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人間は自分にとって必要な言葉しか覚えません。また、実際に体験したことがあることに関する言葉しか理解出来ません。
さらには、意識化できることしか言葉化することが出来ません。言葉は意識の表れそのものだからです。 逆に言うと、その人の「言葉」を聞くことで、その人の「意識のあり方」が見えてくるということです。 これは以前も書いたことですが、言葉だけでなく、人間の「人間らしさ」を支えている多くの機能は、必要に応じてしか成長しないように出来ています。 また、その場に、その能力を実際に見せてくれる「お手本」がいることも必要です。 コミュニケーションの必要があっても、側に「言葉」を話す人がいなければ、「言葉」を学ぶことは出来ないのです。 ここで必要になるのが「必要性」と「お手本」です。この二つは「子どもの能力の育ち」において絶対的に必要な条件です。 どちらが欠けても子どもの能力は育ちません。 逆に言えば、生活の場で「必要性」があり、側に「お手本」がいるなら、子どもはその必要性に応じて成長することが出来るということです。 それが人間の可能性であると同時に、限界でもあります。 その「必要性」によって人類は自分たちの能力を開花させてきたのですが、現代社会では、便利な機械が人間の代わりに色々とやってくれるようになったため、その必要性を失ってしまいました。 また、人と人のつながりも希薄になってしまったため、「お手本」もいなくなりました。現代社会では、親と子のつながりですら希薄になってしまっています。 そのため、何万年とかけて育ててきた人間の能力が急激に低下し始めています。でも、人と人のつながりが希薄な社会ではそのことに気付く人も多くありません。また、自分自身もそのような状態になってしまっている人は、それを「問題」として認識することも出来ません。 ゲーム漬けになっている大人は、子どもがゲームばかりやっていてもそれを問題視することが出来ないのです。 そのような状態に対して、「そういう能力が必要がない社会になって来たのだから、そのような能力など育たなくてもいいのではないか」と考える人も多いと思います。 でも、感じる力、創造し想像する力、思考力、行動力、自分の心とからだをコントロールする能力、考えや感覚や感情を伝える能力、相手の言葉を理解する能力などは現代社会でも必要です。 そして、そのような能力を育てるためには、現代社会では必要がなくなってしまった活動も必要になるのです。 なぜなら、それらの能力は、何万年もかけてそのような活動を続けてきた結果得た能力だからです。そのため、その活動を省略したら、その結果も失うのです。 子どもの成長は「人類の進化」の再現なのです。 受精卵の状態から、ちゃんと順を追って「生命の歴史」を繰り返さないことには「現代」にたどり着けないのです。 胎児の時の、「魚」のような状態、「両生類」のような状態が必要ないといって、そこを省略させようとしたら、「人間」にたどり着けなくなってしまうのです。 だからこそ、幼いときには自然の中での仲間や大人との関わり合いが必要になるのです。 そのような状況でしか伝えようのない「言葉」や、「感覚」や、「技術」や、「考え方」や、「生き方」があるからです。 それは「生命につながる言葉」や、「つながりの感覚」や、「自由という体験」や、「助け合う喜び」や、「工夫する喜び」などです。 現代人には「森の中での生活」は必要ありませんが、森の中でしか学ぶことが出来ないこれらの能力は、現代社会でも一人の自立した人間として生きて行くためには必要な能力なのです。 現代社会においても、「家や親の保護」から離れて社会の中で一人で暮らすためには、森の中で生きて行くのと似たような能力が必要になるのです。 大人達がそのことを忘れ、子どもを小さいときから人工的な環境の中ばかりで育ててしまっているから、「社会」に出て行くことが出来ない若者が増えてきているのです。 また、狭い部屋の中で、テレビやゲーム機や便利な機械に囲まれた生活の中では「生命につながる言葉」を伝えようがありません。 「生命」と出会ったことがない子に、「生命の教育」など無意味です。 神戸の子は「生命」と出会いたかったのかも知れません。 「つながりの感覚」や、「自由という体験」や、「助け合う喜び」や、「工夫する喜び」も伝えようがありません。 そうですよね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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