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カテゴリ:哲学
会社をやめた人がカツドウカになっていた。
びっくり。 新聞に名前を見たときは同姓同名の他人かと思っていたが、写真つきで新聞にでていた。 「こう叫んだのは都内在住の~さん」叫びましたかそうですか。プロなんとかという類だ。 同僚にいうと 「食えるのカツドウカって?」だれもが同じコメントなのがおかしい。 遠くの思想より近くのパン。世間様というのはそんなもんだろう。 会社員のままじゃできなかったのか? 自分も(違うジャンルにせよ)ヤクザな道を行ったから余計心配してしまう←おまえがいうなという話かもしれないが。 団体経営ってどうなっているのか?とホームページをのぞくと。 カンパはうけつけていませんとの記述。ほほう、志は高いようだ。 が、かつてその手の団体に関わった同僚にきくと 「金を出すバックがいるということだよ」嗚呼資本主義。 とある政党は活動のために下っ端に蜜柑を売らせていると聞いた。産経が同情的に書いていたのを覚えている。 こういう活動ってもしかしたらもっと手軽にやりあうべきではないか。。 「おまえの蜜柑売れよ!そのかわり俺の新聞3か月な!」「ざけんな!オレのパー券買ってくれよ」みたいな。 不真面目でしょうか?いやいや、日常からとことん政治を排除した結果が結局2世議員とタレントとポピュリストだらけの衆愚政治なんじゃないの? などと語ってみたり。 30超えてから茨の道をすすむ彼をこちらからどうすることもできないし、心配しかないのだけれど。 つい、そういう「脇道」にいくひとを気にしてしまう。自分探しの一種なのかもしれない。かつて自分がそれた寄り道の確認というか、自己分析というか。 おそらく自分もそういう心配をされたのだろう。あるいは笑われたのかもしれない。いまとなってはしるよしもない。聞くのも野暮というものだ。 あまりがんばれとはいいたくない。ただ問うだけだ。 で、どこまでいくのか?と。 わたしは年齢で線を引いた。設計図っていったいどうなっているのか。どこまでかけているのか?試合にでるのはいいが、笛を鳴らすのも自分だ。 余計なお世話なのはわかっている。わかっちゃいるけれど、やめられない。 ・・・そんな気持ちを日本語で下世話という。(♂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年01月26日 01時04分25秒
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