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カテゴリ:Movie
<きのうから続く>
1958年末、ジャン・マレーは精神的にも経済的にも大変な沈みにあった。ジョルジュの公演のための借金の返済に追われる一方で、兄のアンリが癌であと半年の命と宣告された。アンリは離婚していて、娘2人と暮らしていた。マレーは兄の人生最後の時を、平屋建てで広い庭もある快適なマルヌの家で過ごさせることにする。兄の家族と母親が移ってくる。こうなると、ジョルジュは出て行かざるをえなくなった。 明日は出て行くという日の夜、ジョルジュはアトリエで次の芝居の舞台装置を考えているマレーのところにやってきた。その様子は明らかに悲しげで、いつもと違っていた。マレーは、この家は君のものだ、いつでも来ていいし、誰を呼んでもいいと言った。ジョルジュは、君が病気になったら誰が看病するのかと聞いた。マレーは自分は丈夫だから、誰もいらないと答えた。2人の会話が途切れ、困惑したように黙り込むジョルジュに、マレーは微笑みながら、自分を愛していたのかと尋ねた。 「ずっと愛していた。フランスに来てからずっと。ぼくは君だけを愛してた」 ジョルジュははっきりと言って、子供のように泣き出した。マレーは立ち上がり、ジョルジュを両腕に抱きしめた。昔の自分を思い出させる顔立ち。2人が一緒にいると、知らない人はほとんど必ず「兄弟か」と尋ねた。違うのはジョルジュが黒い髪と黒い瞳をもっているということ。身体がずっと細いということ。そして、アメリカ生まれの潔癖なピューリタンであるということ。 ミュージカル・コメディの公演を境に、2人の間には溝ができていた。それをジョルジュの涙が埋めた。ジョルジュはとめどなく泣き暮れ、マレーはあやすように慰めた。かつての2人の甘やかな時間が戻ってきたように思えた。 「どうして泣くんだ。愛してるなんて素晴らしいじゃないか。ぼくは君には幸せでいてほしいんだよ。いつも幸せで――」 「ぼくの幸せがどこにあるの。君のそば以外に」 「ジョルジュ、ここにいたいなら、いていいんだよ。君さえよければ」 本音を言えば、ジョルジュに出て行ってほしくなかった。だが、ジョルジュはかぶりをふり、家族の邪魔はできないと言った。 そうして、若く健康な青年は去り、重篤な病人と年をとってますます狂気をはらんできた母と、父の運命を知って悲嘆にくれている姪たちがやってきた。兄のアンリはマレーにあまり似ていなかった。性格も容姿も。ジョルジュと違い、実の兄と一緒にいても、2人が兄弟だと思う人はほとんどいなかった。ジャン・コクトーと実の兄のポール・コクトーもまったく似ていなかった。痩身のコクトーと違って、ポールはでっぷりとしており、詩には興味を示さない勤勉な実務家だった。そんな共通点すら、マレーには密かな誇りだったのだが。 恐ろしいほど空虚な日々が始まった。家族全員がマレーの支えを必要としていた。希望もなく、あてどもない看病の日々はマレーの精神を蝕んだ。だが、マレーはくじけそうな心に鞭を打って、兄の家族と母を励ましつづけた。 だが、夕食後に皆でテレビを見ても画面は眼に入らず、音も聞えない。眠ろうと寝室へ行っても寝つけない。理由もなくジョルジュの部屋へ行く。部屋にはジョルジュの匂いが、2人の温かな時間が、漂っているような気がした。 またも、フーガだった。 「ぼくのジャノ。ぼくは君の部屋にいます。ここには何かしら、君が残っている」――気まぐれに見せてモンパンシエ通りのアパルトマンを出たあと、コクトーから届いた手紙の文面。 この痛みは、自分がコクトーに与え続けた苦悩の代償かもしれなかった。マレーは次第にそうした思いに捉われるようになる。 眠れなくなったマレーは、夜の街に出た。サン・トノレ通りの顔なじみのバー。