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日本の流行歌の作詞家で誰が好きかと聞かれたら、まちがいなく「なかにし礼」と答える。なかにし礼の世界には、ジメジメした日本人的な狭い感性を超えたスケールと洒脱さがある。
だが、フィギュアスケートに対するコメントはいただけない。今回のフランス大会(エリック杯)の浅田選手の音楽についても、「他の選手は、スピンやスパイラルで観客と一体となって盛り上がるように音楽を変えたりする。そういう工夫をすべき」などと発言した。 全体を1つの曲で流す振り付けは確かにメリハリに欠けるように思うかもしれない。だがそのなかで情感を表現するのは、より深い表現力を必要とするから、高度でやりがいがあるのだ。たとえばお芝居で感情表現をするのに、誰にでもわかりやすいバックミュージックの力を借りて、オーバーに演じる俳優が名優だろうか? 抑制された音楽のなか、さりげない仕草やちょっとした表現で深い情感を演じられる俳優こそ名優ではないだろうか? タラソワが作ろうとした世界はそうしたものだ。 しかも今回の浅田選手のプログラムはスローパートがない。最初から最後まで「走りっぱなし」の驚異的な構成。だから一見、単調な構成に思えるかもしれない。だが、それは、故意にそうしたのだ。ああした振り付けができる人はそんなにはいない。だいたい冒険にすぎる。いくつかの曲を組み合わせ、どこかで失敗しても息を整えられるパートを作ったほうがよほど簡単だし、ラクなのだ。それを「あえて」やらなかったのだ。プレ5輪だからこその挑戦で、かつてタラソワが教えて長野で男子シングルの金メダルを獲ったイリヤ・クーリックの仕上げ方に近い。 クーリックは5輪前の世界選手権では、難しいプログラムに4回転も入れて精彩を欠き、結果が出なかった。ところが長野オリンピックまでに見事にジャンプをものにし、プログラム構成を若干ラクなものにすることで完璧な演技を披露、金メダルに輝いたのだ。長野のクーリックのフリー『ラプソディ・イン・ブルー』は実のところ、クーリックにしては、ずいぶんと途中に「お休み」のあるプログラムだった。だが、お休みの部分はあたかも「思索にふけっている」かのようなポーズを入れてお休みに見えない工夫をし、動と静のメリハリをきかせ、さらにそれまでなかなか安定しなかった4回転も見事に――ふつうなら決められるジャンプもミスる――オリンピックという大舞台で決めたのだ。 タラソワが教えたもう1人のオリンピック金メダリスト、ヤグディンもそうだ。ヤグディンはプルシェンコに対して、5輪前の欧州選手権、世界選手権の直接対決で分が悪かった。「もうヤグディンは終わり。プルシェンコの時代だね」と誰もがその時点で思った。ジャンプの確率ではプルシェンコのほうが上だったからだ。だが、一番大切なオリンピックで勝ったのはタラソワ&ヤグディンだったのだ。タラソワが浅田選手とともにやろうとしていることは、このクーリック、ヤグディンの再現であり、佐野稔をはじめ、「まともな解説者」ならそんなことはわかっている。 タラソワの思惑も読み取れずに、並みの選手がやるような「音楽でスピンやスパイラルで盛り上げる」ような、わかりやすく平凡な振り付けをすべきなどと、したり顔でアドバイスするとは失笑ものだ。もちろん、誰もがタラソワの選曲や振り付けを好きになる必要はない。それは個人の自由だ。だが、公共の電波で発言する以上は、基本的なことぐらい知っておくべきだし、知らないならば、「あくまで無知ないちファンの主観である」ことを明らかにするぐらいの礼節はわきまえるべき。マツコ・デラックスほどになるには相当長い間フィギュアを見続けなければいけないが、せめてなかにし礼にも、あそこまでしたり顔で発言するなら、もうちょっと、ほんの少しでいいから今のルールを勉強してほしいと思う。 なかにし礼のスピン&スパイラル批判が的外れであることはプロトコルを見ても明らかだ。今回の浅田選手のフリー演技は、ジャンプでは点が取れなかったが、スピンとスパイラルではずらりとレベル4を並べ、キム選手以上の評価を得た。