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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2014.01.29
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カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日も書いたように、人間の思考や心や精神やからだは、「意識」と「無意識」という二つの働きによって支えられています。

緊張すると呼吸が浅くなったり、声が出にくくなったり、表情やからだが固くなったりするのは「無意識」の働きの結果です。

子どもを叱らないように自分を抑えていても、「気付いたら叱ってしまっていた」というようなことも「無意識」の働きの結果です。

人間は、「意識の世界」の中で起こっていることは自分自身でも知ることが出来るし、意識の働きで関わることも出来ます。

手を上げようと意識して手を上げた時には、自分の心とからだの状態を意識しながら手を上げることが出来ます。ですから、「もっとゆっくり」とか「もっと早く」と言われれば、そのように動くことも出来ます。

でも、怒ったり、びっくりなどして手を上げるような場合には、その動きをコントロールすることは出来ません。無意識が働いているからです。


私は結婚後、数年間ですが妻と二人で茶道を学んでいました。鎌倉に宗家がある「宗編流」という流派です。

その時、よく先生から注意されたのは、「引く手が汚い」ということでした。茶碗を出す時には注意深く出すのですが、茶碗を置いて手を引く時に意識が外れて、無意識的な動きになってしまうため、美しくなくなってしまうのです。

茶道でも武道でも、日本の「道」と呼ばれるようなものはみんな無意識の世界と向き合うことを求めています。

日本人にとっては、その深さが「美」なのです。

欧米の文化では「意識の世界」に美や文化を求めましたが、日本では無意識の世界の中に浸ることの中に美や文化を求めてきました。

それは「コントロール」や「人智」を超えた「あるがままの世界」です。
「無為の美」です。

茶道において、「侘び寂び」(わび さび)と呼ばれるものもそのようなものです。

なぜなら、「生命の世界」は「無意識の世界」の中にこそ感じる事が出来るものだからです。ちなみに、「古代神道」は「生命の世界」を神とする宗教です。

欧米は「動の文化」で、日本は「静の文化」であるというような言い方も出来るかも知れません。


私がいつも、「自分を取り戻すためには、ゆっくり丁寧に動くことを心がけて下さい」と書いているのもそのためです。

実は、人は早く動いている時には意識は他者に向かうため、自分自身の心やからだに意識を向けることが出来なくなり、無意識の働きに支配されてしまうのです。

それに対して、ゆっくりと丁寧に動いている時には、自分の心やからだや動きに意識が向かうため無意識の働きを感じやすくなり、「無意識の働き」に支配されにくくなります。

そして「意識」と「無意識」の間の矛盾や対立が減り、心とからだが安定します。


でも、現代社会はそれとは正反対の方に向かっています。だから頭でっかちになるばかりで、心とからだの生命力が萎えてきてしまっているのです。

その状態から抜け出すためには、「ゆっくり」と「丁寧」を生活の中に取り戻す必要があります。

私はいつも「からだを使って下さい」と書いていますが、それは「運動のため」ではありません。そうではなく、「自分」と向き合うためです。ですから、「ゆっくり」と「丁寧」が必要になるのです。

などというようなことを言うと、「忙しくてそんな悠長なことなんかやってられない」とおっしゃるかも知れませんが、人間が人間らしく生きるために必要なことはそんなに多くはないはずです。

無駄なことをいっぱい詰め込んでしまっているから忙しくなってしまうのです。


【無為】(KOTOBANKより)
道家思想の根本概念の一つ。道家思想では,一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた超感覚的実在ないしは天地自然の理法としての〈道〉のあり方を体得することを窮極の目的とするが,その〈道〉のあり方を示すのが〈無為〉という概念である。〈無為〉とは人為の否定を意味するが,けっして何もしないということではない。それはいっさいの人間的営為を〈偽〉として否定したうえで,天地自然の理法にそのまましたがった真の〈為〉を実現することであり,正確には〈無為の為〉なのである。

日本語本来の「自由」とか「自然」という言葉の意味は、この「無為」の思想とつながっています。

それは、「束縛」に対する「自由」ではないし、「人工」に対する「自然」でもありません。
「対立する他者」が存在しない世界です。





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Last updated  2014.01.29 06:56:56
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