|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「時間」というものは不思議なものです。「時間」は客観的に存在するものではなく心が創り出したものです。ですから、心の状態によって「時間」の流れ方は変わります。
「時計」は「変化」を記録するものであって、「時間」そのものを計る道具ではありません。「時間」は心の中にしか存在していないのです。というか、心の中に時間があるから、「時計」を見て時間を感じることが出来るのです。「心の中の時間」が時計の針の変化を「時間」として感じているから、「時計の時間」が発生するのです。 「時間」は「変化を感じる心」によって作られているのです。 現実にはいつでも「今」しか存在していません。過去とか未来とつながった「時間」は、心の中にしか存在していないのです。 それは「音楽」と同じです。音楽を聞いていても、そこにはただ「音」があるばかりです。その「音の連なり」を一つの「曲」として聞くことが出来るのは、心の中の「時間」が音の連なりを時間軸に沿って曲として構成してくれているからです。そうでなければ、「音」は「曲」にならずに、ただ生まれて消えていくばかりです。 ちなみに自閉症の子はこの「心の中の時間」がうまく機能していません。五感が感じた「変化」を心の中の時間軸に沿って構成することが難しいのです。だから、話し言葉を「言葉」として、その意味を理解することが困難なんです。 その「心の中の時間」は生まれつきのものではありません。それは「心」が生まれつきのものではないからです。人間の時間感覚は心の育ちによって大きく影響を受けているのです。ですから、時代や文化が違えば、そこに生きている人たちの時間感覚も異なります。 アマゾンの奥地の文明と接したことのない人々に「時計」を見せて、「時間」について説明しても、100%理解することは困難だと思います。なぜなら、彼らは、「機械」によってではなく、「自然」によって時間を計っているからです。 そして、機械が創る「時間」はどんなときでも「同質」ですが、自然が創る「時間」は同じではありません。自然は決して同じことを繰り返したりはしないからからです。自然界に昨日流れていた時間と、今日流れている時間は同じではないのです。 時計はただ同じ時間を繰り返えすばかりですから、昨日の9時と、今日の9時とでは全く同じ9時です。でも、昨日の日の出と、今日の日の出は同じではありません。 それは子どもたちでも同じです。子どもと大人は異なった時間を生きているのです。だから何べんも「急ぎなさい!!」と言っても通じないのです。 私がここに書いているようなことは、一見「哲学的観念論」に見えますが、でも、これは観念論ではなく「事実」なんです。でも、その「事実」が心の中にしか存在していないので、客観的な科学として扱うことが出来ないだけのことです。 でも、その「心の中の事実」が存在しているから、私たちは言葉を理解し、お互いに気持ちを通じ合わせることが出来るのです。 子どもの頃のことを想い出してみて下さい。そこで流れていた時間が、「大人になってからの時間」とは異なっていることを感じることが出来ますか。 幼い子どもに「時計」を見せても、その意味を理解することは出来ません。でも、「砂時計」なら理解することが出来ます。砂が落ちるのは自然現象として体験することが出来るからです。 ですから、「早くしなさい!!」と怒鳴っても理解できない子どもでも、砂時計を見せて「お砂さんと競争だよ」と言えば理解できるのです。 現代人はあまりにも、「心の目」で物事を見る能力を失ってしまいました。だから「子どもの心」が見えなくなってしまったのです。そして、「時間」に拘束され、振り回されているのです。 「心の目」を使わないことには、「他の人の心」も、「自分の心」も見ることは出来ないのです。 実は、「自分の時間を取り戻す」ということは、「自分の心を取り戻す」ということに他ならないのです。「心」を失(亡)っているから「忙しい」のです。この「忙」という漢字を創った古代の人にはそのことが分かっていたのです。 ですから、私たちは「心」が凝縮されているようなものに触れると時間を感じることが出来ます。「心」を感じると、その人の「時間」を感じるのです。 そのことが一番端的に分かるのが芸術的な作品と触れた時です。ミレーやゴッホの絵を見ていると、ミレーやゴッホの心の中の時間を感じることが出来ます。ロダンやブールデルを見ているとそこに凝縮された時間を感じることが出来ます。だから一流の芸術作品は見飽きることがないのです。 でも、それはもっと日常的なものでも同じです。心を込めて作ったお料理でも、セーターでも、心がこもっているものと触れた時、人はそこに「時間」を感じるのです。だから、「大切なもの」になるのです。 「もったいない」という言葉は、「物」に対して使うものではありません。「時間」に対して使うものです。「ありがたい」も同じです。 大根一本でもそれが種から、私たちの食卓に上がるまでは何ヶ月もかかっています。また、お百姓さんの時間もそこには注ぎ込まれています。だから値段にかかわらず粗末にしてはいけないのです。「高いものだからもったいない」ということではないのです。 「生命」も「物」ではなく「時間」です。私たちは生命を与えられて生まれてきましたが、それは「時間」を与えられて生まれてきたと言うことです。ですから、「生命を大切にする」ということは、「自分に与えられた時間を大切に生きる」ということです。 人を殺すということは、相手の「時間」を奪うということです。だからいけないのです。 「食べる」ということは「相手の時間」をもらうことです。全ての生き物は、相手の時間をもらうことで自分の時間(生命)を支えているのです。 でも、現代社会では「もったいない」は「物」に対して使われています。だから話がおかしくなってしまっているのです。お母さんが子どもに「もったいないからちゃんと食べなさい」と言う時、その「食べ物」はお母さんの時間を凝縮したものだからなのではないですか。 だから、一生懸命に作ったものを残したり、無駄にされると腹が立つのです。「一生懸命の時間」を否定されたように感じるからです。材料費が無駄になったからではないですよね。 でも、現代人は「機械の時間」の方ばかり大切にして、「心の時間」「生命の時間」を大切にしなくなりました。だから「物の価値」を、作った人の想いや時間ではなく、材料費や人件費で計算するのです。 「時間」という価値では、100円ショップのものでも、そうでない物でもそこに違いはないのです。人件費が一日500円程度の労働で作ったものでも、一日1万円の人件費を掛けて作ったものでも、「もったいない」という基準ではそこに違いはないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|