つまり、「スピンとスパイラルはよかった」のだ。観客と一体となって盛り上がらなくても、ジャッジは高い評価を与えないわけにいかなかった。 もっといえば、あのプログラムの最大の見せ場は、最後の圧巻のステップだ。そこにクライマックスをもっていくためには、途中のスピンやスパイラルで中途半端に盛り上がってはいけないのだ。個人的には選曲も素晴らしいと思っている。これまでの浅田真央選手にはなかった、重厚で悲劇的な旋律。キム選手の選んだような、フィギュアではよくある「ありがちな」曲ではない。浅田選手のイメージを一新させるような大胆で果敢な選曲、魂を揺さぶるようなシンバルの音が、これまで誰も見たこともない氷上の世界の扉を開く。見れば見るほど味わい深いプログラム構成。最後のステップには度肝を抜かれて、声もなく見入ってしまった。皆と一緒に手拍子ハイハイと盛り上がるようなレベルを超えていた。 なかにし礼はキム選手のミスが少なく、妖艶な演技を常に褒めている。好き嫌いは自由だし、キム選手が非常に素晴らしい選手だということに異論はない。今年はキム選手が突発的な怪我や極端な不調にみずから落ち込まない限り、彼女に勝てる選手はいないだろうことは、すでに浅田選手が演技を披露する前から書いた。これは去年の段階で、浅田選手がジャンプにいくつもの不安要素を抱えていたこと、逆にキム選手にはそれがなく、課題は体力的な問題だけで、今年はそれを克服していたこと(もっといえば、新しい挑戦は何もしていないこと)から判断して書いたことだ。 だが、浅田選手だって素晴らしい。彼女にはキム選手ができない高度なジャンプ――セカンドに跳ぶトリプルループとトリプルアクセル――があること、常にプログラム構成を密にし、高いレベルに挑戦していること、ステップの細かさとそれを活かしたフィギュアならではの動的で華麗な表現力、柔軟性、体力ではキム選手をはるかに凌駕していることにまったく触れずに、キム選手が試合で勝ったからといって、「日本選手はキム選手をみならうべき」なとと決め付けるのはどうだろう。 Mizumizuも個人的には大技への「果敢な挑戦」が日本選手を負けさせていると思っている。それを煽るメディアにも嫌悪感を禁じえない。高橋選手の今回の大怪我も「4回転2度」という挑戦と無縁ではない。採点方法が矛盾だらけで、キム選手のようなタイプに有利にできているのは過去にも書いたとおり。だが、なかにし礼のコメントには、そうしたフィギュアの現行のルールや選手の特長や個性、それぞれの選手の掲げる目標といった視点がまったく欠落している。 しかし、ネット社会という「世間の目」は、案外ちゃんとこうした「的外れな文化人のコメント」を見ているものだ。 ウィキペディアには 「フィギュアスケートに関するニュースの際は必ずと言っていいほどコメントをしているが、しばしば間違った知識による的外れな発言があり、スケートファンの間では評判は決して芳しくない。また韓国のキム・ヨナの大ファンであり、最も評価している選手の一人であると公言している。 一方、現世界女王の浅田真央に対しては辛らつな批評を繰り返しており、いわゆる玄人受けのいい浅田の音楽性豊かで洗練された演技スタイルは、なかにしの好みには合わないようである。その論調は、しばしば公平性を欠き、偏った主観と感情論であることが多く、一般視聴者にまるで浅田には芸術性や表現力がまったくないかのような誤解を招きかねない発言をすることがある。そのため、今年3月の世界選手権で浅田が優勝を飾り、ご贔屓のキム・ヨナが3位になった直後の放送では、コーナー中、終始かたい表情で無言を貫いた」 などと書かれ、偏りを揶揄されている。 今回のフランス杯のコメントに対してもさっそく http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1020778535 ↑ こんなふうに叩かれている。 なかにし礼を叩くコメントにもひどい偏見や誤解、行きすぎで根拠のない罵倒がある。