福井晴敏「終戦のローレライ」(講談社文庫)
早々に買いながらなぜか5年も放置した本。映画公開に乗っかる商売があざとくていやだったのだ。読み終わったら観たくなったけど(笑)。こりゃたしかに妻夫木しかいないわ、うん。
戦後教育には歴史感覚に継続性が欠けている。「大戦を機にリセット」という認識は思考停止させるだけだ。
塗り替えた壁からも染みはやがてでる。それを受け入れたところから物事を考えるべきではないか。さもないと重大な空白を抱えつづけるだろう。
新しい日本はなかった。違う戦いをはじめただけだ。そして今があり、傷ついている。
そんなことを考えている。いまさらだけど。
第二次大戦末期、ローレライとよばれる秘密兵器をめぐっての日米間の攻防と陰謀。時代の渦に巻き込まれた人々の群像劇。
登場人物のだれもがいかにも日本人的な縛りがあり、甘さを含めていちいちうなずける。
まっすぐさとナイーブさ。潔癖ではあるが最後まで責任をとらない淡泊さ。愚直なまでにひとつの理で動くが、柔軟性には欠ける。マッカーサーがいったという「12歳」という表現はいまだにあてはまる気がする。
だがそれがいい。
話は駅伝のようだ。だれかの想いを託し、降り懸かる困難を越えて息も絶え絶えに辿りつくゴール。この著者独特の膨大なデータが纏わり付く文体とともに胸に迫る。
この手の話はエピローグが蛇足だったりすることが多いのだがこの物語は違う。「戦後」になってもなおつづく日本の戦い。最前線から見守る位置へと場所を移した説得力がある。それは前の世代をどうとらえるかを真剣に考えた結果といえるだろう。(♂)