出稼ぎの石工集団がいたかもしれません。 当初の目的は食料確保のための農地開拓と城下町造りにあり石垣が完成した時には既に目的は達成され土豪や農民も信長に味方していたのである。 結果として今まで見たこともない石垣が完成し防御に優れて威圧感のある城が完成したのである。 さらに鉄砲の時代に入り石垣の重要性が見直されたのでしょう。 目的を達成した信長は4年で城を廃棄し岐阜に移転している。 不思議なのは徳川氏になって綺麗に埋め戻されたことです。 善政の記念塔であればなおさら埋め戻す必要があったのか。本当は過酷な課役で造成されたのでしょうか。 尾張地区の景教・キリスト教信者のための教会的役割や農民一揆の砦とされては困るからでしょうか。 ここにも隠された石垣の秘密があるのではないでしょうか。 ランキング 価格 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016/04/22 04:26:06 PM
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