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私は現代人があまりにも「正解」にこだわっていることに危機感を感じています。以前、あるお母さんから「子どもは褒めて育てた方がいいのでしょうか、それとも厳しく叱って育てた方がいいのでしょうか」と聞かれました。その時私は「褒める時には褒めて、叱る時には叱ればいいのですよ」と答えたのですが、でも「それではどんな時に褒めて、どんな時に叱ったらいいのかが分からないので、どっちの方がいいのかを教えて欲しい」というのです。
自分の頭で考えると言うことは、必然的に「不安」がつきまといます。私だって不安を感じながらこのブログを書いています。だから、何回も何回も読み直して校正しているのです。それでも、多少の不安は消えません。 ですから、自分の頭で考えることに慣れていない人の場合は、「自分で考えなさい」などと言われてしまうと私以上に不安になるでしょう。そして、それが大部分の人の感覚だろうと思います。 なぜなら、日本人は「自分の頭で考えること」に慣れていないからです。それは、日本人の能力が低いというより、そういう教育を受けていないからです。 ちなみに私は「本を山ほど読むこと」、「幾何学」、「数学の証明問題」、「様々な表現活動」、「物理学の学び」、「造形活動」、「身体的なエクササイズ」、「文章を書くこと」などを通して、自分の思考力を育ててきました。というより、結果としてそのような活動が自分の思考力を育てるのに役に立ってきたということです。 そして、これらに共通しているのは「正解がない」ということです。計算問題の答えには正解があるのですが、証明問題には「たった一つの正解」というものがないのです。だから、証明問題の答えを覚えても意味がありません。また、「答え」には正解がある計算問題でも、その解き方は一つではありません。 ガウスという数学者は、子どもの頃学校で「1から100までを足した数を求めなさい」という問題が出た時、即座に答えを言ったそうです。他の子は「1+2+3+4+・・・」とまじめにやっている時に、あっという間に答えを出してしまったのです。 日本の子どもなら「答えを暗記していた」という事なのでしょうが、ガウスは考えたのです。その計算式は「101×100÷2」です。お分かりになりますか。これなら暗算で出来ますよね。 あるお母さんから聞いたのですが、その方のお子さんが自分なりのやり方を発見して数学の証明問題を解いたのに、先生が「正解集の解き方と違う」というだけの理由で「間違い」にしてしまったそうです。 日本の教育は「正解」を覚えるだけの教育です。理科や数学の授業ですら同じです。音楽や絵画ですら「正解」を覚えるだけです。そういう授業しかやっていないので当然思考力は育ちません。それなのに、国際的な学力調査で日本の子どもの思考力が低下していると騒いでいます。 自分の頭で考えることを否定するような教育をしていたら思考力が育つわけがありません。そんな当たり前のことが分からないほど日本の政治家の思考力は低下しているのです。だから、「大人の政治」が出来ないのです。 自分の頭で考えることが苦手な人は「正解」を求めます。マニュアルを求める人も同じです。そして、正解やマニュアルがなくて、「自分の頭で考えなければならないような活動」には近寄りません。やむおえず、そういう活動をしなければならない時には強い不安におそわれます。 最初に書いた母さんも「正解」を求めているのです。自分の頭で考えることが出来ないので、「正解」を与えてもらわないと不安になってしまうのです。ですから、色々な本を読んだり、講演会に参加したりして「正解」を求めているのです。 でもそれが、もともと正解があることならばそれでもいいのですが、「子育て」には正解がありません。それで、不安を解消するために勝手に「正解」を作ってしまう人がいっぱいいるのです。 特に自分の体験談だけで子育てを語る人にその傾向があります。世の中には色々な子どもがいて、色々なお母さんがいて、色々な事情や状況があるのにもかかわらず、自分が体験から学んだことだけを「正解」として言い切ってしまうのです。 そして、多くの母さんがその「成功例」を「正解」として信仰します。 そして、その正解から外れた子育てや子どもは非難の対象になります。 みんな理想的な「正解」を求めるあまり、「目の前の現実」と向き合おうとしないのです。まるで宗教のように、「正解」を信じることで将来の「安心」を手に入れるのです。 でも、その「正解」は「誰かさんの正解」かも知れませんが、少なくとも「あなたの正解」ではないのです。 今、学校では子どもを叩きません。でも、昔の先生はよく子どもを叩きました。中にはそれで苦しんだ人もいるでしょうが、それでも大部分の子どもたちは「また叩かれちゃったよ」程度でやり過ごしていました。 今の先生は叩きませんが、でも、だからといって先生と子どもたちの信頼関係が強くなったわけではありません。