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虐待の問題は非常に深刻で、しかも複雑で、時には生命の危険にもつながります。さらに個人の問題を越えて、家族の問題、社会の問題ともつながっています。
大分以前に相談を受けた方の虐待はすさまじかったです。思わず、「それでよく死ななかったね」と返信に書いてしまったほどです。時々、新聞に虐待死の記事が出ていますが、それと同じかそれ以上のレベルの虐待を受けていたのですから。 その方は大人になっても幼い時に受けたその虐待の苦しみ、トラウマから抜け出すことが出来ずにメールで相談されてきました。 でも、苦しみは「虐待を受けた人」にだけあるのではありません。「虐待をしている人」にも苦しみはあるのです。 「虐待をやめることが出来ない」とか、自分がやってしまった虐待で子どもが苦しむことになるのではないかと苦しんでいる人もいっぱいいます。 また、自分の行為が虐待だとは思っていないで虐待を繰り返している人にも苦しみがあります。虐待は「苦しみの連鎖」によって起きるのです。 その苦しみの根幹には「孤独」があります。人間は叩かれたり、食べ物がなかったり、どんなに辛い状況の中でも、孤独でなければ生きていくことが出来るのです。それが人間の強さです。 でも、物質的にはどんなに豊かな生活を送っていても、他の人とのつながりが断たれてしまったら実存的な苦しみに苦しむことになるのです。それが「孤独」です。 BBSに書き込んで下さっているkiraさんのご主人はアスペルガー的な傾向があるようですが、そのことで幼い時から孤独に苦しんでいたのだろうと思います。アスペルガー的だから暴力的なのではなく、子どもの頃から理解されずに育ってきたから孤独になり、暴力的になってしまっているのではないかということです。いわゆる「二次障害」と呼ばれるものです。 子育てでも、教育でも、障害を持っている子との関わりでも、何よりも一番大切なことは「子どもを孤独にしない」ということなんです。 人間にとっては「死」よりも「孤独」の方が恐ろしいのです。だから孤独な人は時として「暴力」によって孤独を忘れようとしたり、「死」を選ぶのです。暴力を振るっている時は、その「他者との直接的なつながり」によって孤独ではなくなるのです。暴力を振るっていると安心するのです。 これは「イジメ」でも同じです。イジメが死につながるのは、イジメそれ自体が辛いからではありません。みんなとのつながりが断たれて孤独になってしまうからです。 だから、時としていじめられている子は必死になっていじめる子に付いていこうとするのです。その結果、周囲の大人にはそのイジメが見えにくなってしまうのです。 同じ理由で、幼児虐待でも子どもは決して親のことを悪くは言わないそうです。そして虐待を受けながらも親に付いていこうとするのです。虐待を受けていることより、孤独の方が苦しいからです。だから、「虐待の発見」が困難なんです。 そのため、いじめられていた子が「死」を選んでしまったとしても、そのほとんどの場合において直接「死」につながるようなものは発見されません。子どもは「直接的な行為」によって殺されるのではなく、「孤独」によって自ら「死」を選ぶのですから。 そしてその時、いじめた子どもたちに罪悪感はありません。いじめる子どもたちもまた孤独な子どもたちだからです。実は、人は孤独になると罪悪感を感じにくくなるのです。なぜなら「罪」というものは人と人のつながりの中でしか意味を持たないからです。 そういう状況の中ではそのいじめの「罪」を問うことは困難です。心理的ないじめに証拠はありません。また、「悪いことをした」という自覚もないので誰も事実を話しません。先生も、親も、クラスの中で何が起きているのか全く分かりません。いじめている子どもたちだって分かりません。そのいじめの内容が分かっているのは、いじめを受けている子どもだけです。 孤独な子どもたちは、誰かをいじめている時にだけ孤独ではなくなるのです。だから、誰かをいじめていると安心するのです。 ですから、いくら大人が「イジメをやめよう」とか「死なないで」と言っても無駄です。子どもたちを孤独にしないようにする以外に、イジメや自殺をくい止める手だてはないのです。 そのためには、子どもたちを比較し、競争させることを止めることです。他の子との比較の中でしか自分の存在を認めて貰えない子どもたちは孤独です。また、子どもらしさを認めてあげることです。そうでないと自己肯定感を育てることが出来ません。自己肯定感が低くなると孤独になるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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