だが、世間にはこうした目で彼の発言を聞いている人もいるということだ。なかにし礼と彼をコメンテーターとして使うテレビ局は注意すべきだろう。日本は今、空前のフィギュアブーム。人気が出ればファンの意識や知識も高くなる。なかにし礼以上にフィギュアを愛し、フィギュアに詳しいファンも多い。そもそも、なかにし礼は、その発言から明らかなように、フィギュア――ことに新採点システム――にはまったく暗いのだから。 こうしたネット社会の匿名でのバッシングは暗部も多い。朝日新聞や毎日新聞などの左派系のメディアはネットでバカにされることが多いから、目のカタキにしている。メディアが何かを報道する際に、「あえて」隠したことが、2ちゃんねるでバラされて、「おまつり」になるなんて以前では考えられなかった。巨大な力を持ったメディアの偏った立場を、「偏っている」と指摘できる場ができたことは、ネットの大きな功績だと思う。以前なら、「XX(新聞・テレビ局・有名文化人)って、偏向してるんじゃいの」と思っても、なかなかその意見を多くの人々と交換できなかったし、一般人には発言の場もなかった。 「なかにし礼のフィギュアへのコメントは変」だと思うと、さっそくそう書かれる。案外一般人というのは、素人であっても「よく見ている」のだ。 松岡修造がフィギュアの報道に携わって長いが、だいぶ以前よりおとなしくなった。前はストーカーまがいの行動で、うら若い女子選手を追いまわして奇声をあげ、ネットでずいぶん叩かれた。彼の暴走を止めた一因も、ネットでのバッシングにあったと思う(次はフジテレビのアナウンサーか?)。 松岡修造がフィギュア――それも女子シングル・苦笑――を愛してきたことは間違いない。過去に(とても素敵だという意味を込めて)「ルー・チェン選手っていつも赤を着ますよね」という発言をしたのを聞いたときに、Mizumizuは「ああ、この人はフィギュアが好きなんだな。よく見ている」と思った。情熱をもった人が報道に携わるのはファンとしても歓迎したいのだが、方向性が問題だ。ことにいい年の男性が若い女子選手をレポートするときは、ある特定の選手だけを贔屓したり(たとえ彼女がどんなに素晴らしく、彼好みであっても)、外見の美しさをことさら褒めたりするのは、たとえ悪気がなくても控えるべきだろう。いちファンなら身内で何を言ってもいいが、公共の電波でレポートする立場なら考えるべき。フィギュアは美を競う競技であると同時に、どこまでもスポーツなのだ。 フランス大会でロシェットが優勝し、グランプリ・ファイナルへの出場を決めたときの、松岡修造の「おめでと!」は明らかに投げやりでイヤミだった。意地悪な部活の男子の先輩が、好きでもなく、たいしたことないと思っていた後輩の女子選手が意外な活躍をしたもんで、「へ~、キミ勝ったんだ。ふ~ん、キミがねえ。おめでと!」と言ってるみたいな失礼さ。あれが松岡氏も実力を認めている別の選手だったら、たとえ日本の浅田選手が負けたといっても別の言い方をしたのではないか。声のトーンまで高くなっちゃて、「しかし、XX・XX、強い! すごかったですね~!」とかね。 ロシェット選手の5コンポーネンツは今年奇妙なほど高い。それには違和感をもたないでもないが、採点に不透明な部分がつきまとうのは、フィギュアの場合ある程度仕方のないことだ。それよりも、ロシェット選手はすでに22歳という女子選手では終わりに近い年齢であるにもかかわらず、去年より身体をさらにシェイプし、筋力をつけてきた。ジャンプの着氷時にフリーレッグを思いっきり上げてキープできるパワーには目を見張る。あのフリーレッグの美しさ、力強さは女子のレベルを超えている。ジャンプやスピンの軸もよくなった。こうした彼女の努力をジャッジが見ていて、高く評価したのなら、選手にとっても励みにもなるし、嬉しい結果だろうと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.11.21 06:32:32
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