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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2011.10.20
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カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日は「信じる」ということと「受け入れる」ということは同じことなのではないか、ということを書きました。

あと、これと関連して私は「待つ」ということも、「信じる」、「受け入れる」ということとつながっているのではないかと思っています。

太宰治が書いた有名な「走れメロス」では、王に捕らえられてしまったメロスが妹の結婚式を済ますまでの三日間、処刑を延ばして家に帰してくれるように王に頼みます。王が、そんな都合のよい申し出を受け入れるわけがないのですが、メロスが親友のセリヌンティウスを代わりに置いていくというので、王としては余興のつもりでそれを許します。

あとは皆さんご存じの通りですが、このセリヌンティウスはメロスのことを疑わずに待ちます。

そして、最後の最後で待つことが出来なくなると疑いの心が生じます。いや、疑いの心が生まれたから待つことが出来なくなったのか・・・・。

いずれにしても、ここでは「信じる」ということと「待つ」ということが同じこととして扱われています。

私はよく、「子どもを待ってあげて下さい」と言います。「待つことが愛情なんです」とも言います。

「子どもを愛することが出来ない」と苦しんでいるお母さんからの相談にも、「愛するということは感情の問題だから愛せなくてもいいんですよ。でも、待ってあげて下さい。子どもは待ってもらうことで、それを“お母さんの愛情”として感じますから。」と答えています。

逆に言えば、どんなに愛していても待つことが出来なければ、子どもはそれを「束縛」と感じるだけで「愛情」とは感じないものです。

「待っていてくれる=>信じてくれている=>愛してくれている」という構造なのでしょう。そしてこれは「待っていてくれる人がいる人」にだけ分かる感覚です。

そしてこれは単なる子どもへのごまかしではありません。

「子どもを愛することが出来ない」という苦しみに込められた「お母さんとしての愛情」を、子どもに伝わるように変換しただけです。

セリヌンティウスは何の疑いを持たず、メロスを待っています。そして、待っていてくれる人がいるからメロスは頑張ることが出来たのです。

待っていてくれる家族がいるから、お父さんは家に帰ることが喜びなんです。

待っていてくれるお母さん、お父さんがいるから子どもは自分が肯定されていることを知るのです。

自己肯定感もまた、待っていてくれる人がいるから育つ感覚です。

ただし、この「待つ」は単にタイマーを付けて待つというようなものではありません。私が言っている「待つ」ということの意味は、煮物をする時などに「10分」などとタイマーにセットして、その間テレビを見て、タイマーがなったら火を止める、というような事とは異なるのです。

「ズーッと心に留めていながら待つ」ということです。

戦後「岸壁の母」という歌がヒットしました。戦地に行った息子をいつまでも港で待ち続ける母親の気持ちを歌った歌です。

これは端野いせという人の実話を題材にした歌で、実際には息子は戻ってこなかったのですが、それでも待ち続けたのです。

そして、戦地に行った人達は「待っていてくれる人」がいたから、苦難を乗り越え、生き延びて日本に帰ってきたのです。

フランクルという人が、自分の体験を元にしてナチスのアウシュビッツの収容所の中の出来事を色々と書いています。

その中で、どんなに過酷な状況の中でも生き延びることができる人と、ちょっとしたことでも耐えることが出来なくて死んでしまう人の違いについて書いています。

そこで彼が発見したのは、必死で生き延びようと頑張ることができる人は、収容所の外に「待っていてくれる人」「待っている仕事」を持っている人だったということです。

もちろんそれはセリヌンティウスのように無条件で待っていてくれる人です。

そのような「待っていてくれる人」がいる、「待っている仕事」がある、というのは「自分には生きる価値がある」ということであり、それ故に「生きる希望」なのです。

この「待つ」ということは聖書にも書かれています。有名な「放蕩息子」の話です。

放蕩していた息子が帰ってきた時、父親は何も言わずに受け入れます。それは父親がズーッと息子のことを忘れないで待っていたからです。

そして、息子は父親がズーッと自分のことを忘れないで待っていてくれているということを知っていたから帰って来ることが出来たのです。

この「待つ」は無条件の愛です。聖書ではそれが「神の愛」ということとして書かれています。

「立派な人になったら受け入れる」とか、「よい子にしているなら待っていてあげる」というような条件付きの「待つ」ではありません。

万が一犯罪者になったとしても、またどんなに落ちぶれていたとしても無言で受け入れる気持ちで待つ、ということです。

セリヌンティウスは無条件でメロスを待ちました。
そして、幼い子どももお母さんやお父さんをそんな気持ちで待っています。

だから、子どもが「ゴメンナサイ」と言っても許さないお母さんはいっぱいいますが、どんなに虐待を受けている子どもでも、お母さんが「ゴメンネ」と言えば100%許してくれるのです。

私は一応クリスチャンです。(今は教会に行っていないという意味で「一応」ということです。)その私にとって「キリスト」や「神様」は待っていてくれる人です。

よく、「こんなにもいい人を殺すなんて、だから私は神様なんか信じないんだ」とか、「神様がいたらあんな悲惨なことなど起こさないはずだ」などと言う人がいますが、私はキリストや神様に「何かをしてもらうこと」を期待してはいません。「何かをするのは人間や私の仕事」だと思っているからです。

私にとっての「キリスト」や「神様」は「どんなことがあっても待っていてくれる人」です。ただそれだけです。でも、だから私は怖くないのです。

皆さんには待っていてくれる人がいますか。そして、待っている人がいますか。
もし、「待ってくれる人」がいなくても「待ってあげる人」にはなることが出来ますよね。そうすると、「待ってあげている人」が待ってくれるようになりますよ。

それが「子育て」なのではないかと思うのです。
幼い子どもは無条件で待っていてくれますが、あなたが年老いた時もあなたのお子さんはあなたを待ってくれると思いますか。





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Last updated  2011.10.20 09:10:01
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