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人には2種類のタイプがあるような気がします。
真っ白いキャンバスを「自由に描いていいよ」と与えられた時、どうしていいのか分からずそれを苦痛に感じる人と、「やったー」と喜ぶ人です。 前者は、マニュアルを求めたり、他の人の絵を真似するでしょう。でも、それでは「自分の絵」が描けないので、人真似をして一見「上手な絵」が描けても、いつまでも絵を描くことに喜びを感じることが出来ません。自己肯定感も持てません。 ただ辛い作業になるばかりです。 それなら、後者の人なら喜びと自己肯定感を持つことが出来るのかというと、そこに現実的な問題があります。 日本の社会では、「自分らしい絵」を描く人より、「上手な絵」を描く人の方が評価されるからです。 そのため、自分らしい絵を描こうとする人は否定、非難されます。 そして、絵を描くことに自信と喜びを失っていきます。 それでも私は、「上手な絵」を描くことより「自分らしい絵」を描くことを勧めます。なぜなら、それこそが自分が生まれてきた意味であり、生きている証だからです。 そして私はそれが「命を大切にする」ということなのではないかと思っています。 世間一般的に「命を大切にしよう」と言うときには、「死ぬな」「殺すな」というようなことばかりが言われます。 でも、本当の意味で「命を大切にする」ということは、「死ぬな」「殺すな」ではなく、「しっかりと生きろ」「共に生きろ」ということなのではないでしょうか。 私は、教師やマスコミが「しっかりと生きる」とか「共に生きる」という視点を抜きに、「命の大切さ」を説くことに非常に強い違和感を感じるのです。 それは、「中味」よりも「容器」や「ラベル」を大切にする考え方です。 でも、教師もマスコミもそのような視点からしか「命の大切さ」を扱いません。自分たち自身が「命」を大切にしていないことが明らかになったり、話が深入りすることを恐れているからでしょうか。 そのような視点で見ていくと、現代社会は「命を大切にしない社会」です。「しっかりと生きる」とか「共に生きる」ということが大切にされていない社会です。 子ども達は「子どもらしさ」を奪われ、ゲーム機を与えられ去勢されています。生き物たちも「生きる場」としての自然を失い、自分らしく生きることが困難になっています。 だから、本来は山で暮らしている熊が人里に降りてきてトラブルを起こしたり、世界中の生き物たちがどんどん死に絶えているのです。 直接的に殺してはいなくても、生きることが困難な状態に追い込んでいるのなら、それは殺しているのと同じなのに、そこは保護活動を行うなどのきれい事で何とか誤魔化します。 自殺に関しても、子どもや多くの人を自殺に追い込むような学校や社会の状況の方は問題化せずに、「いのちの電話」などを開設したり、「自殺を止めよう」というスローガンだけは積極的に流します。 そして、何の恥じらいもなく「命を大切にしよう」などと言います。 そこには見栄や体裁ばかりを気にした「きれい事」があるばかりです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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