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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2012.07.13
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カテゴリ:カテゴリ未分類
「なぜ?」と問う子どもたちはいっぱいいますが、大人になるとなぜか「なぜ?」と問う人は急激に少なくなってきます。

また、私の個人的な印象ですが、今の子どもたちは昔の子どもたちより「なぜ?」と問わなくなっているような気がします。

その代わり、「ぼく知っているよ」ということをよく言います。そして、友達には「おまえそんなことも知らないのかよ」とも言います。

そして実際。今の子どもたちは色々なことを知っています。科学のことでも政治のことでも芸能界のことでも、ただ遊び回っていただけの昔の子どもたちよりは遙かに多くのことを知っています。

また、「なぜ?」と問う子どもたちに対しても、大人たちは色々な知識を教えてあげています。

造形の場でも、子どもたちはよく「ぼく知っている」「ぼく出来るよ」「そんなの簡単だよ」と言います。造形体験の少ない子ほど、平気でそういうことを言います。

でも、「じゃあ、自分一人でやってごらん」と言うと、実際には何にも出来ません。取りかかることすら出来ません。ハサミすらちゃんと使えない子がいっぱいいます。

子どもたちは「本当は自分たちは何も出来ないし、何も知らない」ということを知らないのです。

でも、自分は何でも出来て、何でも知っていると勘違いしているのです。でも、そういう子に限って、本当の自分と出会うと、急に消極的になってしまうのです。

子どもに「水てっぽう作らない?」と誘うと、「ぼく学校で作ったことあるから作れるよ」と言います。そういう子には「じゃあ、自分で作ってご覧」と言うのですが、竹などの素材を前にしてどうしていいのか全く分かりません。そもそも、竹と水てっぽうとの関係すら分かりません。

なぜなら、学校で作った水てっぽうは、ちゃんと規格化された組み立てるだけのキットだからです。

今の子どもたちは素材の状態から作ることが滅多にないので、「組み立てる=作ること」だと思い込んでしまっているのです。

そういう子にとっては、「知っている」ということは「分かっている」「出来る」ということと同じなのです。

そして、「知っている=分かっている」と思い込んでいる子ほど「なぜ?」と問いかけません。思い込みで作り始めるのですが、うまくいかなくなると、「なぜ?」とその理由を考えずに、すぐに「おしえて」とか「やって」と言ってくるか、「出来ない」といってやめてしまいます。

それで「どこが悪いのか、どうしたらいいのかを考えてみな」と言うのですが、「わかんない わかんない」と繰り返すばかりです。

そんな時は、「初めてのことをやっているのだから分かんないのは当然なんだよ。でも、考えればどうしたらいいのか分かるんだよ」と言うのですが、その「自分の頭で考える」ということ自体が出来ない子どもが多いのです。

幼い子どもたちは自分が生まれてきた世界のことを自分の体験とつなげて一生懸命に理解しようとしています。

子どもにとっては、「理解する」ということは、自分の体験や知識や価値観と、その事象をうまくつなげて、その事象を自分の世界観の中に組み込むことです。

つまり、外側と内側をつなげて、外側にあったことを内側に取り込む作業が「理解する」という行為なのです。分かりやすく言うと「食べてしまう」ということです。

それは、大人の客観的で論的的な理解とは全く異なる「理解」です。子どもは客観的、論理的な思考ができないので、食べて栄養にしてしまうしかないのです。

その時に「おいしい」と感じれば「理解した」ということになります。

大人は「お料理の作り方」を理解するのですが、子どもはその「お料理」自体を味わうことで理解するのです。

この理解の仕方は大人にもあります。そして、人間にとっては頭の理解よりもずーっと大切なものです。


それに対して、「覚える」という作業は、内側には取り込まずに、メモ用紙に書いて自分の外側に貼り付ける行為です。

そのやり方だと、いざというときに参照しやすいですが、「自分」を育てる糧にはなりません。また、いっぱい貼り付けすぎると感覚まで蓋をされ、さらには窒息の危険性すらあります。

外側にあったものを内側に取り込む際には、その整合性を整える必要があります。これは臓器移植と同じです。自分のからだに適合した状態にしてから移植しないと拒絶反応が起きてしまうのです。

それは、お料理でいうと味付けや調理に相当する作業です。

その整合性を整える過程において「なぜ?」という問いが発せられるのです。その過程で行われるのが「物語化」なのです。

子どもたちは「物語」という形に変換しないことには消化吸収できないのです。
「知識」という形のままでは、外側にしか貼り付けることが出来ないのです。

実は、「理解する」ということは「自分の物語の中に新しい物語を組み込む」という作業なのです。本当は、これは大人でも同じなのです。

「1+1=2」が正しいかどうかは機械でもチェックできます。でも、「1+1=2」を理解することは機械には出来ません。この違いが、お分かりになるでしょうか。

そして、人間にはこの「理解」が必要なのです。


ですから、「自分の物語」をしっかりと持っている人は、子どもでも大人でも「なぜ?」と問うことが出来ますが、その物語が混乱していたり、自分の物語に自信を持つことが出来ない人は「なぜ?」と問いかけることが出来ないのです。





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Last updated  2012.07.13 08:37:30
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