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カテゴリ:批評
すこし前のカップヌードルのCMが好きだった。あらゆる歴史的瞬間にたちあうカップラーメン。もちろん合成映像なのだが、食べるという行為の前で人は平等に動物である。というあたりまえさがなんだかおかしくも胸をうった。
コトバは通じなくてもおたがい人間なんだ、というのを認識するのってそういう単純なことだ。そしてその単純さがなかなか機会がない。おたがい同じじゃないか、という発想はどちらかの文化のおしつけになるかもしれないが、「オレとオマエは違うけど、でもこれうまいよな」とか「眠いよなあ今日」という一瞬のひっかかり、すれ違いみたいなものって奇跡だ。大切だと思う。たとえば花の前でみな優しい顔をするはずだ。 本書は内戦の時代を経たアンゴラの少年の写真集。部屋と全身写真とインタビューで構成されている。 著者との関係でみせる表情と、ふつうのやりとり。激しく訴えたりしない「画」に涙がでた。アンゴラの歴史も知らない(前書きに書いてあるのだが)し、アフリカへの思い入れもない。なのに胸をゆさぶられる。 淡々とつづられるふつうの営み。ガキンチョぶりが、リアル。ああどこでも人は生きているのだなあ。こどもはどこでもこどもだなあ。というあたりまえの「生」がなまなましくていい。けなげという表現が適当かどうかわからないが。国をつくる「これから」の少年たちがいる。 そして、少年であるということ。「これから」だけでなく、親の存在が透けてみえる。いないとこたえる子もいる。つまり、「いままで」の歴史あってこそのかれらの姿というのが必然といろいろなことを考えさせるのだ。 笑顔でもなく不安にかられたわけでもないふつうの表情。こちらが顔色を探してしまう。ひきつけられる画だ。 たとえるなら結婚式の風景か。わざわざ語らなくてもみえてくる絆、縁、未来と過去。 訴えたい熱いものがあるはずなのにあえて訴えないやせ我慢ぶり。あえて押しつけないうまさ(というと計算高くきこえるか?)。その著者の強さにうたれる。血や肉は特撮でつくれても、人の気持ちは特撮ではつくれない。 インタビューがあくまで情報ではなく、心をひらくための道具としておこなわれているのもいい。心をひらかなかったとしても、そこにみえるのもまたアンゴラの少年の現状である。社会派から遠くあろうとして社会派になっている、力強く静かな作品。 かれらに幸あれ。(♂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年09月17日 01時48分29秒
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