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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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泣きながら笑って、… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

森の声

2012.06.03
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カテゴリ:カテゴリ未分類
私は子育てや教育において、とにかく一番大切なことは「自己肯定感」を育てることだと思っています。

このことに失敗した家族や社会や国は滅びます。それくらい大切なことです。

橋下さんや石原さんはそこのところが全く分かっていません。

橋下さんや石原さんだけではありません。他の政治家たちも全く分かっていないし。その政治家の指示通りに動いている教育者も分かっていないし、子どもを守らなければならない立場のお母さんやお父さんですら分かっていない人の方が多いような気がします。

どんなに成績が良くても、どんなに何かの能力が高くても、どんなに競争で勝ち抜いても、自己肯定感が育っていない人は「生きる喜び」を得ることが出来ません。

世の中の大人たちは、成績が良かったり、何かの能力が高かったり、競争で勝ち抜けば自己肯定感も高くなると思い込んでいるようですが、実際はそのようなものと自己肯定感は関係がありません。

自己肯定感を得るためには「条件付きの肯定」ではなく、他者からの「無条件の肯定」が必要だからです。
評価による肯定は、「ありのまま」を否定しているのと同じなのです。

実際、子どもの頃成績が良く、英語もピアノもかなりのレベルで出来るような才色兼備なお母さんが、自己肯定感を持つことが出来ず「子育てが苦しい」といって泣くのです。

80点を取れば90点を求められ、90点を取れば100点を求められ、100点を取れば次回もまた100点を求められます。そして、失敗は許されません。毎日毎日がその繰り返しです。このような生活の中で自己肯定感が育つわけがないのです。

自己肯定感が低いうえに、さらに成績が悪かったり、能力がなかったり、競争に負けてしまったりしたら生きる気力すらも失われてしまうでしょう。そのような人は、ただ誰かを搾取したり、誰かに依存して生きようとするばかりなのではないでしょうか。

そしてそのことに罪悪感を感じないでしょう。
自分は被害者であり、やられたことをやりかえしているだけですから。

そして、競争社会ではそのような人の方が圧倒的に多数です。

人は「やられたこと」をやりかえす時には罪悪感を感じないのです。親に虐待を受けていた子が、思春期を過ぎて親を虐待するようになっても罪悪感は感じないのです。

いじめられていた子が他の子をいじめても罪悪感は感じないのです。それを子どもの良心に訴えるような説得をしても無意味です。

そのような説得では「じゃあどうして私がいじめられている時には助けてくれなかったの」という怒りを目覚めさせるばかりです。

一般的に、人は自分がやられていたことをどうして自分はやってはいけないのかを理解することが出来ないのです。

昨日も書いたように、世の中には性善説とか、性悪説などというものがありますが、性善説を信じている親や大人に育てられた子は性善説を信じるような価値観を持ちますが、性悪説を信じている親や大人たちに育てられた子は性悪説を信じるような価値観を持ちます。

それは性善説を信じている親や大人に育てられた子は自己肯定感を得て、そうでない子は自己肯定感を失うからです。

それだけのことです。

ただし、ここで言う所の「性善説」は道徳的な価値観での性善説ではありません。忠武飛龍さんが辟易しているのもこの「道徳的価値観を強制するような性善説」なのでしょう。

「性」とは「本性」とか「生まれつきのもの」という意味です。そしてそれは、社会的な道徳とは無関係なものです。

ですから、「性善説」とは本来「あるがまま」を肯定する考え方でもあるのです。それは生命の働き、自然の働きを肯定する考え方です。

社会的道徳を肯定する考え方ではありません。

むしろ、社会全体の価値観が「生命の働き」や「自然」から離れてしまっている現代社会では、子どもの性善説的行動が逆に「悪」に見えてしまうのです。

忠武飛龍さんは
王陽明が「至善とは、無善無悪である」とか言ってます。

ともおっしゃっていますが、それは「至善」とは「あるがまま」ということだからなのでしょう。そこには社会的価値基準としての「善」も「悪」もありません。ただ「絶対の善」があるばかりです。

その「あるがまま」を否定するような行動や考え方は、自然界の中では淘汰されていきます。

人間の社会の中では肯定されても、自然界の中における人間の存在自体が淘汰されてしまうのです。

自己肯定感を失っている人たちは、つながりから切り離されている人たちです。逆に言うと、つながりから切り離されているから自己肯定感を得ることが出来ないのです。

そして、子どもたちは大人たちから「信じてもらう」ことで他の仲間や大人たちとつながることが出来るのです。

疑われている子はつながることが出来ないのです。

そして、また芸術の話に戻りますが、自己肯定感を失ってしまっている人は自由な芸術的行為を避けようとします。

自分の現実と向き合わなければならないからです。

自分のやっていることに罪悪感を感じていない人でも、そんな自分と向き合うことは避けるのです。自分を肯定できないからです。

私はそこに「性善説の根拠」を感じるのです。





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Last updated  2012.06.03 08:42:39
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