むしろその逆のような気がします。そして、暴力の代わりに先生の言葉で傷ついている子どもはいっぱいいます。 ただし誤解しないで欲しいのは、私は「先生が生徒を叩くのは正解だ」と言っているわけではありません。ただ、「叩く」か「叩かない」かという見かけだけに正解を求めるのではなく、「学校は子どもを育てる場である」「教師は子どもを導き、育てる存在である」という認識に沿った行動であるかどうか、という視点で個々に判断すべき問題なのではないだろうか、ということです。 今の学校の先生は叩きませんが、昔の先生よりこの視点が欠落してしまっているような気がしてならないのです。それは「叩く」、「叩かない」という問題より、学校の存在意義そのものに関わるほど重要な問題です。 子育てでも「虐待はいけない」と言われます。実際、虐待で苦しんでいる子はいっぱいいます。死んでしまう子すらいます。子どもがそういうことで苦しまないように願うこと、そしてそのために活動することは大切なことです。 でも、それを「お母さんを監視するような方法」で止めようとするのは間違っていると思います。 「虐待はいけない」というのは、抽象論のレベルにおいては誰も反論できない「正解」です。でも、実際に「どのような行為が虐待に当たるのか」という具体的、現実的な状況においては正解などないはずです。 そこで勝手に「ありもしない正解」を作り上げて、それを基準にしてお母さんを監視しようとするのは、「子どもを育てる」という視点において正しいことなのだろうかということです。 結果として子どもが死んでしまったから「虐待だ」と非難されるだけで、そのまま成長してちゃんと一人前の大人になってしまっている人だっていっぱいいるのです。実際、幼児期に「虐待のようなこと」をやってしまったと証言するお母さんはいっぱいいます。そのような人の多くは、苦しみながらもその連鎖から逃れることが出来たのですが、その幼児期に「虐待」を通報されていたら、親子の関係はどうなっていたでしょうか。 私は、虐待の監視を厳しくしてお母さんを不安にするより、「お母さんを孤独にしない」ような活動の方に力を入れるべきなのではないかと思うのです。でも、政治家はそういう事にはあまり関心がないようです。 そして、そのためには学校教育から変える必要があるでしょう。 クラスの中でさえ、仲間が助け合うことができないような状況の中で育った子が、子育ての時だけ仲間作りが出来るわけないからです。 また、正解に依存せず、自分の頭で考える能力を育てるような教育にもっと力を入れるべきです。 虐待に走ってしまうお母さんの多くは「正解」に縛られているような気がするからです。正解に縛られているから子育てが苦しくなってしまうのです。 タバコの問題も同じです。タバコが体に悪いのは事実です。でも、それを「タバコを吸うことは悪いことだ」という正解を作り上げて、日本中から排除しようとするのはおかしいような気がします。 吸っていい所と、吸ってはいけない所を分けるのは大切なことですが、タバコやタバコを吸う人を「悪人」にするのは見当違いのような気がするのです。 「子育ての責任者はお母さんだ」というのも、誰かが作り上げた「正解」です。そして、多くのお母さん達がその「正解」に縛られています。 民主主義や自由主義が「正解」だというもの、誰かが勝手に作り上げた「正解」です。その「正解」を証明することは出来ません。 本来、正解のない世界では多様な価値観が共存していたのです。そして、正解はその価値観に基づいて、個々に存在していたのです。 価値観が違えば、正解も違うのです。 でも今、社会全体が「正義」の名の下に「価値観」を統一しようとしています。そして、それを「正解」として人々に押しつけています。 今、新聞で話題になっている「ホメオパシー」の問題も同じです。西洋医学だけしか「正解」として認められなくなりそうな雰囲気です。 代替医療に頼って、病院に行かないと、それだけで「虐待」として扱われそうな状況です。(うちもアトピーの時、病院に行かなかったのですがそれも虐待になるのでしょうね。) その原因は、ホメオパシーを信じている人たちが、ホメオパシーを唯一の「正解」にしてしまったからです。 本当はその両者がお互いに補い合えばいいのに、自分だけを「正解」にしようとするから、問題が起きるのです。 どうか、「テレビの言う正解」、「アメリカの言う正解」、「世間の言う正解」、「学校の言う正解」、「政治家の言う正解」、「学者の言う正解」をそのまま鵜呑みにしないで下さい。 そのような「正解」は「事実や現実」から切り離されたものです。「自分の正解」は自分の事実や現実に即して、自分で決めるものなのです。 「他人が作った正解」を信じていると、困ったことになりますよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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