1人で来たことなどなかった。 ――あれ、ジャン・マレーじゃない? ひそひそ声が聞こる。こんなところで1人で飲むなど滑稽だ――来たことを後悔する。それでも、すぐに帰る気にはなれない。 深夜にようやく帰宅したあと、明日が聖マドレーヌの日だということに気づく。 それを言い訳に、マドレーヌ・ロバンソンの家に電話をかける。ジョルジュは「一時的に」と言って、マレーの20年来の親友の女優の家に転がり込んだのだ。マドレーヌはマレーより3歳年下。シャルル・デュランの演劇教室に通っていたころからの仲間だった。マレーと彼女が非常に気が合うように、ジョルジュと彼女も仲がよかった。 「遅い時間にごめんね」 「あら、ジャノ」 受話器の向こうからマドレーヌの嬉しそうな声がした。 「電話したのはさ、明日が聖マドレーヌの日だから、君にお祝いを言おうと思って」 「珍しいわね。あなたから電話をもらえるなんて。元気?」 「うん、いや――」 「お兄様の具合はどう?」 「よくはないよ……」 「そう…… ちょっと待って。ジョルジュに替わるわ」 見抜いたようにマドレーヌは言う。すぐにジョルジュが出た。はずんだ声が聞える。2人の会話は延々と続き、長い沈黙で途切れた。再びマドレーヌが出て言った。 「ねえ、ジャノ。私たちはこっちで、あなたと一緒にいると思って、ジョルジュとウィスキーを飲むわ。あなたもそっちで私たちと一緒にいると思って飲んでちょうだい」 そうすると答えて、電話を切るマレー。 ベッドに横たわり、眼を閉じる。とりとめのない妄想が浮かんだ。妄想の中でマレーはマドレーヌにもう一度電話し、「これから手首を切って自殺するよ」と宣言していた。 「聖マドレーヌのお祝いにね。明日君の友達に話せよ。きっと盛り上がるぜ。ぼくは本気だ」 マドレーヌの驚く顔が浮かんだ。慌てふためいた声で、ジョルジュを呼んでいる。 「ジョルジュ! ジョルジュ! ジャノが手首を切るって! 早く救急車を呼んで!」 そのとき、本物の電話の音が、マレーを夢想から引き剥がした。 「ジョルジュ様からです」 ジャンヌが呼びに来て告げる。 「ジャン、起きてた?」 ジョルジュの声を聞くと、自分のばかばかしい妄想が恥かしくなった。 「ああ、起きてたよ」 「今、マドレーヌと2人でウィスキーを飲み終わったよ。君のことを思いながらね」 「ぼくもだよ」 嘘をつく。 「明日の夜も同じようにするから。君もそうしてよね」 相槌を打って電話を切る。再び1人の夜の静寂が胸を締めつけた。 ――嫉妬してる? 俺が、マドレーヌに? まさか…… マレーは憮然となった。眠れぬまま横たわり、空がしらじらと明らむのを見ていた。 仕事は詰まっていた。新しい舞台の美術を1つ、別に演出を1つ。翌日は、寝不足のままアトリエにこもる。夜またジョルジュから電話があった。マドレーヌと一緒に、マレーを思いながらウィスキーを飲んだと告げるために。 「ジョルジュ、そんなにこだわってたのか……」 ――それなら、いっそ会いにこいよ。 「え?」 「いや、また飲んでいたのか、マドレーヌと?」 「そうだよ。君の話をしながらね」 「そうか……」 「どうしたの? つまらなそうな声だね」 「ちょっと疲れてるだけだよ」 「忙しいのか」 「うん、まあ……」 ジョルジュはアンリの容態を尋ねた。きのうと同じ答えをするマレー。ジョルジュは長電話は迷惑になるから、と言って切った。 マレーは不眠に悩まされるようになった。むしろ夜遅くまで起きていることができない性質だったマレーには、まったく初めての体験だった。 <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.08.10 19:27:29
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