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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2013.10.09
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今、テレビの影響で「やられたら やり返せ」「倍返しだ」「100倍返しだ」という言葉が流行っていますが、このような言葉が流行るというのは、それだけ人々の中に「恨み辛み」や「満たされない感情」や「不平不満」が溜まっているということなんでしょうか。

また、子どもがいじめられた時に、「やられたらやり返せ」と教える親は昔からいました。

少しネットで調べたら、「やられたらやり返して何が悪い」という意見の方が、「そんなことをしても何の解決にもならない」という意見より多く、また強いような気がしました。

また、「そんなことをしても何の解決にもならない」と言っているのは教育の専門家が多いような気がしました。

「やられたらやり返せ」と言っている人は、「我慢しているだけでは自分の身を守ることが出来ない」ということを言いたいのでしょう。

それはそれで事実だと思います。いじめる人や攻撃する人は自分の「気持ちがせいせいするような結果」を求めているので、我慢しているだけだと「結果」が見えないため、結果を出すために次第にイジメや攻撃がエスカレートして行く恐れもあります。

では、「やり返せば身を守れるのか」というと、それはそうではないような気がします。

そもそも、一般的に「いじめっ子」は最初から「反撃して来る恐れがない子」「反撃してきても弱い相手」を選んでいじめるものです。

それは「弱いものイジメ」が「弱いもの」がやる行為だからです。
常識的に考えて、「弱いもの」は、自分より強い相手をいじめるようなことはしないのです。

大人の社会では、人間的には弱いくせに権力を笠にして、権力的に弱い立場の人をいじめるようなことをしますが、子どもの社会にはその「社会的な権力」というものがないので、「弱いもの」は「さらに弱いもの」を選んでいじめるのです。

さらに、最近のイジメは「集団」で行っているので、反撃も難しいでしょう。

昔は「いじめっ子」という特定の子がいましたから反撃も可能でしたが、相手が集団だと反撃する対象が消えてしまうのです。

直接的に自分を殴ってきた子に殴り返しても、その子が単にイジメグループの一員に過ぎなければ、相手はグループとして色々考え、ゲーム感覚でよりイジメを楽しむように工夫してくるでしょう。

そして、いじめられている子に反撃され殴られた子も、「僕はもういじめるのは止める」とは言いません。そんなことをしたら、今度は自分がイジメの対象になってしまうからです。

「やられたらやり返せ」が通用するのはイジメが「個人対個人」の場合だけです。

昔のスポ根マンガでは、そこで「お前は見所がある」と友情が芽生えることもありましたが、グループで一人の子をいじめているような状況では、そんなマンガチックなことは起きません。
そして、余計にイジメをエスカレートさせてしまうばかりです。

だからといって、「ただ我慢している方がいい」ということではありません。ただ我慢しているだけでは、いじめっ子はゲームを面白くするためにさらにイジメをエスカレートさせていくでしょう。

グループでいじめている場合それは「ゲーム」なので、反応しない相手には反応するまで追い詰めるのです。

ここで私が不思議に思うのは、そもそも、いじめられた場合、どうして「やり返す」か「我慢するか」というような二者択一の論理になってしまうのかということです。

他に選択肢はないのでしょうか。


インドのガンジーは自分たちを差別してくる相手に対して、やり返したりはしませんでした。だからといって、ただ我慢して泣き寝入りすることもしませんでした。

彼は、世界に向けて正々堂々と自分たちが置かれた現状や、自分たちの気持ちと意志を言葉と行動で表現したのです。

ただやり返しただけでは簡単につぶされてしまっていたと思います。なぜなら、権力の中枢にいるのは差別する側の人間ばかりだからです。

ここで強力な武器になったのは「隠されていたものを明らかにし、自分の気持ちと意志を言葉と行動で表現する」ということです。

そして、支配してくる相手に対して「自分は支配されない。自分は自分らしく生きる」という姿勢を守り通したのです。

殺されてもです。


これは「我慢」とは違います。また、ただ単純に「やり返す」行動よりも強い決意が必要です。

実際に、殺されても殺されても「自分らしく生きる」という姿勢を貫いたのですから。

そして、そのことで世論や世界が動いたのです。

イジメで言えば、いじめられていることを隠さない勇気を持つことです。そして、自分らしく生きることを貫くことです。

自分は悪くないのですから隠す必要なんか何にもないのです。


実は、「やられたらやり返す」というのは「弱さの裏返し」なのです。

そして、「やられたらやり返す」という関係の中では、「やったり やられたり」が永遠に繰り返されます。

敵討ちと同じです。

アフリカなどでの部族紛争はその原理のため泥沼化してしまっています。

それにそもそも、子どもの場合、やられたからといってやり返したいとは思っていないものです。

「やり返したい」というのはプライドやメンツにこだわる大人の論理です。

子どもはただみんなと仲良く遊びたいだけなんです。「やられたらやり返せ」というのはそのような子どもの心を無視したものです。


また人間は、「やられたこと」はよく覚えていますが、「自分がやったこと」はあまり自覚していないものです。

ケンカしている子どもの話を聞くと、双方共に「やられたこと」ばかりを主張して、「自分がやったこと」は言いません。というか「やったこと」は無意識的な行動なので覚えていないのです。

韓国や中国との問題がなかなか解決しないのもその事実認識に対するギャップが大きいからです。

また、「やられたらやり返せ」という論理を是とする人は、相手にもその論理を認めなければなりません。

自分はやり返していいが、相手にはその権利がないなどと考えるのは横暴です。

先の戦争の時も、韓国や中国が最初に日本を攻撃して来て、「やられたらやり返せ」的に韓国や中国を攻めたわけではありません。

そうではなく、(それが侵略であろうとなかろうと)日本が日本の都合で韓国や中国に侵攻し、そして民族の自治を否定し、支配したのは事実なのですから、「やられたらやり返してもいいんだ」という論理が是なら、日本はやり返される立場にあるわけです。

日本は様々な保証や償いをしたと言いますが、民族の血の中に刻み込まれた心の傷はそう簡単に癒えるものではありません。

だから、中国や韓国には「やり返せ」的な強硬論者がいっぱいいるのです。

そんな中国や韓国の態度に、さらに「やられたらやり返せ」と主張する日本人もいっぱいいます。

でも、お互いにそんな論理で行動していたら、いつまで経っても「平和」はやってきません。それは日本にとっても、韓国や中国にとっても悲しいことです。

どこかで、その論理を超越する必要があるのです。





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Last updated  2013.10.09 13:26:03
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