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日本の学校や社会や大人達は、「学校とは子どもの学力を高めるために存在している」と信じて疑っていません。
最近、ニュースで流れている静岡県での全国学力調査の結果発表の是非も、佐賀県の武雄市で、小中学生の全児童にタブレット端末を与えるというようなものも同じです。 そして、決して「学力とは何か」とか、「教育とは何か」とか、「学校とは何か」というような本質的な議論はしません。 「今更そんな青臭い議論はバカバカしい」とでも思っているのでしょうか。 でも、過去にもそのような議論をした形跡はありません。なぜなら、国民にも教師にも政治家にも、この問題に対する共通認識が全くないからです。 というよりか、公の場でその問題を議論するのはタブーなのだと思います。 多分この議論を始めたら日本の政治家や経済界が困るような問題を露わにしてしまうからです。 それは「原発」の問題と同じです。 以前読んだ本に書いてあったのですが、ある先生が子ども達に「自由に議論する体験」をさせようとしたそうです。 それで、「何でも自分の考えを自由に話していいんだよ」と言って、先生は少し離れたところから見ていたそうです。 そうしたら、子ども達の議論が学校の校則などの批判になり始めたため、先生が慌ててその議論を止めたそうです。 日本には「お上のやることを批判してはいけない」というタブーがあるので、自由な議論はあまり歓迎されないのです。 だから、大人達は子ども達に自由を与えず、「そんなの当たり前だろう」という感覚で、知識や常識を押しつけるのです。」 でも、それは経済界のためであり、国のため、親のためであって、決して「子どものため」ではありません。 実は、明治以降の日本には、教育が「子どもためのもの」であった歴史がないのです。それはまた国策でもあったのでしょう。 だから、意識的に「子どもの自立を促すような教育」は行わないのです。 理解よりも暗記を求め、絵や歌や感想文にまで点数を付け表現教育を否定するのは、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることをさせないための教育としか思えません。 そして日本の学校では従順さばかりが求められています。 だから、感性が豊かで自分の頭で考えようとする子ほど学校が嫌いになってしまうのです。 と書くと、「そんなことはない、学力を高めて良い学校に入ることは、よりよい人生を送るための基盤になるのだから、学力を高めることは子どものためなんだ」と反論してくる人もいるでしょう。 でも、実際には学力が高く、良い学校を出たからといって「幸せな人生」を送ることが出来るわけではありません。 東大を出た人の方が、三流大学を出た人よりも幸せだという証拠などないのです。 そんなことぐらい、子ども達だって知っています。 確かに、子ども達の学力が高い方が国際的な競争力は高くなると思います。国際的な競争力が高くなれば経済的にも豊かになります。 ただ問題は、経済的に豊かになれば幸せになることが出来るのかどうか、ということです。 現代人は「経済的に豊か=幸せ」と思い込まされてきましたが、でもそれは事実とは異なります。自分たちの努力を肯定するために、単にそう思い込みたいだけです。 一人一人個室とテレビとスマホを与えられ、物に溢れた豊かな生活をしている子の方が、狭い家の中でみんなで一つのテレビを囲んで、質素な生活をしている子よりも幸せだ、という根拠はどこにもないのです。 むしろ現実はその逆だと思います。 なぜなら、人間が幸せを感じるのは「物に囲まれている時」ではなく、「大好きな人や仲間に囲まれている時」だからです。 「幸せ」というのは「頭で判断すること」ではなく、「生理的な感覚」なのです。 そして、私は人間の根本的な感性は大人になっても子どもの頃と変わってはいないと思います。 ですから、子どもの頃に幸せを感じたようなことは、大人になってからでも幸せを感じるものです。 子どもの頃に悲しかったようなことは、大人になってからでも悲しいものです。 そして、子どもが一番幸せを感じるのは、仲間とつながり、お母さんやお父さんとつながり、笑いに溢れた生活をしているようなときです。 決して、「いっぱい物をもらった時」ではありません。確かに「物」をもらえばその時は嬉しいです、でも、嬉しいのはその時だけです。 「物」は一時的には幸せをもたらしてくれますが、常にそれは一時的なんです。だから、継続的に物を求めるようになるのです。 実際、子どもは「買ってもらった物」はあまり大切にしないものです。想い出が込められていないからです。 一流大学に合格すれば確かに嬉しいですが、でも、その喜びもその時だけです。 このような視点で考えていくとき、「大人にとっても幸せな社会のあり方」というものも見えてくるのです。 子どもが幸せな社会が大人も幸せな社会なのです。 それなのに大人達は「あんたはまだ子どもだから分かんないのよ」と、子どもの「今の幸せ」を犠牲にして、不確実な「未来のための幸せ」のために子どもを追い立てています。 その結果、「一時的な幸せ」しか感じることが出来ない社会が出来上がりました。 そして、子どもの頃には感じることが出来ていた「本当の幸せ」を感じることが出来ない大人ばかりが増えました。 そのような大人がまた子どもに「お前はまだ子どもだから分からないんだ」と言っています。 その「一時的な幸せ」を求める大人たちによって経済が支えられています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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